地に潜って
「それ、どういうこと?」
顔を強張らせた翔が小さく言った。
ニーズを起こした後。
日本語で会話を始めた翔は早速ニーズに帰ることについて話を持ちかけた。
起きた直後から何故かニーズが焦りを感じていたので亜里沙が問いかけると、帰ってきた言葉は。
『もう一度言うが、再び穢れが広がり始めたのを感じるのだ』
遠征中のこと、トランティアで見たものが思い出されて気分が悪くなる。
「それはいつから? まさか、今突然気づいたなんて言わないよな?」
『それが……目覚める前には気づかなかった』
「えっ、じゃあ本当に今気づいたの?」
『ああ。だが、それは我が見落としていたという話ではない。ここまで広がるまで気がつかないなど、あり得ない』
「え……穢れってそんな一気に広がるもの?」
『確かにそうなってもおかしくないほどには、母の心も世界も疲弊している。だがこれは、恐らく何かがあったのだ』
「何かって、例えば?」
『聖域に入って母を傷つけたり、神木を穢したり……もしくは母の心が耐えられないような何かが起こる、などだ』
「場所は特定できる?」
『恐らく……地に深く潜った所』
「地下ってこと?」
『ああ、そしてそれは王都のどこかだ』
「えっ?」
それを聞いた亜里沙は驚愕の声を上げ、翔は眉を顰めた。
「規模はどのくらいなの? もう巣はできてる?」
『トランティアほど、とまではいかないが近いものがある。まだ巣ができるほど濃くはない、今のところは』
「それが広がる速度は? 地上が影響を受けるまでどのくらい猶予がある?」
『何とも言えない……だが地中には母の大樹の根だけでなく神木の根や潜ったフロースも数多く存在している。地上で広がるよりは抑えられるはずだ。だから、すぐにはトランティアの時のような事態にはならない』
翔は少し考えると、突然立ち上がって足早にエドワードのもとへ向かう。
(でも、人が沢山集まる場所は大丈夫だって)
『そうだ……いや、そうだった』
ニーズがそう過去形で言い切って、言葉を失う。
亜里沙はしばらく、深刻な様子のエドワードと翔を見守った。
ふたりは時々言葉を交わしながら何かを待っているようだ。
ふと窓の外を見ると、昨日よりも濃いオレンジが空を染めていく様子が見える。
そして、いつの間にか部屋を出ていたアルバートが戻って来て、エドワードに何かを告げた。
エドワードは一度亜里沙を見て、すぐに翔に何かを言うと、アルバートと共に急いで執務室を出て行った。
翔が暗い面持ちで亜里沙のもとに戻ってくる。
「ねえ、どうしたの? 何かあったの?」
不安でソファから立ち上がっていた亜里沙は、翔に歩み寄って問いただした。
「多分……キーランだ。キーランに何かがあった」
「えっ!?」
ガン、と頭を殴られたようなショックから、思った以上の大声が出た。
「な、何かって? どういうこと? 無事なんだよね?」
「座って、亜里沙ちゃん」
翔が肩を支えるようにして亜里沙を促す。
亜里沙がソファに腰を下ろすと、翔も隣に並んだ。
亜里沙は一度深呼吸して翔を見た。
「……どうして、キーランに何かがあったって思ったの?」
声がかすかに震えてしまう。亜里沙は拳を作る両手に力をこめた。
「それは……たった今、エドワード様が陛下に呼ばれたから」
「だからっ、どうしてそういう話になったの? キーランはどこにいたの? ちゃんと分かるように教えて!」
詰め寄るように声を荒らげた。冷静な態度など簡単に崩れてしまう。
翔は一瞬言葉に詰まったが、落ち着いた口調で答えた。
「じゃあ順番に説明するね。さっき詳細を教えてもらったんだけど、キーランは昨日の朝城を出て、療養先の領地に馬車で向かった。三日ほどかかる場所だそうだよ。本当なら向こうの領主からの返事を待つべきだけど、王様の親族だし、それに、ある事情のせいで待てなかった」
「その事情は何?」
「亜里沙ちゃんに会いたいと言ってきかなかったらしいんだ。様子も不安定で」
「そう、だったんだ……」
「だから一昨日の夕刻、王様は使者を先触れとして出した。俺が亜里沙ちゃんに城に来るよう手紙を出した頃だね。そして昨日の朝、何とか説得したキーランを馬車で送り出したそうだよ。……で、俺はキーランが療養という名目で領地に向かうことは知ってた」
亜里沙が小さく頷くと、翔は続けた。
「それで、俺がキーランに何かあったんじゃないかって思ったのは、神木や大樹が傷つけられたっていうのがちょっと考えにくかったからだ。穢れの場所が地下っていうのがまだよく分からないけど」
「うん……それで」
「穢れの原因が精神的なことだとして、女神の心にストレスがあったとしたら、夫のことか、女神から特別に愛されているっていうキーランのことだろ」
夫はもう今更だし、と翔が呟く。
「で、でも、何があったって言うの? キーランはもう療養に向かってたんでしょ」
「そう、向かってた。だから、穢れが起きたのがこの周辺なんじゃないかって思ったんだ。向かってる途中でキーランに何かがあったから」
「何か、が……」
小刻みに震える亜里沙の背中を翔が遠慮がちにそっと撫でた。
「……それでエドワード様に話して、何かそういう報告が来ていないか確認してもらっていた。そうしたら王様がエドワード様を呼んだから……キーランのことで」
『だが何故急に……今キーランに何かが起こったのだとしても、キーランは今までも耐え難いほどの苦痛を受けてきたはずだ』
「そうだけど、女神は自分がキーランを苦しめていることについては自覚もしていなければ気づいてもいないだろ、九年前の時以外では。キーランが一度重症を負った時も、そもそも水が汚染されるほど世界が穢れていた時だった」
「もしかしたら……呪い? キーランがまた誰かを攻撃しちゃったのかもしれない」
ニーズが言い淀むように答える。
『……呪いは苦痛を与えるが命を奪うものではないし、アストラムが自ら、己と血を引く者に対して科したものだ。それにあれの苦痛はもう、キーランが女神の力を受け入れれば抑えられる』
「じゃ、じゃあ……何があったって言うの」
「多分、キーランが誰かに攻撃されたんだと思う。もう反撃できるんだから負けることはないだろうけど……」
亜里沙の心臓が、不吉な予感で早鐘を打ち始める。
「だけどその状態のままいつまでも無事ではいられないだろうし、キーランが自力で脱することができない状況に置かれてしまっているんじゃないかと思う。そしてそれを女神が知ってしまったんじゃないかって」
「そ……それじゃ、助けに行かないと」
亜里沙はもう、平常心すら保っていられなかった。どこに行くべきかも分からないが、動かずにはいられない。
立ち上がる亜里沙を翔が止める。
「落ち着いて。今エドワード様が確認を急いでるから」
エドワードが帰ってくるまでにしばらく時間がかかった。
もう部屋の中まで夕刻が侵入し、その色は恐ろしさを感じさせるほど赤かった。
そして、執務室に入ってきたエドワードは深刻な様子でまっすぐ亜里沙と翔のもとへやってきた。
亜里沙も翔も立ち上がってエドワードに向き直る。
隣で亜里沙を支えるようにしていたソフィーが離れた位置に戻ると、エドワードは話を切り出した。
「……キーランの消息が途絶えた」
吐き出された言葉は重苦しく、エドワードの焦燥が窺えるようだった。
亜里沙は頭からつま先まで血の気がさっと引いていくのを感じる。
「何があったんですか?」
翔が聞くと、エドワードは亜里沙を見て、目を逸らした。
「カケル、来てくれ」
「待って! 私にも教えて!」
亜里沙はエドワードの腕を掴んで叫んだ。
エドワードがそれでも口を開かずにいると、翔が割って入った。
「エドワード様、今言わなくても同じです。キーランのことだから……俺が亜里沙ちゃんに教えますよ」
「ではお前にも言わない」
エドワードがそう言って踵を返す。亜里沙は追い縋って叫んだ。
「お願い! 何があったのかちゃんと教えて!」
しばらく迷った末、エドワードはしがみつく亜里沙の手をそっと離すとふたりに向き直り、観念したように息を吐いた。
「分かった……その代わり、行動するときには必ず僕に相談すると約束してくれ。独断で動くようなことはしないで欲しい」
亜里沙と翔が頷くのを見て、エドワードは詳細を教えてくれた。
「先ほど知らせが届いた。キーランは昨夜、領地に向かう途上で襲撃を受け、連れ去られたようだ。馬車の車体と同行した護衛全員、騎士ひとりの死体が確認され、キーランと馬は消えていた」
「どうやって発覚したんですか?」
「生き残った騎士がいた。乱戦となった際に離脱して、近くの砦へ向かった。明け方に砦に着いて襲撃を知らせたが、重症を受けていたため意識を失い、今は昏睡している」
「……死体はそのままだったんですか?」
「いや……焼かれていた」
「襲撃犯の死体は?」
「なかった。だが報告にあった戦いの跡から、かなりの死者が出たはずだ。報告の記述からも襲撃犯が偽装しようとした痕跡がうかがえるが、時間がなかったのだろうな。運んだとは考えにくいから死体は近くに隠されているはずだ」
「隠したのは時間稼ぎ……? 足がつくことを考えて? じゃあ野盗やただの賊の仕業じゃないんですね」
「ああ。そもそもアストラムを母に持ち、大型のイドルもひとりで倒してしまう力を持つキーランを、襲撃する人間がいるということが考えられない」
「それなら、死体が見つかれば、焼かれていたとしてもそこから辿れるかも……あれ、もしかしたら犯人はキーランが人を攻撃できないことも知っている?」
「……その可能性はある」
「それじゃかなり……絞られるんじゃないですか」
「ああ、そうだ。だがそうなると……」
エドワードは眉を顰めた。
「それについて陛下とパーシヴァルとも話し合った。確かにキーランを襲撃するということは、あれを知っている者である可能性が高い。だが理由が分からないんだ」
亜里沙がある人物への疑いを隠さず表情に浮かべると、察したエドワードが首を横に振った。
「ブラハドも含めてだ、アリサ。わざわざこんなことをする理由がない」
「別館でのことは?」
「死者は出ていない。後遺症が残るようなこともなく、皆回復に向かっている」
「動機、か……」
翔が呟く。エドワードは翔に目をやった。
「それだけではなく、今襲撃したというのも分からない。これまでにいくらでも機会はあったはずだ。それこそ穢れが落ち着く前だったなら、犯行を誤魔化しやすいし打ってつけだったろう」
「でも他にいそうですか?」
「キーランが療養に向かったことを知る者は多いし、抱えた問題についてどこかから漏れた可能性もある。そうなると……範囲は広がるな」
「どちらにしても、やっぱり一番可能性が高い人たちから調べるべきなんじゃないですか? 調べるってことは疑ってるって宣言するのと同じだろうから、確かに慎重にならないといけないとは思いますけど」
エドワードは少し考え込んだ後、頷いた。
「ああ……そうだな。やはりそこから調べるべきだろうな」
黙って聞いていた亜里沙の脳裏に、ふとある人物が浮かぶ。
だがそれは先ほど考えたヒューゴではなかったし、この件で亜里沙がその人物を疑うわけがない。
それは亜里沙の考えであるはずがなかった。
(やめて……そんなわけないでしょ……!)
亜里沙は警戒するニーズの考えを振り切ってエドワードを見つめた。
「キーランは……大丈夫だよね? 強いんだから大丈夫でしょ? 絶対無事でいるよね?」
泣き出しそうな亜里沙を見てエドワードの表情がわずかに歪む。
エドワードも兄の安否を思って不安なのだと気づいて、亜里沙は口をつぐんだ。
だがエドワードは亜里沙を安心させるように手を繋いでくれた。
「大丈夫だ、アリサ。僕が必ず見つける。だから先ほど言ったように、もし何か行動を起こすなら僕に相談することを忘れないでくれ」
エドワードに手を握られてほんの少し落ち着いた亜里沙は、その手を握り返して頷いた。
「あの……言いにくいんですけど、このことに関連して報告があります」
「何だ?」
「アストラムの血を引くキーランが連れ去られたので、また穢れが発生したみたいです」
エドワードの目が見開かれる。
「何……」
「王都のどこか地下で、トランティアの時のような大きな穢れができている、とニーズが教えてくれました。場所の詳細は分からないけど、穢れが広がる速度は遅いので地上のものよりは猶予があるみたいです」
エドワードはしばらく言葉を失っていたが、やがて小さく息を吐くと頷いた。
「……分かった。陛下と王太子にも伝える。穢れの規模が大きいからお前たちはできる限り単独で行動しないように。カケルにも専任で護衛する騎士をつけよう」
亜里沙と翔はそれに従うように返事をした。
エドワードが執務室から出るので亜里沙たちも退室することになった。
「アリサ」
エドワードが先に出る亜里沙を呼び止めて、そばに来ると黒い革張りの本を手渡してくる。
一瞬何か分からなかったが、あのスケジュール帳だった。
受け取った亜里沙は目を丸くしてエドワードを見る。
「これ……いいんですか?」
「ああ。必要がなくなった時に返してくれ。それまではアリサに預けるよ」
「あ、ありがとう、ございます」
「アリサの話はちゃんと聞くから、くれぐれも無茶をしないように……何かあったら必ず言ってくれ」
念押しするエドワードに、亜里沙は頷いた。
帰還についての話し合いは亜里沙の部屋に場所を移して続けることとなった。
いつものようにティーテーブルで翔と向き合い、日本語で会話をする。
「キーランを助けることができれば、穢れは落ち着く?」
翔の質問にニーズが迷う。
『恐らく……キーランのことだけであればいいが……穢れの大きさが普通ではないからな』
翔はしばらく考えるように目を伏せた後、静かに口を開いた。
「じゃあ、この数日のうちに入り口を開くことは難しい?」
「翔くん……?」
『いいや……今ならまだ、大丈夫だろう。穢れが広がってすぐに力が弱まるわけではないから』
「じゃあ、もし」
言いかけた翔に、亜里沙はその先の言葉を封じるように怒鳴った。
「だめ! キーランとこの世界を助けないと私帰らないから! い、いくら翔くんが言っても……私……」
静寂が訪れ、しばらく翔と見つめ合った。
そして翔の眼差しがふと悲しげであることに気づいた時。
亜里沙が取り繕う間もなく、翔は小さく頷いた。
「……分かった。だけど俺とニーズにとって一番優先したいのは亜里沙ちゃんの無事だから、それは覚えておいて」
「な、何言ってるの……翔くんも無事でいなきゃ」
翔は一瞬目を丸くして、そして微笑んだ。
「そうだね、もちろん」
亜里沙は、どうしてかその微笑みに不安を覚えた。




