最後の忠告
亜里沙はルージェンが座るソファの向かいに腰掛けた。
「私は明日帰国するの。もう二度と会うこともないでしょうから、最後に話をしたくて」
「あ、は、はい」
「このことは伏せておいてちょうだいね」
「もちろんです」
灯りが近くに寄せられて、その仄暗い中に浮かび上がるルージェンの美しい顔を見つめる。
何故かこの光景に既視感がある。
あの宿での騒動の後、忘れて欲しいと言ったラティファと、ちょうどこんな灯りの中で話したことを思い出した。
ふとした瞬間に、双子だったかと思い違いをするほど似ている姉妹。
表向きには従姉妹で通しているらしいが、誰も疑ったりしないのだろうか。
(あれ……この、香り)
亜里沙はふと、先ほども嗅いだ香りが気になった。
ほのかに漂うこの涼やかな香りに、違和感を覚える。
「あ、あの……ルージェン様は、もしかして、三日前の夜にナイグラードの宿に」
「あなたは本当に学習しないのね」
ルージェンが冷たい表情のまま、亜里沙の言葉を遮った。
「王族をそんな風に見つめるなと言われたのではなかったかしら?」
「あっ」
亜里沙は慌てて目線をテーブルに落とした。
「冗談よ」
亜里沙は驚いて目線を戻す。
冗談、にしてはルージェンの表情は一つも変わっていない。
「まるで夫の愛人に会いに来たような気分だわ」
冷ややかな微笑みが浮かんで、亜里沙は緊張した。
「あっ……、あの、それは、私が」
「冗談よ」
わざわざ真顔に戻してそう言い放ったルージェンに、亜里沙はしばらく開いた口が塞がらなかった。
ソフィーが出したお茶に優雅に口をつけて、ルージェンは小さく息を吐いた。
「……でもこれから話すことは冗談ではないわ」
カップを静かに戻して、ルージェンは亜里沙を見つめた。
「もうこれ以上関わるのはやめなさい」
「……え……な、何に」
「この世界の全てのことによ」
ルージェンは静かな口調なのに、その言葉は棘のように亜里沙を刺してくる。
「もうそろそろあちらの世界に帰れる頃のはず。これ以上余計なことはせず、おとなしく過ごしてその日を待ちなさい」
「そ、そんなことできない……」
咄嗟に否定の言葉が飛び出す。
この世界を救う手立てを考ないといけない。
そのためにエドワードの執務室に、あのスケジュール帳を読みに行くのだ。
そして、きっとそれが、一緒にいられる最後の時間になる気がしていた。
胸の痛みに顔を歪めた亜里沙に、ルージェンが同情してくれるはずもなかった。
「現実を見なさいと言ったわよね。いくら想っても苦しいだけよ。もうその気持ちは奥底にしまって鍵をかけるのよ。忘れてしまいなさい。そして」
「そんなことできない!!」
亜里沙は叫んでからハッと口に手を当てた。
思った以上の拒絶反応に、自分でも驚愕した。
ルージェンの顔を見て、背筋が冷えていく感覚を味わう。
ルージェンは表情を変えなかったが、亜里沙の大声に対して一層静かな声になった。
「……何も関係がなかったあなたたちがこんな世界に呼ばれてしまったことについては、私も気の毒に思ってる。だからこその忠告よ。そしてこれは、私個人からあなたへのお願いでもあるの」
「お、お願い……?」
「私の姉妹」
「ラティファ?」
ルージェンは答えず、目を伏せた。
「……彼女には沢山の重荷を背負わせてしまった……本当なら私が背負わなくてはならなかった分も、全て。だからこれ以上彼女の足を引っ張らないでもらいたいの」
「わ、私が? いつ、足を引っ張ったっていうんですか?」
「あなたが関わってくるとあの子は判断を誤るのよ」
「え……?」
「一度だって間違えたことのない子よ、そう育ったから。研ぎ澄まされた刃のようなあの子が、あなたと出会ってから鈍ってしまった。あの鋭さは、あの子自身を守るために必要なものなのに」
ルージェンの語調が初めて乱れた。
だんだんと荒くなって、そしてルージェンはハッとして口を閉ざした。
少しの静寂の後、ルージェンは立ち上がった。
「……来るべきではなかったわ」
亜里沙は思わず立ち上がって、出て行こうとするルージェンの前を塞いだ。
「ルージェン様ごめんなさい。言われたことは、私にはできません」
「もういいわ。どいてちょうだい」
「私にはやらないといけないことがあって、それは誰に何を言われても絶対にやめられません」
ルージェンの眉根がわずかに寄った。
亜里沙は構わず、ルージェンに訴えかけるようにその瞳を見つめる。
「それから……私は、私の世界に帰っても……この先もずっと、エドワード様へのこの気持ちを忘れたりしません……できません」
ルージェンは亜里沙を咎めなかった。
それどころか、ルージェンも亜里沙を見つめ返した。
都合の良い思い込みかもしれないが、それはまるで亜里沙の想いを受け止めてくれたかのようだった。
「そう……覚悟を決めたのね」
亜里沙が頷くと、ルージェンはもう何も言わなかった。
少しして、ルージェンは亜里沙の部屋を出た。
すぐに走り寄ってきた侍女に小声で何か伝えると、ルージェンはドアの外で一度亜里沙を振り返った。
そして、微笑みを浮かべる。
「さようなら、アリサ」
その言葉を聞いて、もう会うことがないのだと、確かに亜里沙もそう感じた。
「はい……さようなら、ルージェン様。元気でいてください」
すると、ルージェンが目を細めた。
その優しい笑みを目にできたのはほんの数秒。何故最後に優しさを見せてくれたのかは分からない。
その笑みは、一際美しく見えるものだった。
翌日。
落ち着かなかった亜里沙は少し早めに朝食を摂った。
一度部屋に帰った翔が再び亜里沙を訪ねてくる。
「昨日の殺人の件だけど、どうなったかな。誰が調べてるの?」
亜里沙があまりに落ち着かないのでソフィーがお茶を用意して、ティーテーブルにつくと亜里沙は切り出した。
「警察みたいな専門の組織はないから、犯罪に対処する役割の人はその地域で変わってくる。この王都では主に常備軍の兵と、それを指揮する騎士が調べるんだ。場合によっては聖職者もそれに協力する」
「司祭とか?」
「異端審問官みたいな人たちがいるんだよ」
「そうなんだ……」
確かあちらの世界では宗教裁判に関係する役職だったはず。すらすら答えてくれる翔は、随分色々と調べたのだと亜里沙は驚いた。
「大きな事件になると貴族や王族が直接指揮したりする。王都でその役割を担ってるのはエドワード様だよ。本当なら成人の儀を済ませた王族がその役を担うんだけど、エドワード様は早めに任されたみたいだね」
「じゃあ殺人だったら……」
「立場にもよるけど、被害者は職人組合の長だし、エドワード様が調べてると思う」
昨日のエドワードの様子を思い出しているのか、翔は難しい顔で考えている。
必要以上に踏み込むつもりはない。だがやはりこの件はどうにも不穏だ。
エドワードとロナンが対立しないでいてくれるならそれが一番だが、せめてこれ以上深刻になって欲しくない。
だから一刻も早く解決して欲しかった。
それから少しも経たないうちに亜里沙と翔はエドワードの執務室に呼ばれた。
執務室にはアルバート以外の貴族の青年がもうひとり、そしてエンリク含めて数人の騎士が出入りした。
皆黙々と動いてはエドワードに何やら報告し、エドワードはずっと羊皮紙に目を落としたり考えたりしている。
呼ばれはしたものの、何の用件かも告げられない。
翔と共にソファに腰掛け、ソフィーとイザベラは邪魔にならないよう、少し離れた場所に立った。
亜里沙も翔も遠慮して声をかけられず、しばらく経った。いつの間にか昼も過ぎたようだ。
亜里沙たちには食事が用意され、忙しそうな人々を見て申し訳なく思いながら黙々と食べた。
エドワードは一度長いこと席を外したが、その時にルージェンが帰ってしまったのだとソフィーが教えてくれた。アストリドはルージェンより先に帰国の途につき、亜里沙は見送ることもできなかった。
昼食後、またしばらく経過した後。
アルバートがエドワードから渡された小箱を持ってやって来て、それを亜里沙に渡してくれる。
スケジュール帳を読ませてくれるようだが、何故直接渡してくれないのだろう。
亜里沙はもう何度もエドワードを振り返っているが、執務室に入って挨拶した時以来一度も目を合わせてくれない。
「何だかピリピリしてるね」
亜里沙は翔を振り向いた。
一瞬自分に言われたと思ったその言葉は、エドワードに向けられたもののようだった。
スケジュール帳を読もうと開いた時、誰かが執務室を訪ねてきた。
エドワードが通さないよう命じたようだが、その人物は結局入ってきた。
貴族の青年が外から入室する際、強引に割り込むように部屋に乗り込んだのだ。
「何をしている」
エドワードが語気を荒らげてそう言った相手はロナンだった。
ロナンはエドワードに挨拶もなく、すぐに亜里沙たちを見つけると歩み寄った。
「マクベルド!」
エドワードが持っていた書類を荒々しく机に置いて大股でこちらに向かってくる。
イザベラがロナンの進路を妨げるように亜里沙のそばに立つ。
室内が一瞬で緊張に包まれる。
視界の端でエンリクが他の騎士と言葉を交わし、その騎士が出ていくのが見えた。
エドワードもイザベラも無視したロナンは、少し手前で立ち止まった。
「おはようございます」
目を合わせて第一声のロナンの挨拶が暗い。
表情もどこか怒っているようで、亜里沙は怯んだ。
「あ……昨日、人が殺されて」
思わず出た言葉がそれだった。
「知っています」
「ご、ごめんね。まだ殺人犯が捕まってなくて、安全のために城に泊まったの」
「アリサ、話さなくていい」
エドワードがやって来て、亜里沙の腕を取る。
亜里沙は誘導されるように、エドワードの後ろに立たされた。
「……本当に困った方ですね」
「ごめんロナン、ちゃんと帰るつもりだよ」
「殿下のことですよ」
亜里沙は目を丸くしてロナンを見た。
「私個人は、好ましいと思っていたんですよ、殿下のことは。ただ最近の殿下は少し」
言葉を切って、ロナンは亜里沙に微笑んだ。
「帰りましょう、アリサさん」
その笑みが冷たく感じて、亜里沙は眉を顰める。
「僕はまだお前を呼んでいない。押しかけておいて勝手なことを言うな」
エドワードが語気を強める。
「そもそも入室を許可していない。出ていけ」
「殿下が私の客を不当に拘束しているので、こうするしかなかったんです」
「拘束だと?」
「間違っていますか?」
間違いだらけだ。
エドワードは答えなかったが、亜里沙はつい口を出した。
「私も翔くんも拘束なんかされてないよ。ちゃんと屋敷には帰るつもりだし。調べたいこともあるからまた来ないといけないけど」
ロナンが眉を寄せて小さく息を吐く。
「なるほど……それを理由にしてこれから拘束するおつもりだったんですか」
ロナンがエドワードに問いかけた。
帰ると言っているのに聞いてくれないロナンに、亜里沙はむっとした。
敵対しているとは言え、滞在先のことで揉めるなど少し大袈裟なのではないか。
「あ、あのさ。滞在先のことくらいでそんなに怒らないで。どうしてふたりとも喧嘩腰なの? 少しは仲良くしてよ」
余計なことまで言ってしまったと気づいた時には、ロナンの表情が一層冷たくなっていた。
「貴女は何も分かっていないようですね。些細なことでも譲れないことはあるんですよ」
ロナンの低い声に亜里沙は息を呑んだ。
謝ろうとしたが、先にロナンが言った。
「それに、殿下とはもう仲良くできそうにありません。貴女のせいで」
亜里沙ははっきりとそう言われたことでショックを受けた。
ソフィーが旦那様、と小さく悲鳴のような声を上げる。
「言葉に気をつけた方がいいぞ。マクベルド伯爵」
エドワードの静かな声にも怒りを感じて、亜里沙は狼狽えた。
すると黙って様子を見ていた翔が口を挟んだ。
「ロナンさん、殺されたのは職人組合の長だからロナンさんはこれから忙しくなるんじゃないんですか? 犯人はまだ捕まっていないし、ギルドも少し慌ただしくなりそうですよね」
「その辺りはどうとでもなるので余計な心配は要りませんよ、カケルくん」
そうなんですか、と答えた翔は、更に言った。
「でも俺たちが元の世界に帰るのに、ちょっとした問題が見つかったので、解決法を調べ始めたところなんです。エドワード様に手伝ってもらって。ちゃんと屋敷には帰るので、城に数日滞在しても構いませんよね?」
翔が穏やかに言うと、ロナンは眉を曇らせた。
「……アリサさん?」
疑うような表情でこちらを見るロナンに、亜里沙は何とか無表情を作りながら頷く。
気がつけば開け放たれたドアの方で、複数の兵が集まっているのが見えた。
騎士の数も数人増えていて、ロナンの動向を見ている。
ドアの方に目をやり、眉を寄せてため息を吐くとロナンは引き下がった。
「必ず帰って来てください。特にアリサさんは」
ロナンが去った後、亜里沙は肩の力が抜けてため息を吐いた。
エドワードは曇った表情で一度亜里沙に目をやったが、何も言えなかったのか、仕事に戻ってしまった。
「……今日のところは、ここで調べ物の続きをなさってください」
アルバートがエドワードの代わりにそう言った。
「多分、急いだ方がいいね」
「ん?」
再びソファに腰掛けてすぐのこと。
亜里沙が浮かない気持ちで聞き返すと、翔が声を落とした。
「元の世界に帰るための準備だよ。ニーズを起こして、話し合おう」
それが具体的になってくると、ここまでの衝撃を受けるのだと亜里沙は今思い知った。
「でも、この世界を助けないと」
「うん、分かってる。可能な限りそうしよう。でも、様子が変だろ? 特にロナンさん。どうしてそんなに亜里沙ちゃんをそばに置きたいのか、恋愛感情とか対立とかそれだけじゃない気がするんだよ」
確かに、そう言われてみるとロナンにしては攻撃的だった。
「……ロナンさんに何か言われた? もしくは約束させられてない?」
「え……えっと」
亜里沙は必死で頭を巡らせた。
滞在先を屋敷にすること、必ず帰ってくること、元の世界に帰る時には教えること。
その程度しか思い出せない。
伝えると、翔は考え込んだ。
「……もしかして……いや、それは不可能なはず……でも……」
少しの間そう独り言を呟いた後、翔は亜里沙を見て、再び言った。
「とにかく、ニーズを起こして」
亜里沙は強い不安を拭えないまま、言われた通りニーズを起こしたのだった。




