愛し子
ふと、目を覚ました。
どのくらい眠っていたのだろう。
ソフィーから手当てをされても尚目蓋は重く、しばらく辺りの様子を把握できなかった。
ぼんやりしたまま、左側に頭を向けた亜里沙は目を丸くした。
「……キーラン?」
窓から入る月明かりがやけに明るく、その光景ははっきりと見えた。
ベッドの左側に、椅子に腰掛けて亜里沙を見つめるキーランが、名を呼ばれて嬉しそうに微笑んだ。
亜里沙はその神秘的なまでに美しい表情に目を奪われる。
「おはよう、アリサ」
「え……まだ夜でしょ……寝ないとだめだよ」
「でもアリサはもう眠くないだろ?」
そう言われると、確かにそうだった。
亜里沙の頭はまだぼんやりしているが、眠気は消えている。
ふと、どこか遠くから名を呼ばれているような気がした。
亜里沙が重たい目を見開いて周囲を探すと、キーランの手がそっと額に触れる。
驚いて振り向いた亜里沙を、キーランは月明かりの中で不思議に輝く瞳で見つめた。
「アリサ。さっきはきみの話を聞かなくてごめん。許してくれる?」
亜里沙は身を起こそうとしたが、気怠さを感じてそのままの姿勢で頷いた。
「……うん。よかった、やっぱりキーランはちゃんと話せば聞いてくれるよね」
キーランが頷く。
「もう過去のことは言わないよ。大事なのは今と、これからだから」
「うん……でも」
苦しげな声がする。どこからだろう。
「でもね、キーラン……茉利咲が」
「アリサ。きみも無理して過去の話をしなくていいよ。家族を失って辛いんだろ?」
キーランの瞳の、不思議な輝きが増していく。
亜里沙はその輝きに釘付けになる。
頭の中で、必死に亜里沙を呼ぶ声が近づいてくる。
その声はまるで何かに呼吸を邪魔されているかのように、息も絶え絶えだ。そして苦しげに、亜里沙に語りかけてくる。
『ア、リ……』
段々と、その苦しさが自分のものであるかのように、亜里沙の呼吸が少しずつ荒くなる。
何度となく息が詰まって、キーランに目で訴える。
キーランがわずかに眉を寄せた。
「アリサ、ごめん……もう少し我慢して」
そう言われると、そうすべきだと思った。
キーランの目を見つめて、無言で耐える。
『アリサ……! 奴の目を見るな……!!』
亜里沙はハッとして目を瞬いた。
顔を曇らせるキーランから無理矢理目を逸らし、何故か自由の効かない左手に目をやる。
キーランの左手が指を絡ませて亜里沙の手を強く捕まえていて、それを見た亜里沙の背筋が凍った。
何故か、何をしているのか明確に分かってしまった。
「だめっ! 離して!」
亜里沙の叫び声に合わせて青白い火花が一瞬弾けた。
「あっ……!」
咄嗟に力を使った亜里沙は、強い目眩を感じて目をつむった。
キーランは力のせいではなく、亜里沙の言葉を聞いて手を離した。
そして、ため息を吐いて声を低くする。
「もう少しだったのに……」
解放されたニーズの苦しい息遣いを感じる。
亜里沙の頭は今の衝撃で覚醒した。目眩はするが、はっきりと認識できたことがある。
(どうして……キーランの目……色が!)
『アリサ……とにかく奴から離れてくれ……話は後だ……!』
亜里沙が必死で身を捩ると、キーランの腕が亜里沙を抱き起こす。
「仕方ないから、先に移動しよう」
つい振り向いてしまった亜里沙は息を呑んだ。
キーランの瞳が、いつもの金ではなく虹色の光を宿している。
きつく目を閉じて顔を伏せ、亜里沙は叫んだ。
「イザベラ! イザベラ!」
だが、イザベラは来なかった。不思議と、周囲は不自然なほどに静まり返っている。
「誰も来ないよ」
その優しい声色にゾッとする。
「ど、どうして……」
「別館にいた他の人間には眠ってもらってる。アリサを迎えに来たのに、邪魔されたから」
「どうやって」
「大丈夫だよ。少し急所を突いたけど、死にはしない」
「で、でも、キーランはそんなことできないでしょ!? だって」
呪いのことがあってもロナンに本気で短剣を向けた。
あのカイリを斬ったことであれだけ苦しんだにも関わらず。
キーランがもうそれを躊躇していないことは分かる。
だがそれは、今キーランが無事でいる説明にはならない。
「心配しなくても、苦しくも痛くもないよ」
言葉通りの様子に亜里沙の理解は追いつかない。
その答えをくれたのはニーズだった。
『アリサ……キーランは、女神が特別に愛した存在だったのだ……』
ニーズは苦痛で呻きながら言った。
『キーランは今、女神の干渉を受け入れてその力を享受している……その状態は体を蝕むというのに……!』
亜里沙はキーランを見た。瞳に宿る七色の輝きが美しく、一度見るとどうしても心が惹きつけられる。
頭を強く振って誘惑を払いのける。それは痛みと目眩を伴ったが、亜里沙を冷静にした。
(女神に愛された?)
『だからキーランは、幼い頃脆かったのだ。女神に愛されて、他のどの人間の身にも起こり得ないことが起こってしまった……』
「アリサはまだ動けないだろうから、僕に捕まって」
両腕をキーランの首に回すよう誘導される。
キーランは優しく労るように亜里沙の体を抱きかかえた。
「下ろして。私はどこにも行かない。ちゃんと話そう? 人を傷つけたことも、私が一緒に謝るから」
亜里沙は必死だった。目を見ないようにしながら理性的に話をしようと試みた。だが。
『アリサ、キーランとは話すな。そもそも話が通じる相手ではない!』
「そんなことしなくても大丈夫だよ」
「で、でも、キーランだって、体調が」
「今は不思議と調子がいいんだ。今まで嫌いだったから考えたこともないけど、あの人に頼ったのが良かったみたいだ」
「あの、人……? それって」
『アリサ』
ニーズがキーランとの会話を遮るように語気を強めた。
『キーランは、生まれた時から女神に愛されたゆえに、女神の声を聞くことができる』
(……え……?)
亜里沙の脳裏に、茉利咲の最後の記憶であろう、あの時の光景が浮かんでくる。
女神が話すたびに、今すぐにでも死んでしまいそうなほどの苦痛を受けたことを。
キーランが亜里沙を気遣うようにゆっくりとドアに向かって歩く。
『それはつまり、自分の意思に関わらず女神の声が強制的に聞こえてしまうということだ。だからずっとキーランは……生まれ落ちてから、残響などではない、女神が嘆く声を直接聞いて生きてきたのだ』
あの声を。
耳の奥を鋭く刺されているような、世界が割れるような、あの声を聞いて──生きてきた?
『とても正常な人格を形成することなどできなかったはずだ。キーランは最初から、壊れてしまっている』
だからセレネは、イーリスを殺してと祈ったのか。
「キーラン……」
「ん? まだ苦しい?」
「お、下ろして……離して……」
亜里沙は全身がまるで氷水につかったような寒さを覚えた。
ガタガタと大きく震えだす。
「寒い? でも、今行かないとまた邪魔されるから、少し我慢して」
キーランが踵を返して亜里沙を抱えたままベッドに向かう。
『女神がマリサを呼んだのは、恐らくキーランのためだ。九年前、本当なら命を落とすはずだったキーランは、セレネが神木の魂を与えたせいで女神の声では死ねなくなった』
ベッドの端にゆっくりと下ろされる。
亜里沙は腰掛けたが、まだキーランの片腕が亜里沙の背中に回っていて、離れることを許さない。
『キーランの苦痛を感じた女神は己を取り戻し、恐らくキーランに会いに行ったのだ。あの、姿で』
キーランが片手で亜里沙に毛布をかけてくる。
亜里沙はまだ震えながら、だが頭の芯は鮮烈な怒りで熱を持ち始める。
「あの人、キーランに会いに来たの?」
「え?」
亜里沙は渾身の力でキーランを押しのけた。
キーランは亜里沙の意思を尊重したかのように、亜里沙を離す。
もうその瞳を見ても、思考はぼやけなかった。
「あの人は、キーランのために何をしたの?」
「ああ……」
キーランはその時の光景を思い出すように目を細める。
「苦しいから、もう殺して欲しいと言ったんだ」
「え……」
「何で僕を苦しめるのか分からないけど、泣かないでって頼んでも聞いてくれないし。母さんも死んでしまって、もうあの痛みに耐えられそうになかった。でもあの人は、僕が寂しいから泣いてるんだと勘違いして……」
亜里沙が目を見開くと、キーランはまるで他人事のように微笑んだ。
「その時にきみが現れて、僕を助けてくれたじゃないか」
「じゃあ……やっぱりキーランのせいで……茉利咲は」
『アリサ、もう話すな。とにかくキーランから離れるんだ。逃げてくれ』
「きみはあの時怯えていたよね。でも僕が苦しんでいると分かると、必死になって助けてくれた」
亜里沙の頬を愛おしそうに撫でるキーランの指先が異様な熱を持っている。
だが亜里沙も強い怒りで脳が焼けそうだ。
(このままだと、キーランはどうなるの?)
亜里沙がどんな意図で聞いているのか読み取れないのか、ニーズが迷いながら答える。
『すぐに大事に至るということはない。だがこのまま蝕まれると、キーランの精神は完全に崩壊する』
(だけど今だってまともじゃないんでしょ)
「アリサ? まだ寒い?」
『それは、そうだが……その前に体が耐えられず崩壊を迎えるかもしれない。とにかく、離れるんだ。まだお前の言葉を聞こうとしているうちに』
亜里沙を抱き寄せそうとするキーランを激しい怒りを込めて拒絶する。
「触らないで!!」
その時再び力が弾けた。
これまでで一番強く、両腕を青白い光が走り抜ける。
それは一瞬だったが、亜里沙が倒れるのには十分だった。
『アリサ!』
痛みを伴うほどの激しい目眩に亜里沙の口から苦痛の呻き声が漏れる。
「アリサ……?」
キーランが息を呑んだようだった。
力の流れはニーズが止めたが、目を閉じても容赦なく世界が回る。
キーランが焦ったように亜里沙の顔を覗き込むのが分かった。
「アリサ、分かった、もう触らないから」
その弱々しい声を聞いて亜里沙はどんな顔をしているのか見てやろうと目を開けた。
定まらない視界に、キーランの今にも泣き出しそうな顔と、そして月明かりに照らされた金色の瞳が見える。
(目が……)
亜里沙は逃げるなら今しかないと判断して、無理矢理体を動かした。
ベッドの上で身を捩り、半ば落ちるような形で床に這いつくばる。
「アリサ」
キーランの呼びかけを無視して何とか立ち上がった。
キーランがドアの方にいるので、窓を目指す。
少し大きめの窓。この部屋は一階にあるので、窓から出ても大した怪我はしないだろう。
「アリサ、そっちは危ない」
全力で窓を開けて、足をかける。
おさまらない目眩は体の力を奪ったが、何とかよじ登った。
その時背後に駆け寄ってきたキーランが腕に触れて、亜里沙はそれを避けようとして窓から落ちた。
「……つうっ……」
思い切り手首と膝を打ちつける。
「アリサ!」
キーランが窓を軽々と飛び越えたのが分かる。
そばに着地して亜里沙を助け起こす。
ふと、先ほども、窓によじ登った亜里沙を支えようとしたのではないかと、そんなことを思った。
その時。
「アリサさん!」
簡単な服装に外套を羽織ったロナンが駆け付けてきた。
後ろに意外な人物が続く。
ロナンは亜里沙とキーランの近くで立ち止まったが、ヒューゴはちらと目を向けただけで別館の中へと急いだ。
「……こちらへ」
ロナンは険しい顔でキーランを一瞥しただけだった。
そして慎重に声をかけてきて、亜里沙に向かって手を伸ばす。
亜里沙が迷いなくロナンの手を取ると、キーランが小さく亜里沙の名を呼んだ。
すぐに外套をかけてくれたロナンの服の袖から、左腕の侵食の一部がほんの少し覗いた。
ロナンとヒューゴに遅れるように、複数の兵が駆け付けてくる。
その中にはリカルドを伴った王の姿もあった。
兵の一部はリカルドに指示されて別館に入っていく。
「キーラン……! 一体何をしたのだ!」
亜里沙が振り向くと、悲痛な声を上げる王には構わず、縋るように亜里沙を見つめるキーランの姿があった。
「……連れて行ってくれ」
深いため息の後、王が静かに言った。
「行きましょう」
ロナンに付き添われるように、歩き出す。
「アリサ」
再びキーランに呼ばれて、一度だけ亜里沙は振り返った。
こちらをまっすぐに見つめるキーランの悲しげな顔は、その後しばらく亜里沙の頭から離れなかった。




