暗転
結局エドワードが持っていたスケジュール帳は亜里沙の手に渡った。
だがエドワードは最後まで渋り、執務室から持ち出すことも禁止してしまった。
もうそろそろ夕刻になる頃だろう。
亜里沙は再びソファに腰掛けた。
対面のソファには疲れたのか翔が仰向けに横たわっており、静かに寝息を立て始めた。
エドワードは机に向かい書類に目を通して何やら書いている。アルバートはその補佐をしているようだ。
亜里沙はスケジュール帳を開いた。
(省略して書いてあるけど、人と会う予定とか、仕事の予定とか、だよね……やっぱり日本語だ)
数ページそれが続いて、字の書き方や時々書かれている言葉遣いから、20代くらいで真面目な印象だ。
これがスケジュール帳として使用されたのはほんの数ページだ。次を捲ると枠線も無視して文字がびっしり書かれた日記帳になった。
翔が言っていたようにこの文字はどちらの世界にもないのが分かる。亜里沙は全部を把握しているわけではないが、こんな奇妙な形の文字はちらっとでも見たことはない。
強いて言うなら象形文字が少し似ているだろうか。
だが、やはり亜里沙にはこれが読める。
最初の一文にはこう書かれていた。
私が私を忘れないように書き記すことにした。
(忘れないように……)
『ああ……父は恐らく、この世界から去る頃にはほとんどのことを忘れていたはずだ』
(多分、長く生きたんだよね? 人間にはあり得ないくらい)
『そうだ』
亜里沙は次の一文を読んで眉を下げる。
(これはいつ頃書かれたの?)
『先を読まないことには分からないが……この文字自体は母の創世を手助けした頃のものだと聞いている。その時に書き始めたのだとすれば、世界を渡ってからそこまで時間は経過していないはずだ』
亜里沙はもう一度その文を読んだ。
もう、母国語の書き方が思い出せない。
(じゃあ、この文字を読めるのはもうニーズしかいない?)
『そうだな。父はこの文字を気に入っていたが母が好まず、他に使う者がなかった。父はそれを我に教えてくれたのだ』
その時、後ろでバタバタっと音がした。
振り返るとアルバートが書類の束を落として拾い集めている。
大変そうな量だったので亜里沙はスケジュール帳をひとまずソファに置いて手伝いに向かった。
巻物を拾い集めて手渡す。アルバートに礼を言われソファに戻ろうと振り返った時、エドワードが眠っているのが見えた。
右手に羽根ペンを掴んだまま、左腕は肘をついて、頭をその手に預けている。
インクが滲んでいそうで、亜里沙はエドワードに近づいた。
(寝顔見たの初めて……かっこいいな)
緊張しながら音を立てないように手を伸ばす。
そっと見ると、まつ毛が頬に影を落としている。寝ている顔は年相応で、何だか可愛くも見えてくる。
亜里沙は頬が火照るのを感じて首を横に振った。
羽根ペンを抜き取ろうとした時、エドワードは起きてしまった。
「ん……? アリサ……?」
そして次の瞬間には、まるで少しも寝ていなかったようにしっかりした表情で亜里沙を見る。
「どうした?」
驚くほど覚醒が早い。寝ぼけたりすることはあるのだろうか。
悪いことでもしていたような気分になった亜里沙は、慌てて手を引っ込めた。
「あ、いえ、インクが滲むんじゃないかと思って」
エドワードは手元を見た。
「ああ……このくらいなら大丈夫だ」
エドワードと目が合って不意に緊張した。
だが、何か言おうと口を開いた時、後ろでかすかに呻き声がした。
「カケル?」
エドワードがさっと立ち上がる。
亜里沙も振り返って翔を見た。
『アリサ、カケルが不安定だ。接触してくれ』
亜里沙は慌ててエドワードの後に続いて翔のもとに戻る。
小さく呻きながら、青ざめた顔を苦しそうに歪める翔は悪夢でも見ているようだった。
エドワードが迷わずそばに屈んで様子を確認し、翔を助け起こす。
上体を起こされた翔は何かが詰まっていたかのように重く息を吐き出した。
亜里沙は翔の隣に座って横から抱きしめた。
翔の体が熱い。服の上からでも分かるほどで、亜里沙は不安になった。
すぐにニーズの力が流れて翔が苦しげな声を上げる。
何故か亜里沙も苦しいような気がして深呼吸を繰り返した。
「アリサ、それは今、力を使っているのか?」
エドワードの心配そうな声に返事ができず、頷く。
「……っ、亜里沙ちゃん、もう大丈夫」
亜里沙が離れると、ニーズの力の流れが止まって、崩れ落ちるような疲労感が襲ってきた。
翔はうっと苦痛に呻いて頭を押さえる。
(え……どうなってるの)
翔が回復しているように見えない。亜里沙は焦ったが、もう一度接触するのは難しい。
亜里沙もニーズも異様に疲れていた。
アルバートが水が入ったグラスを持ってきた。
差し出された水を飲んで翔は背もたれに上体を預ける。
「アリサ、顔色が悪い」
心配するエドワードに首を横に振る。
「ちょっと疲れただけ。それより翔くんは」
「俺は大丈夫……少ししたら治まるから」
『カケルは安定したはずだ……もしかしたら我が与えた力が大きくなって、体に負荷がかかっているのかもしれない。お前とは体質が違うのだろう』
ニーズの声にもひどい疲労が滲んでいる。
『……すまない、少し寝る。何かあれば起こしてくれ』
(分かった。おやすみ……)
翔が心配だった亜里沙は手帳をエドワードに返し、回復するまで見守った。
エドワードも仕事をする手を止めて近くに立って様子を見ている。
「俺は大丈夫だから……」
ソファに身を沈めたまま頭を押さえる翔が弱々しく言う。
アルバートがメイドに命じて用意してくれた、冷やされた布を翔の額に当てる。
ありがとう、と呟いて翔は布を受け取った。
「……アリサ、いいか?」
エドワードが目で窓の方を指し示し、亜里沙は頷いてエドワードに従った。
アルバートが代わりに翔の近くに立ってくれる。
窓に近づくと空がうっすらとオレンジを浴び始めている。
雲が分厚く見えて亜里沙の不安を一層煽った。
「……お前たちは大丈夫なんだよな?」
しばらく窓の外を見ていたエドワードが亜里沙に目を移した。
エドワードの瞳に強い不安が見える。
やはり茉利咲が既に死んでいた可能性にアマリアが言及していたことが、エドワードの中で消化できずに残っているのだ。
「翔くんは、なんて?」
口裏を合わせていなかったので確認すると、エドワードの顔が強張った。
しまった、と思った時には遅かった。
「何故それを聞く? アリサ」
怯えを感じたように、エドワードは亜里沙の両腕を掴んだ。
「大丈夫、私たちは死んでない」
半分嘘をついて、亜里沙の胸の奥がひどく痛んだ。
エドワードは探るように亜里沙の目を見つめてくる。
亜里沙は腕を掴むエドワードの右手を取って、胸の真ん中に抱き寄せた。
亜里沙より一回り大きいエドワードの手が心臓のある辺りに触れる。
再び、しまった、と思った時には遅かった。
ハッとしてエドワードを見ると驚いたその顔が紅潮している。
今更意識して自分まで赤くなっては格好がつかないので、亜里沙は精一杯平常心を装った。
「ほ、ほら、心臓ちゃんと動いてるでしょ?」
しかし心臓の鼓動がうるさいので虚勢を張ったのがばれたかもしれない。
エドワードは自分の手が置かれた場所を見て、切なげに目を細めた。
「……そうだな。それに、温かい」
手の温度がじわっと伝わってきて、温かいのはエドワードの方だろうと亜里沙は思った。
エドワードは目を上げて亜里沙を見た。
「帰る時は?」
「心配ないよ。ちゃんと無事に帰れる」
「だが……世界を渡ることは害があるんじゃないのか? マリサは幼く体が弱かったからとカケルは言っていたが、害がないのであればマリサだって無事だったはずだ」
「エドワード、大丈夫だから」
まだ亜里沙に触れているエドワードの右手に自分の右手を重ねて握る。
「ちゃんと無事でいるから、安心して」
来訪者があの空間で死んでしまうこと。
このことについては、亜里沙にはとてもそんな余裕はなかった。
だがエドワードを安心させたい一心で、亜里沙はぎこちなく微笑みを浮かべる。
エドワードはそんな亜里沙をじっと見ていたが、やがて頷いた。
「分かった。だがもう一度言わせて欲しい」
そう言ったエドワードの声はひどく心細さを感じさせるものだった。
「どうか無事でいてくれ……この先もずっと」
亜里沙は微笑みを浮かべたまま頷いた。
「……エドワードも」
「ああ。約束だ」
エドワードは小さく笑みを見せてくれた。
夕刻になって翔が落ち着き、屋敷に帰ろうとした矢先だった。
部屋の外に出ていたアルバートが血相を変えて戻って来て、異変に気づいてそばに来たエドワードに小声で何かを報告した。
部屋を出ようとしていた亜里沙と翔は、ドアの付近で深刻な様子で話し合うふたりに遠慮して近くで足を止める。
再びアルバートが出て行き、眉間に皺を寄せて口に手を当てるエドワードに亜里沙は恐る恐る近づいた。
「何かあったの?」
こちらを振り向いたエドワードは少し迷うようにした後、言った。
「アウルマルクの職人組合長を知っているよな?」
「うん。確かエストランて人だよね。ロナンと話し合うために来てたんだっけ」
「……奴が死んだ」
「えっ」
殺された、と独り言のように言って、エドワードは再び考え込むようにした。
「え……殺された? ロナンは大丈夫かな」
亜里沙にとってはもう顔もぼんやりとしか思い出せない相手でしかないが、ロナンは違う。
仲が悪くても知人以上だし、最近会ったばかりの相手が殺されたとなれば穏やかではいられないだろう。
「もう知ってるのかな……エドワード、私たち帰るね」
だが、ドアに近づこうとした亜里沙の前にエドワードが立ちはだかって邪魔をした。
「駄目だ。危険だから今日のところは城にいてくれ」
亜里沙が目を丸くすると翔が質問した。
「犯人は分かっていないんですか?」
「いや、恐らく……だがそんなことは問題ではない。エストランの弟子の消息が掴めない」
「弟子……」
亜里沙は何とかその人を思い出すことができた。
ぼさぼさの茶髪とそばかすがぼんやりと浮かんでくる。
何より不安げで頼りなさげな人で、確か。
「アイスナーさん、だったっけ」
「その人が犯人なんですか?」
亜里沙は驚いて翔を見た。あんなに気弱そうな人が殺人を犯すなどとは思えない。
「恐らくそうだ」
「騎士が護衛についても危険なほどの人物なんですか?」
「そうじゃない、ただ……」
エドワードはずっと何か考えながら翔の質問に答えている。
だが、やっと亜里沙を振り向くと眉を下げた。
「お願いだ、アリサ。ここにいてくれ」
その眼差しから、亜里沙のことが心配でたまらない気持ちが伝わってくるようだ。
だがどうして屋敷に帰ることがそんなに危険なのだろう。
そう考えた時、亜里沙は何となく、エストランもアイスナーも、エドワードとロナンの対立に関係してくる人々なのではないかと思った。
何かが動いて、それがエドワードにとって悪い方に転がってしまったのではないか、と。
「……ここにいようか、亜里沙ちゃん」
翔がそう言って、亜里沙は頷いた。
かと言って、エストランやアイスナーの件を詳細まで聞けるわけではなかった。
スケジュール帳は返してしまっていたし、エドワードともその後すぐに別れて会えないまま。
城内がどことなく慌ただしく、誰かに会いに行けるような状況でもない。
合流したソフィーとイザベラ、翔と共に亜里沙の部屋でひっそりと食事を取る。
エストランの訃報から後、一つ良かったのは、アストリドが飴をとても喜んでくれたという知らせだけだった。
亜里沙は自分が知るエストランとアイスナーの情報を翔に共有し、その後は浮かない気持ちでその日を過ごした。
その夜。
様子を見てきたイザベラが首を横に振り、これがもう何度目かのことで、亜里沙は諦めた。
これ以上起きて待っていたところで今日はもう進展はないだろう。
一つの灯りだけが照らす室内で、部屋の隅の闇が濃くなってきた頃。
寝ようとしていた亜里沙を意外な人物が訪ねた。
「な、なんて? もう一回言って」
「それが……ルージェン王女殿下が、お越しです」
ソフィーも顔中に不安が広がっているし、イザベラは顔が強張っている。
何故訪ねてきたのだろう。エドワードは知っているのか。
ルージェンはただエドワードの婚約者、というだけでなく、協力して何かを成そうとしている関係だ。
表面では険悪な仲に見えたラティファとも実は仲間のようだし、亜里沙も敵だとは思われていないはず。
だがそれとこれとは別問題だろう。
亜里沙とエドワードは恋人と言っていい関係。
それは不貞と言えるのだと、今目の前に容赦なく突きつけられたようだった。
「わ、分かった」
だが追い返すなんてこともできず、亜里沙はルージェンを部屋に通した。
フードのついた上着を纏ったルージェンのみが部屋に入り、ついてきた侍女は部屋の前で軽く会釈をすると去ってしまった。
「座ってもいいかしら」
ルージェンは亜里沙の返事も待たずにソファに向かう。
亜里沙の前を通り過ぎた時、涼やかなハーブの香りが亜里沙の鼻をくすぐった。




