本当の名前
『アリサ、大丈夫か?』
亜里沙を気遣うニーズに大丈夫だよ、と答える。
静かに呼吸を整えて、気持ちを切り替えた。
亜里沙はニーズに探ってもらった記憶を話した。
と言ってもエドワードが聞いているので、話せたことは多くない。
やはり茉利咲が死んでしまったことと、帰った時にこの世界の服を着ていたこと。
そして茉利咲がこの世界で最後にいた場所だけだ。
その後、アルバートが遠くにいて聞いていないことを確認し、声を低くして王との会話の内容と、別館でキーランが人を攻撃した理由についても話した。
キーランが人を攻撃して無事だったことについては、やはりどう説明したものか分からなかった。
特殊な力を隠していた、と、ロナンに対してと同じ説明をする。
ふたりとも思うところがありそうだったが、ひとまずそれを受け入れたようだった。
亜里沙が話し終わると、対面に座って目を伏せる翔の顔は青ざめているようだった。
気がつくと互いの手を握り合っていたエドワードが、心を痛めたように呟く。
「……お前の妹が目の前にいたのに……気づいてやれなかった」
その声色に深い罪悪感が滲んでいる。
今にして思えば、恐らくエドワードが遠目に見たアマリアは、その様子から考えても茉利咲だったのだ。
隠されていたなら、アマリアと似通った服を着せられていただろうし、髪が同じ色なので遠目であれば分からないだろう。
翔から話を聞き、解読をしながら、少しずつ当時のことを知ったエドワードはどんなに辛かっただろう、と亜里沙も心を痛めた。
「エドワード様は悪くない。王様が隠していたことだし、子供だったじゃない」
エドワードはそれ以上は言葉にしなかった。
だが亜里沙を見つめる瞳からは、抱えきれないほどのことを悔いているのが読み取れる。
(私には、何でも自分が背負わないと気が済まないのか、って言ったくせに)
エドワードもまた、自身ではどうしようもないことまで背負おうとして、足掻いてしまうのだろう。
そして翔から、エドワードに何を話したのかを聞かされた。
翔が話したことは来訪者の死以外、亜里沙と翔が共に把握していることの、ほとんど全てだった。
クルスのことや、茉利咲だけは女神が呼んだこと。
ニーズが祈りに対してほとんど無意識に叶えてしまうことまで。
亜里沙は再び心配になってエドワードを見た。
亜里沙の視線の意味に気づいたエドワードが、握り合った手にほんの少し力をこめる。
「僕のことなら心配いらない」
そう言うエドワードの表情には、相変わらず亜里沙を案じる気持ちと強い罪悪感が浮かんでいる。
知ってしまった以上はもう無かったことにはできない。
亜里沙は何も言えない代わりに、エドワードの手をしっかり握り返した。
「亜里沙ちゃん、この先は日本語で話したいけどいいかな」
翔からそう合図が送られた。
翔は先ほどニーズが口にしたことを聞きたいのだ。
亜里沙は頷いてエドワードを振り向いた。
「エドワード様、この後の話は……翔くんにしか話せないです」
エドワードが頷く。
「分かった。ただ……ここにいてもいいだろうか? アリサのそばにいたいんだ」
亜里沙は胸が締めつけて、言葉に詰まった。
亜里沙の様子を見て、翔が代わりに答える。
「俺たちの世界の言語で話すので、問題ないです」
エドワードがありがとう、と言うのを聞いてから、翔が先に口を開いた。
「じゃあ……俺は、いつでも大丈夫だよ」
亜里沙は頷いて、取り戻した記憶の詳細を語った。
亜里沙の話を聞いた後、翔は少しの間難しい顔で考え込んだ。
「あのさ、キーランの力は、本当は何?」
「……女神の干渉を受け入れたってニーズが言ってた。キーランは、嫌いだったけど頼ったって。目が……虹色みたいに光ってた」
亜里沙が言い淀むと、ニーズが代わりに、キーランが女神に愛された存在であることを話した。
話を聞いた翔はため息を吐くと、亜里沙を見た。
「言いにくいことだけど、もうキーランには会わない方がいい。帰る前に話したいと思ってるかもしれないけど」
「あ……、で、でも」
「キーランはもう、茉利咲ちゃんじゃなくてもいいんだよ」
一瞬、言われている意味を理解できなかった。
だがすぐに、キーランが茉利咲と亜里沙を混同して見ていることを思い出して目を伏せる。
「きみが茉利咲ちゃんじゃない、ということも受け入れていないようだけど、多分受け入れたとしても……キーランは、茉利咲ちゃんじゃなくてもいいんだ」
自分を助けてくれる者であれば。
翔は少しの間の後、そう言った。
いくら何でもそれはキーランにひどいのではないかと思ったが、翔を見ると何も言えなかった。
翔も、言わずに済むならそうしたかったはずだと分かってしまったからだ。
「だけどこのまま帰れたとしても、また亜里沙ちゃんが呼ばれてしまう可能性はゼロじゃないよな。それについてはエドワード様が対処すると言ってくれた。ただ、信用していないわけじゃないけど、確証がないから」
『そうはならない』
ニーズが強く言い切った。
『もうそんなことはさせない。起こり得ないから安心しろ』
「ニーズ……?」
その物言いは安心できるものではない。不穏な気配を感じて亜里沙は呼びかけた。
翔が眉を曇らせる。
「やっぱり……。ニーズ。俺たちを連れて帰った後、もうこの世界に戻るつもりがないんだろ」
「え?」
亜里沙は目を見開いた。
ニーズは翔の言葉に答えない。だがそれが間違いなく肯定であると亜里沙には分かってしまう。
思わず立ち上がりそうになって堪える。
エドワードの視線を感じて、亜里沙は何とか冷静さを保とうと試みた。
「どういうこと? そんなことしたら、この世界は」
亜里沙の問いかけにもニーズは答えない。
ただ胸の内に愛おしい感情が染み込むように存在するのが分かって、亜里沙は愕然とした。
「私のために……? それじゃまるで、女神と一緒じゃない」
亜里沙はつい、そう言ってしまった。
夫であった神との約束だから、この世界と人間を守っている女神イーリス。
確かにこの世界の穢れが増幅してしまったのには、人間同士が争ったせいもあるのだろう。
だがやはり大きな要因は、女神の嘆きだ。
夫のことしか考えられず、寂しさのあまり、女神はその嘆きで世界を壊そうとしている。
『ああ……我も間違いなくあの母の子であるということだ』
ニーズの静かな声に、自らを蔑む響きがあった。
亜里沙は言葉が見つからなかったが、ニーズがそれでは困るのだ。
「別に構わないんじゃないかな。この世界にニーズさえいなければ、俺たちの世界の人間がこれ以上犠牲にならずに済むだろ」
翔がそう言った言葉を聞いて、亜里沙は息を呑んだ。
「で、でも……それじゃ……」
思わず隣にいるエドワードを振り向く。
すぐに亜里沙の視線に気づいたエドワードは、亜里沙の泣きそうな顔を見ると自然と手を取ってくれる。
亜里沙はつい縋るようにその手を握りしめて、翔に顔を戻した。
「ねえ、つ、連れていけないかな……」
言いながら言葉が弱くなり、誰を、とは口にできなかった。
(私だってニーズのこと言えない……女神のことも)
それにこの世界の人間は、世界を繋ぐ入り口には入ることができない。
亜里沙はもう何も言えなくなった。
今この瞬間も亜里沙を案じているニーズ。
だがこの世界にもう戻らないというニーズの決意が、少しも揺らいでいないのが亜里沙には分かる。
翔はしばらく何か考えるようにしていたが、やがて口を開いた。
「この世界を救う方法なら、あるかもしれない」
「え?」
『……何?』
「確実じゃないよ。それどころか、無いに等しい可能性だと思う。でも、考える価値はあると思うんだ」
「教えて!」
『教えてくれ』
亜里沙とニーズの声が重なった。翔は頷いて膝の上で両手を組む。
「俺がここの図書館に通っていた時、調べて分かったことをエドワード様に共有したり、ロナンさんに警告されたと話したことを覚えてる?」
「うん」
「あれは全部この世界の成り立ちに関係してくる事柄だった。王様やロナンさんはそれを秘密にして守る側で、本当ならエドワード様に教えるべきじゃなかった。だけど俺は……」
一息置いて、翔は続けた。
「エドワード様も、これまでに何度も王様や王太子に働きかけてきたことや、疑問に感じていたことを俺に教えてくれた。それで、ふたりで話し合って一つの仮説を立てた」
「何の仮説?」
「この世界の真実についてだよ。内容は、今は詳しくは言えない。エドワード様にも確認しないといけないから。でもニーズが俺たちに答えを教えてくれるって言うなら、それも必要ないけど」
『それは……』
ニーズは少し迷ったが、結局は口を閉ざした。
「まあそうだよね……ただ、亜里沙ちゃんにも教えられることが一つある。確かに創世の力は持っているだろうけど、この世界を作ったのは、女神イーリスじゃない」
「えっ?」
『何だと……? 何を根拠に』
「それは仮説の中の一つだから根拠と言えるものはまだないよ。考えたのは、既にあった世界を土台にして女神が今の世界を作った……というものなんだけど。というか、そもそもこの世界がどんな現状か一番知っているのはニーズじゃないか」
『そのことが一体何の関係があるというのだ』
「ちゃんと考えてみてくれよ、今まで疑ってなかったんだろうけど。何も複雑なことじゃない、俺たちだって単純な疑問からそれに至ったんだから」
ニーズの小さな唸り声がする。
「女神が作った世界じゃないなら、誰が……女神の夫が作ったの?」
『それは、違う……』
弱々しい声が、即座に否定した。
「……だろうね。彼じゃないはずだ」
「え?」
「とにかくこの世界は、女神がここに現れる前から存在していた。それで、女神がこの世界の創造主でないなら……」
またニーズの唸り声がする。翔はそれを無視して続けた。
「これも単純な話だけど、この世界から女神を切り離せばいいんだよ」
「……切り、離す?」
「うん。前に穢れのことを考えた時にも同じことを思ったんだ」
『何ということを……そんなことをしたら』
「そう、俺もニーズと同じだった。女神を追い出したらこの世界はどうなるだろうって。穢れが消えて、でも他は? 加護を失うだけで済むならいいけど、もし存在そのものが維持できなくなったら? だから亜里沙ちゃんにも言わなかった」
「……今は?」
「今はもうその疑問はないよ。この世界を作ったのが誰かは知らないけど、少なくとも女神じゃないと思ってるから。だけどあの時も今も、どうやって、っていうのが問題なんだよな」
でも、と翔は呟いた。
「ニーズは女神の子だろ? 今は話しかけても答えてくれないだろうけど、方法は皆無じゃないはずだ」
『それは……確かに、それが本当なら、我が母に働きかけてみることはできるが……』
しばらく誰も何も言わなかった。
エドワードも、聞き取れない話が続いても何も言わずに待っている。
やがて、ニーズが深く息を吐いた。
『我はどうすればいい?』
「うん……それを考えたいから、先に教えてくれる?」
『何を』
「ニーズの本当の名前」
亜里沙の体に、自分が感じているように緊張が走った。
落ち着かせるように呼吸を整えると、ニーズも落ち着いたようだった。
そして、ニーズはとうとうそれを口にした。
『我の本当の名は、二つある。一つは、シリウスだ』
「シリウス……?」
それは亜里沙でも知っている。
亜里沙の世界では有名な、最も明るい星の名前だ。
だが、アマリアが残した星の名の中にそれはなかった。
この世界では別の意味があるのだろうか。
『いいや。これは星の名だ、アリサ』
「え? でも……」
「……もう一つの名前は?」
『もう一つは……我の父のみが、我をそう呼んでいた』
そして、わずかに躊躇うようにした後、ニーズは言った。
『我のもう一つの名は……スバルだ』
亜里沙が目を見開く。翔が小さく、やっぱり、と呟いた。
「……え……?」
「星、と言うより星団だね。プレアデス星団の和名だ」
亜里沙でもそれは知っている。問題はそれが和名であることだ。
「和名……日本、語……?」
理解が追いつかない亜里沙に、翔が答えを教えてくれた。
「ニーズの父親だけがその名で呼んだって言ったよね。つまりニーズの父親は神じゃない……来訪者だったんだ。しかも日本人の」
視界が揺れるような衝撃があった。
「え……来訪者……? でも、来訪者はニーズが呼んでて……一番最初の人はオルマの人に似た外国人で」
「女神が呼んだんだよ、亜里沙ちゃん」
亜里沙は信じられない思いで翔を見た。
「記録上の来訪者に、やけに日本人が多いと思った。ニーズは女神を宥めるために、自分の父親と同じ特徴の来訪者を連れてこようとしてたんだろ。女神自身が茉利咲ちゃん以外でそれをしなかったのは多分、夫に止められていたからだ」
『そうだ……』
「だけどニーズの力か入り口が不安定で、外国人も連れてこられた」
『ああ』
「ただ、来訪者だから……夫と同じ世界から来た者だから、女神はそれでも、その存在を感じるだけで落ち着くことができた。夫から、その世界の人間は自分の友人だ、とでも言われていたのかな」
ニーズが小さく肯定する。
「え……? そ、そんな理由……? そんな単純な」
まるで子供のような、と言いかけて亜里沙はハッとした。
茉利咲の最後の記憶を通して見た時、美しい女性のなりをした女神が、異様に幼い様子だったことを。
キーランが苦しんでいるのを理解せず、寂しいから泣いていると勘違いして茉利咲を連れてきたことを。
「キーランのために言いつけを破ったけど……女神がもう誰も連れてこないよう言われたのは、そうしないと見境なく呼んでしまう危険があったからじゃないかな」
ニーズは無言で、翔の言葉を肯定している。
その理由も恐らく、女神が──女神と呼ばれる彼女の精神が、およそ神に似つかわしくないほど幼いからなのだ。
言葉を失った亜里沙に、翔が追い討ちをかける。
「そして女神の夫だった彼は……俺たちの時代の人だよ。多分住んでいた場所もそう遠くない」
ニーズは否定しなかった。
亜里沙が眉を寄せると、翔の表情が翳った。
「最初に女神が世界を繋げた時、たまたま九年前の日本に繋がった。女神にはニーズと違って時間の概念がない。と言うより多分、その時で止まってしまっているんだ……だから、キーランのために連れてきたのが茉利咲ちゃんだった理由は」
「その人が、九年前に、近くにいた人だったから……?」
最初に繋がった時間と場所に、もう一度繋げたから。
だから近くにいた茉利咲が犠牲となったのだ。
亜里沙の全身から力が抜けるようだった。
亜里沙はただ、エドワードの手の温かさに縋るように、その手を握りしめた。




