亀裂
亜里沙は恐怖に負けそうになったが、気持ちを奮い立たせた。
「離して、キーラン」
「どうして?」
「キーランにこんな風にされたくない」
エドワードを想っていなかったとしても、茉利咲のことをなかったことにするキーランに、触られたくはなかった。
キーランは渋るように亜里沙を離したが、片腕を捕まえたままだ。
そして、眉を顰めて亜里沙を見つめた。
「……思い出したのに、まだエドワードのことが好きなのか」
「そうじゃなくて……!」
「いや、もう過去のことはいい」
亜里沙の言葉を遮るように、キーランが語気を強めた。
「あれだけ僕を助けるって、ずっとそばにいるって、好きだって言っていたくせに。突然きみはいなくなって……僕がどれだけ……」
悲しげに歪む表情を見ると、まだ胸が痛む。
亜里沙は怒りで唇を噛んだ。
『落ち着け、アリサ。それに、今のキーランを刺激するな』
(だけど茉利咲のことを全部聞き出さないと……!)
「もう、誰とどうなろうと、アリサの好きにしていいよ。僕はきみを帰さないし、そばにいてもらうから」
「な……なに、それ」
そう言えばキーランは以前にも、似たようなことを言った。
キーランは茉利咲を好きだったから、亜里沙にもそう接していたはずだ。だがそれは本当に恋心や愛情だったのだろうか?
記憶の中の茉利咲を亜里沙に置き換えようとして、気持ちが自分に向かなくても強引にそばに置こうとしている。
その心は純真無垢のようなのに、どうしてこんなにも歪んでしまっているのか。
亜里沙が無意識に後ろに下がると、キーランに阻まれた。
「キーラン様」
ついにイザベラが声を上げる。
だが亜里沙はイザベラに向かって首を横に振った。
とにかく、何でもいいから情報を引き出したかった。
だが、亜里沙がそうする間もなかった。
「アリサの中にいるものが世界を繋いでいるんだろ?」
亜里沙は目を見開いた。キーランは一体、どこまで把握しているのだろう。
「どうすればそいつを引きずり出せるのかな」
まるで悪びれない様子でキーランがぽつりと呟いた。
「なるべくアリサに痛い思いをさせたくないんだけど」
悪寒が走った亜里沙は腕を掴まれたまま、更に大きく後ろに下がった。
「アリサ」
まるで幼い子をたしなめるように、キーランが名を呼ぶ。
『アリサ、ひとまずキーランから離れろ。今は話が通じる状態じゃない』
「離して、キーラン。離して!」
キーランは眉間に皺を寄せたが、少しして腕を離した。
「ごめん、痛かったのか」
そして、亜里沙に向かって手を差し出す。
「もう強くしないから。おいで」
亜里沙は首を横に振って、もっと後ろへと下がった。
茉利咲のことを聞きたいが、確かにこの状態では諦めるしかなさそうだ。
だが、今のキーランはいたって冷静に見える。
興奮状態ならまだしも、この後にキーランとまともに話せるときがくるとは、とても思えなかった。
その時、ロナンがアストリドの部屋を訪ねてきた。
「マクベルド伯爵がお越しです」
顔面蒼白で震えながら言ったアストリドの侍女に、キーランが鋭く答えた。
「通すな」
そして亜里沙に向かって大股に歩み寄る。
「アリサ、一緒に来て」
「や、やだ! 来ないで!」
キーランは亜里沙の目の前で足を止めた。
「アリサ……」
再び悲しげに見つめられて、つい寄り添ってあげたくなる自分に吐き気を催す。
キーランの肩越しにアストリドが侍女に指示をしているのが見える。
そしてすぐに、ロナンが部屋に通された。
「何があったんですか?」
異変に気づいたロナンが心配そうに亜里沙を見て近づいてくる。
キーランがほんの少しロナンの方に顔を向けて、すっと腕をマントの中に戻した。
瞬間、嫌な予感で背筋が寒くなった亜里沙が声を上げる。
「だめ!!」
あまりの速さで目が追いつかなかった。
気がついたらキーランとロナンは膠着状態だった。
背後に迫ったロナンに向けて短剣を振ったキーランの右腕を、ロナンの左腕が掴んで止めている。
かなりの力がかかっているようで、キーランの右腕が小刻みに震える。
逆手に持たれた短剣の先が、まっすぐロナンの首に向いている。
そして、今も尚キーランの腕には力がこもっているようで、それに気づいた亜里沙は、自分の顔から血の気が引くのを感じた。
(脅し、じゃない……? 相手はロナンなのに……まさか、本気で)
亜里沙は愕然としてキーランを見つめた。
遅れて侍女の鋭い悲鳴が上がる。
外からかかる声に、アストリドが「構うな」と声を荒らげる。
「何をしている、キーラン」
ロナンが顔をしかめて言った。
キーランはそれに答えず、小さく息を吐く。
「そうか……お前の左腕」
「お前? いくらキーランとは言え、一介の傭兵風情にそんな呼び方をされる筋合いはない。それに王女殿下の部屋に、こんなものを隠して持ち込むとは」
ロナンの左手が更に強くキーランの腕を掴む。
キーランは小さく呻いて短剣を取り落とした。
『この男……』
ニーズの呟く声に警戒心が滲んでいる。
ロナンは短剣を軽く蹴って、イザベラがそれを回収した。
イザベラに目をやって、ロナンはキーランの腕を解放した。
「キーラン、話があるからついてきてくれ」
「お前はアリサを帰そうとしているだろ。もうお前には従わない」
「そうか……だが残念ながら、雇い主はまだ私だ。従わなければ王都にもナイグラードにも二度と入れなくなるが」
「……そんなことは」
「できないと思うのか?」
キーランは亜里沙を振り向いた。
そして亜里沙の顔を見たその表情が翳る。
しばらくして、キーランはため息を吐いた。
「……分かった」
亜里沙が肩を震わせても、キーランは構わずに亜里沙の頬に触れた。
「後で迎えにくるから、待ってて」
キーランが踵を返すと、ロナンがため息を吐く。
「アリサさん、陛下の許可をいただきましたので、今日は城にお世話になりましょう。明日屋敷に帰りますが、大丈夫ですか?」
亜里沙は口がきけないまま、やっとの思いで頷いた。
「それから……落ち着いてからで構いませんので、一度話し合いましょう。この件についても、雇い主としてキーランの行動を把握しないといけないので」
言って、ドアの近くで鋭くロナンを睨むキーランを見やる。
「ご覧の通り、本人からは詳しく聞けそうにありませんから」
「あ……」
「できればアリサさんから直接伺いたいですが、体調も心配なので、無理はしないでください」
では後ほど、と言ってロナンはキーランを伴って去った。
最後に振り返ったキーランの眼差しが、脳裏に焼きつくように残った。
亜里沙はこのことを誰にも知られたくない、とアストリドに懇願した。
アストリドは困った様子だったが、最終的には亜里沙の気持ちを優先してくれた。
「私はきっと、聞いてはいけないことを聞いたのだろうな……まだ混乱しているが」
亜里沙が青ざめるとアストリドは眉を下げた。
「大丈夫だ。この部屋にいた者は全員口を閉ざすだろう。私がそうさせるから」
「あ……ごめんなさい、アストリド様……」
「謝るな。それに……キーラン様も、事情は分からないが人を攻撃するような方ではない。だから伯爵にしたあれは、きっと脅しだ」
あれが脅しだったのか、亜里沙には分からない。キーランは本気に見えた。
亜里沙が何も言えないでいると、アストリドは亜里沙の手を両手で優しく包んだ。
「アリサの妹のことが気になるが、今は聞くべきときではなさそうだ。アリサが私に話したくなったら、そのときに聞こう」
亜里沙が目を上げると、アストリドは亜里沙を安心させるように笑顔を見せてくれた。
何とかお礼を口にしたが、それは自分で思うよりも弱々しい声だった。
そして、今日はこの部屋に寝泊まりしていいと言ってくれた言葉に甘えて、そのままベッドを借りて横たわる。
(少し整理したいから、付き合ってくれる?)
『ああ。何でも言うといい』
亜里沙はベッドの天井を見ながら、一つ深呼吸をした。
(女神が茉利咲を連れてきた。そして、王城に住んでいたんだよね。その期間は約一ヶ月)
『ああ、そうだろう』
(そして茉利咲は何故か、来訪者としては扱われていない)
『そうだな。幼かったからだろうか』
(茉利咲はキーランを助けていたって、キーランが言ってたし、もしかしたら王様がキーラン可愛さに隠したのかな)
むう、と考え込むようにニーズが唸る。
(理由ははっきりしないけど、王様が茉利咲の存在を隠したのは間違いない。多分アマリア様の部屋が移されたのも、茉利咲を隠すためだったんだ。そして、そこで茉利咲とキーランとアマリア様は仲良くなった)
亜里沙はふと、よく茉利咲とごっこ遊びをしていたことを思い出した。
亜里沙が小学校に上がって少し経つとやらなくなったが、ごっこ遊びをする時は、必ず茉利咲が王子やヒーロー役で、亜里沙がお姫様やヒロイン役になった。
(茉利咲には、キーランが王子様に見えたのかも)
まるで亜里沙を守るべき存在かのように、面倒を見ようとしていた、大人びた茉利咲。
だが茉利咲だって幼かった。
茉利咲が本当は「お姫様になりたい」と思っていたことを亜里沙も知っていた。
それで茉利咲は、なかなか振り向かないキーランにずっと想いを告げ続けたのだろうか。
そして茉利咲の、幼かったゆえの言動の全てが、キーランが歪んでしまうきっかけとなってしまったのだろうか。
(半分アストラムだから……こじれてしまうの?)
ニーズは答えない。亜里沙は一息置いて考えた。
(茉利咲は世界じゃなくてキーランを助けようとした。中に入ったのがクルスじゃないから、私や翔くんみたいに自我に影響は受けなかったんだ)
『ああ……そうだな』
ニーズの声が暗く沈む。また罪悪感を覚えるニーズを亜里沙は放っておいた。
(茉利咲はあの日出かける時には外行きの服を着てた。だから、ネグリジェだったのは、ここの世界でそれを着ている時に……動けなくなったから)
ニーズが小さく同意する。
(夜に抜け出したのかな……もしかしたら、女神が与えた力が消えていくのを感じて、心細くなったのかな……私に、会いたかったのかな)
何度も聞こえた、おねえちゃん、と呼びかける声を思い出して、亜里沙の目から大粒の涙が流れた。
『アリサ……少し休め。このままではお前の心が持たない』
(でも……)
『きっとカケルもこのことについて調べているのだろう。お前のために急いでいるはずだから、それを待ってもいいのではないか』
亜里沙を労るその声色に、とうとう亜里沙は涙を堪えておけなくなった。
気づけば大声で泣いていた。
そばにアストリドとソフィーが来たのが分かっても、ずっとベッドに伏せたまま泣き続けた。
茉利咲。大事な妹。
あの時、後ろを振り返っていればよかった。
ふたり並んでも歩ける道だったのだから、手を繋いで並んで歩いていればよかった。
そうすれば、茉利咲が女神に引っ張られた時、亜里沙も一緒に落ちることができたのに。
そうすれば、あんなに暗くて寂しい場所で、たったひとりで最後を迎えさせずにすんだのに。
最後まで一緒にいられれば、茉利咲があんなに寂しそうに亜里沙を呼ぶこともなかったのに。
「ううっ……茉利咲……茉利咲あっ……!」
大声で泣き続ける亜里沙を、そっと包む感触があった。
アストリドとソフィーだ。
広いベッドに上がってきて、両側から亜里沙を抱きしめるように寄り添っている。
どちらのものか分からない手を亜里沙は必死で掴んだ。
溺れてしまいそうなほど、涙が溢れた。
そのうち亜里沙の中に、ある感情が芽生えた。
それは母である女神を殺して欲しいと祈ってしまった、セレネのその気持ちが、痛いほど理解できるものだった。
目を覚ますと、夕刻も過ぎようとしていた。
アストリドのお陰で、亜里沙はゆっくりお湯で身を清めることができた。
世話を焼くソフィーもいつもより亜里沙を気遣ってくれる。
亜里沙は感謝の言葉を口にしたが、どうしてもその言葉は弱々しくなってしまった。
アストリドの部屋で軽く食事をした後。
日が落ちた頃に亜里沙は寝巻きのままふらっと部屋を出た。
アストリドもその侍女も、護衛も驚いて声をかけてくるが、亜里沙は全て無視して歩いた。
ソフィーとイザベラだけは何も言わずに、亜里沙についてくる。
ソフィーは部屋から出た直後に追いついてきて、後ろから抱きしめるように上着を着せてくれた。
イザベラはどこからか灯りを調達してきて、亜里沙の様子を見ながら少し先を歩いてくれた。
『アリサ……どこへ行くのだ』
ニーズが強い不安を感じているのは分かる。だが亜里沙自身は今、空っぽになってしまったように何も感じなかった。
「ここが別館?」
庭園を少し奥に入り込んだところ。
表側にも建物はいくつかあった。だが全てそれらしく見えなかったので、裏に回ってみた。
そうすると、目についた建物がそれだと、何故か亜里沙には確信があったのだ。
イザベラが肯定したので、近づいてみる。
「アリサ?」
別館の入り口に近づいた時、そこから出てきた人物と鉢合わせになった。
「どうしたのだ、そんな格好で。もう体調はよいのか?」
王だった。エンリクやイバンに似た騎士をひとりだけ連れている。
茉利咲が導いてくれたような気がして、亜里沙は挨拶をすると、王に歩み寄った。




