懐古
亜里沙は今、別館の中にいた。
茉利咲とアマリアが共に過ごしたという部屋の中だ。ここに入った時、王が亜里沙にだけ聞こえるようにそう教えてくれた。
別館の入り口で王に挨拶をし、懐かしい部屋が見たいと言うと、王は驚いたようだった。
あっさり通してくれた様子から、亜里沙が過去を思い出したと思ったようだ。
ぼんやりと灯された蝋燭の火に、石造りでありながら可愛らしく飾られた部屋が浮かび上がる。
アストリドの部屋ほどの大きさで、置かれた家具の種類は亜里沙の部屋ともほとんど変わらない。
よく手入れされているのかほんのりと良い香りがした。
ソファに向かい合って王と腰掛けて、亜里沙は部屋をしばらく眺めた。
王に許可を得て、ソフィーがお茶を出す。
だがすぐにソフィーとイザベラは外へ出るよう命じられ、部屋の中には三人だけとなった。
「もしアリサが望むなら、帰るまでこの部屋に滞在してもよい」
王が優しくそう言った。
亜里沙が振り向くと、王は微笑みを浮かべている。
王の後ろにはリカルドと呼ばれた大柄な騎士が立っている。ソフィーの伯父だ。
そして王は言葉を続けた。
「ああ……だが、何やらキーランと揉めたようだから、ここには滞在しづらいだろうか」
亜里沙の肩に思わず力が入る。
「ロナンに聞いたんですか? 他に、それを知ってしまった人は……」
亜里沙がちらとリカルドを見ると、王は頷いた。
「ここにいるリカルドと、あとは宰相だ」
「……他の人には知られたくないです」
「うむ。だが部屋の外にまできみの声が漏れていたそうだ。幸いはっきりと話を聞き取った者はいないようだが、注意しなさい」
亜里沙は俯いて、小さく答えた。
王の様子を窺うが、部屋の中で起きたことについては詳細を知らないようだ。
「それで……過去を思い出したようだが、それが喧嘩をするきっかけにでもなったのか?」
亜里沙は再びリカルドを見やる。
「ああ、きみはリカルドまでは覚えていないか。だが彼も、きみが幼い頃にこの城に現れたことを知る者だから、心配しなくていい」
亜里沙の鼓動が強く鳴った。
茉利咲は直接この城に現れたのだ。そしてやはり、王はそれを隠していた。
王は、亜里沙の全身が小さく震えていることに気がついた。
「アリサ、まだ体調が回復していないのではないか? もう無理せず今日のところは休みなさい」
「いいえ」
王を引き止めるために、亜里沙は声を張り上げた。
「違うんです……」
そして、半ば王を睨むように見た。
「それ……私じゃないんです。九年前にこの世界に来たのは、私の妹なんです」
衝動に任せて言った。その衝動は、怒りを伴うものだった。
空っぽだった心を満たすように、暗い感情がよみがえってくる。
そして王の顔が強張るのが見えた。
「何……?」
「妹の名前は茉利咲です」
「マリサ……では、マリサはどうしたのだ? 無事に帰れたのか?」
亜里沙は膝の上で拳を握りしめた。
王の顔をじっと見る。もう、王は困った顔をせず亜里沙の視線を受け止めている。
王のその表情に見えたのは、茉利咲を心配する気持ちと、罪悪感だった。
「茉利咲は……帰ってきました……でも、死んでしまいました」
王はすぐには何も言えなかったようだ。
心を痛めているように、目を伏せる。
「そうか……何ということだ……マリサが命を落とし、今度はその姉が呼ばれてしまったのか」
茉利咲はこの世界に来たせいで死んだ、と叫びそうだった。
だが寸前で亜里沙の気を挫いたのは、理性的な考えでも良心でもない。
茉利咲の死を聞いてひどく落胆したような王の顔が、ほんの少しだけ亜里沙の怒りを鎮めたからだ。
「茉利咲から姉の私の話を聞いたことは?」
「いや……家族の話を聞いてみたことはあったが、最初の頃マリサは大人を警戒していたからか、話してはくれなかった……もしかしたら、その後子供たちの間ではその話があったかも知れない。だが私は知らなかった」
「……どうして私を茉利咲だと思ったんですか? 名前と顔が似てるから?」
「それもある」
王は神妙に頷いた。
「それに、エドワードからきみたちの様子を聞いた時、キーランの様子も聞いていたのだ。だがすぐに九年前のことと結びつけたわけではない。何故ならひとりの来訪者が二度もこの世界にやってきた記録がなかったからだ」
王はわずかに眉間を寄せた。
「それでも、あの小さかったマリサを思い出し、きみを見ていると……そうだと決めつけてしまった。キーランが心を開いたのは、私が知る限りマリサだけだったから。そしてきみが何も覚えていないようだったから、確認を取ることもなかった」
「それでも、もっと早くに……そう思った時に何か言ってくれれば」
だがそれを知ったところでどうしただろう、と思った亜里沙は口をつぐんだ。
結局は茉利咲が死んだ事実は変えられない。
「来訪者を秘匿することは大罪だ。例え王であっても」
申し訳なさそうに、王が呟いた。
「だから……きみが忘れているのなら、無理に思い出させることもないと思った」
王は頭を下げ、すまなかった、と謝罪した。
しばらくそれを眺めた亜里沙は、居た堪れない気持ちになった。
「頭を上げてください」
ぽつりと呟くと、王はゆっくり姿勢を戻してこちらを見た。
「マリサについて、私に答えられることなら、全て話そう」
何でも聞いていいと言われているようだ。
亜里沙は息を整えてから、口を開いた。
「茉利咲は、この世界から帰った時、城にいなかったはずです。誰も捜さなかったんですか?」
「もちろん捜した」
「そもそもどうして城から出ていたんですか?」
「その日、突然マリサが家族を恋しがり、王都のどこかにいると思ったキーランが連れ出したそうだ」
「異世界から来たのに。そう説明しなかったんですか?」
うむ、と王は困ったように言った。
「あの子は……あまり、物事を理解しようとしなかった。マリサと別れてからは勉学にも励んでいたが……その頃は、異世界というものがまだよく分かっていなかったのだ」
「でも、門は? 子供たちだけで、通れるんですか?」
王は眉間に深く皺を寄せた。
「……キーランだからと、通してしまったようだな。護衛はひとりついたようだが、その時の門兵も護衛も処罰を受け、もうここには残っていない」
兵たちはキーランだから尊重したというより、面倒だから言う通りにした、と。
王の物言いは、そんな事情が垣間見えるものだった。
「夕刻で人が少ないとは言え、民に見つかる危険がある。マリサの存在を知られてはならないと言い含めていたから、隠れながら移動したそうだ。そして後ろを確認した時、マリサはいなくなっていたらしい」
ここでも、茉利咲は振り返ってもらえなかったのか、と亜里沙は悲痛で胸が裂けそうだった。
「しばらく捜したようだが、夜も近くなり、キーランの安全を優先した護衛があの子のみ連れ帰ってしまった」
「どうしてその護衛はそれ以上捜してくれなかったの。茉利咲が、アマリア様でも貴族でも来訪者でもなかったから?」
「うむ……」
「容姿が特徴的でも、まさか来訪者だと思わなかった?」
「……その通りだ」
王が重いため息を静かに吐き出した。
「そして、キーランから話を聞いた私はその深夜から数日にかけて王都をくまなく捜索させたが、マリサは見つからなかったのだ。その後もしばらくは周囲の情報を気にかけていたが見つからなかったので、帰ってしまったのだと判断した」
(じゃあ、茉利咲がはぐれてから捜索が始まるまでの間にニーズが気づいて送り返したんだね。穢れるのがとても早かったんだ)
『ああ、そういうことだろう』
亜里沙を心配するニーズの気持ちが、自分が感じているかのように伝わってくる。
そしてそれは、ピリピリした亜里沙の神経を少しずつ宥めてくれている気がした。
「王様は……どうして、茉利咲を隠そうとしたんですか?」
その質問を受けた王の顔に、深い憂いが浮かんだ。
「キーランが何かの声だか音だかに悩まされているのは、きみも知っているだろう」
王は、亜里沙がキーランの耳を塞いでいたことは知っていても、残響の詳細については知らないようだ。
「マリサはキーランの自室に現れたそうだ」
「自室に……」
『自室だと?』
「そうだ。そして、報告を受けて見に行くと、キーランが回復していたから……」
「回復?」
「ああ。セレネが死んでから数日、キーランは連日連夜苦しんだ。それまではセレネが何とかしていたのだと、その時に初めて知った。親として恥ずかしい限りだが」
(セレネ様が神木の魂を与えても、苦しみは続いたんだ)
『その時に母の声を直接聞いていたなら、それも頷ける話だ』
「茉利咲が現れて……キーランを助けた?」
王が頷く。
「マリサは記録に前例がないほど幼かった。それにキーランを助けてくれたのだから、きっとマリサはキーランのための来訪者なのだと……」
言い淀む王の様子から、それは明らかだった。やはり息子可愛さに隠したのだ。大罪だと知っていながら。
「いつまでも隠すなんて、無理なのに……」
「……アリサの言う通りだな」
静かな言葉からは王の弱さが伝わってくる。
後ろにいて微動だにしないと思っていたリカルドが、ほんの少し、気遣わしげな視線を王に向けたのが見えた。
亜里沙は小さく息を吐く。
「茉利咲がどうやってキーランを助けていたのか、ご存知ですか?」
クルスが入ったのではないなら、大したことができたとは思えなかった。
亜里沙の中にはニーズがいるが、その力を最大限に引き出せているわけではない。
「きみがしてくれたことと同じだよ。ただ」
だが王が直接見たと語った、キーランを助ける茉利咲の姿は、まさしく“来訪者”だった。
耳を塞いだやり方は亜里沙と同じで、亜里沙のように歌ったりはしなかった。
だが茉利咲がキーランの耳を塞いでいる時、不思議な虹色の光が瞳から溢れるように輝いていたという。
(じゃあ、本当に力があったんだ。たまたま女神の苦しみが治まっただけかと思ったけど)
『ああ……だがそうすると、キーランの脆さには別の原因があるのだろうか……』
(え、どういうこと?)
『我は以前、キーランは、女神の力が体に合わないのにアストラムの血を引いてしまったから、脆かったと考えた。だがマリサが使ったのは女神の力そのものだ。弟妹たちの魂が入ったことで反発する反応が弱まったのだとしても、腑に落ちない』
(あ……でもそれじゃ、神木の魂が大丈夫だったのも変じゃない? だってアストラムの魂でしょ)
『確かに魂も力を持つのだから、危ない可能性はあったろう。だが魂が入った時点で死んでいないということは、それはキーランの体には馴染んだのだ。だがマリサの場合は直接女神の力を使っている』
(うん……)
『それで逆に害されなかったというのなら、我の考え自体が間違っていたのだ。だから恐らく、キーランが脆かった原因は、女神の力が合わないのでも、アストラムの血を引いたからでもなく、他にある』
(それは何?)
『少し考えてみる』
ニーズが静かになったので亜里沙も考えた。
亜里沙にはこの話で腑に落ちた点がある。
何の力も働いていない亜里沙の行為に効果があったのは、キーランが精神的に安定することで自衛できていたからだ。
そしてその安定も、茉利咲に実際そうして助けられたことを覚えていたから、だったのだろう。
その後、王は茉利咲の思い出を語って聞かせてくれた。
王が様子を見に訪ねると、茉利咲はいつも楽しそうにしていたという。
あまりベッドから出られないアマリアの世話を焼きたがり、侍女を困らせたこと。
王に会うと必ず一度はキーランと結婚すると宣言していたこと。
逃げるキーランをいつも追いかけていたこと。
語られる様子が茉利咲らしくて、悲しかったが、それでも亜里沙の顔には微笑みが浮かんだ。
「茉利咲はキーランが大好きだったんだ……」
「ああ、そのようだな」
王の顔にも懐かしそうな微笑みが浮かぶ。
「でもキーランは嫌がっていたのに、止めなかったんですか?」
「どうしてそんなことができようか」
王が目を細めて、その眼差しが優しさを増した。
「あのいたいけな子が、キーランが苦しむと何をおいても必ず助けてくれた。実際私も見ているし、報告でもそうだった。それだけでも十分なのに、例えどんな感情だろうと、マリサはキーランの心をも動かしてくれたのだ」
亜里沙が目を丸くすると、王は微笑んだまま、眉を下げた。
「キーランは生まれた時から泣きもしない静かな子でな。母がアストラムだから特別なのだと言われたが、気が気ではなかった。キーランの泣いた顔どころか、表情というものを見たことがない。無表情以外の初めて見た姿は苦しむ姿だった…… マリサが来てくれるまでは」
王は泣いているように見えたが、実際に目から一筋の涙をこぼしたのは亜里沙の方だった。
「マリサに追いかけられ、好きだと告げられて困惑するキーランの顔を見た時、どれだけ嬉しかったか」
王は小さく笑った。
「そのうちキーランもマリサに心を開いて、逃げもしなくなったし、笑顔まで見せてくれるようになったのだ。マリサが私にキーランと結婚すると言うたびに、そうなってくれたら、と願っていたよ」
そう静かに語って、王の表情に影が落ちた。
「すまない……マリサが亡くなってしまったのは、幼い身で来訪者に選ばれてしまったからかもしれない。せめて、時間を跨いで元いた時に帰るという話が本当であったことを願いたいが……」
亜里沙を見た王のその顔が憔悴して見える。
亜里沙は目を丸くした。
来訪者が元いた時間に帰るなんて、普通は知る術がないはずなのに。
「あの、それはどうやって知ったんですか?」
「それについては代々の聖王が……いや、パーシヴァルから聞いた話が真なら代々というのはあまり適切ではないか……聖王の教えとして広く伝わることだ」
わずかに眉根を寄せて王は続けた。
「来訪者が元の世界に帰る際は、時間を跨いで元いた時に帰る。その際入る穴は時空を裂いたようであると記録にあり、ロナンの報告でも記録通りだった。私はマリサが現れるまではそれを信じていたし、恐らくそれについては疑っている者はほとんどいないだろう」
「じゃあ、王様はなんで……」
「あんなに幼い子が選ばれたということに、抵抗を感じたからだ……息子のためにマリサを利用したも同然の者が、何を言うと思うかもしれないが……確かに来訪者としての力はあった。だがどうにも違和感が拭えなくてな」
亜里沙はあえて否定も肯定もしなかった。
何故知っているのかと聞き返したので、肯定したことと同じになるだろうが。
来訪者がここで過ごした年月の分、向こうの世界では苦しむ人がいると、この世界の人間がそう思えばいいのに。せめて、それくらいは。
心を満たす暗い感情をどうにもできず、亜里沙はそう思ってしまった。
この夜、亜里沙は夜が更けるまで王と言葉を交わした。
途中焦った様子の侍従が王を捜しに来たが、王はそれを追い返してしまった。
そして話し疲れて眠気が勝った頃、王の許可を得てこの部屋のベッドに横になる。
王は亜里沙が寝付くまでそばで見守った。
この世界では亜里沙は成人だし、そこまで子供扱いされなくてもいいとは思ったが、結局はそれを受け入れた。
夢で茉利咲に会えることを期待したものの、夢は訪れず、亜里沙は沈み込むように眠ったのだった。




