無垢だったもの
部屋に着くとアストリドは笑顔で迎えてくれたが、亜里沙の顔色を見ると表情が変わった。
「アストリド様、お願い、何も聞かないで。休ませてください」
アストリドは目を丸くしたが、すぐに頷いてくれた。
「分かった。私のベッドを使うといい」
ソフィーとアストリドの侍女が亜里沙を休ませるために天蓋付きのベッドを整え直してくれる。
さすがに王女に与えられる寝室だ。イザベラに付き添われて広い部屋を横切る。
亜里沙がベッドに上がると、天蓋が周囲を覆った。
「そばにいるから、何かあったら声をかけてくれ」
アストリドの指示でパーテーションが置かれて、皆その向こうへと移動したのが分かる。
静かに息を吐き切ると涙が溢れた。
(泣いてる場合じゃない。ちゃんとしないと)
『アリサ、大丈夫なのか?』
ニーズも困惑しているのが分かる。
(大丈夫。本当は王様に話を聞きたかったけど、今は無理だから。ニーズ、知ってることを全部教えて欲しい)
『……では、これを話しておこう』
ニーズは躊躇いながら切り出した。
『一昨日の夜、アリサが寝ている間にカケルが部屋に来た』
亜里沙はぐっと唇を引き結ぶ。
ソフィーとイザベラが言えなかったのはこれだったのか。
ではあの、誰かに語りかけられる夢は──
『カケルは、九年前のお前の記憶を探ることができないかと聞いてきた』
(え……)
九年前、探る、となったら、亜里沙が忘れてしまっているあの記憶しかない。
茉利咲が死んだ時の記憶だ。
『お前に了承を得るべきだったが、カケルの様子が深刻だったので、我は言われた通りにした。だが』
ニーズが少し迷った後、続ける。
『お前の記憶は、封じられるように奥底で眠っていて、引き出すことができなかった』
(え? それはどういうこと?)
『いや、正確にはできるのだが、恐らくお前の体が自己を守ろうとしてのことだから、苦痛を伴うはず。だからカケルも我もそれを避けたのだ』
確かに亜里沙も医者から、自分を守るために脳が意図的に忘れたのだと聞かされた。
だがニーズの口振りはそんな話ではなく、他に何かがあるようだ。
(原因は? 何で私の体はその記憶を危ないと判断したの?)
『それが……お前のその記憶から、ある痕跡を感じた』
(それは何?)
間を置いて、ニーズは言った。
『母の、女神イーリスの力が働きかけた痕跡だ』
強い衝撃が亜里沙の体を貫いた。
(えっ? な、何で? カケルくんは何て?)
『カケルはそれを聞くと去ってしまった。だが女神の力がお前に働いたのなら……しかも九年前であればお前は幼い。負荷に耐えきれず、記憶を保持するだけでも危ないとお前の体が判断するのも頷ける』
(でも……どうしてそんなことに?)
王の言葉について頭の中の断片を繋げたかった。
だが思いがけない事実の発覚に、更に頭が混乱する。
(お願い、ニーズ。私の記憶を引きずり出して)
どうやっても自分でそれができないのは、ここまでの年月で嫌というほど思い知った。
ならば、体を共有するニーズに頼るしか方法はない。
ニーズは散々迷った末に、分かった、と呟いた。
『やってみよう……ただ我が守るとは言え苦痛があるはずだから、姿勢を楽にしていろ』
亜里沙はニーズに従ってベッドに仰向けになった。
緊張と恐怖で体が震え、寝具を掴む。
『では記憶を探る。耐えてくれ』
エドワードを思い浮かべ、自分を奮い立たせる。
『おねえちゃん』
亜里沙はハッとした。
頭の中が熱を持ったような感覚がする。
昨夜殴られた時よりも視界が揺らいで、ベッドの天井が回りだす。
咄嗟に目を閉じたが、なおも目眩を感じて吐き気がした。
それでも容赦なく、茉利咲の声が、耳の奥に激痛が走るほどの大きさで響いてくる。
『おねえちゃん』
「うっ……ま、茉利咲……」
頭が痛いのか耳が痛いのか、もう判断がつかない。痛みは手に負えないほどに強くなった。
『おねえちゃん』
『おねえちゃん』
『おねえちゃん』
「……っああっ!」
亜里沙の悲鳴で、誰かが動く。
「放っておいて!」
今は誰にもそばにいて欲しくない。亜里沙は必死で叫んだ。
頭は割れそうに痛み、熱を持った全身から汗が吹き出す。自分の体がぐるぐる回っているような感覚で、ちゃんと言葉になっていたかの判断もつかない。
幸い誰もそばには来なかった。
ふと、闇の中で、小さな少女が溺れているように見えた。
『おねえちゃん! おねえちゃん! 助けて!』
茉利咲が亜里沙に助けを求めている。
溺れている妹のその手を掴んだ。
腐ったイドルと化した茉利咲が、沼の中から亜里沙を見つめた。
(これは……前に、夢で見た……)
うっすら目を開けると、ぼんやりと歪む視界にはベッドの天井しか見えない。
『ねえ、おねえちゃん。助けて欲しいの』
がんがんと頭を貫くような大きな声がして、亜里沙は苦痛で再び目を閉じた。
『もう私は動けないと思うから。おねえちゃんに助けて欲しい』
「茉利咲……」
必死で呼吸をしながら亜里沙はどこにも届かない手を伸ばす。
ふと暗闇が開けて、暗くて辛気臭い橋の下が見えた。
何故そこが橋の下だと分かるのだろう?
だが妙に見覚えのある景色だった。
そこに自分は座っていて、もう指の先も動かせない。
『あなた、どうしたの?』
キーン、と刺すような耳鳴りがした。
目の前に真っ白い女性が現れる。
ぼんやりとした姿は不安定だ。
だが、この世のものと思えないほど美しく、その瞳は七色に輝いて見えた。
『いたいの? さみしいの?』
女性は無表情だが、吐き出される声はどこかあどけなく、言葉はたどたどしい。
だが女性が話すたびに刺し貫かれるような痛みが亜里沙を襲う。このまま聞き続けたらこれのせいで死んでしまいそうだ。
亜里沙は息も絶え絶えに言った。
「おねえちゃんに、会いたい。でももう多分動けないから、おねえちゃんに頼みたいことがある」
女性は表情を変えないまま、座っている亜里沙の目の前に迫って身を屈めた。こちらに伸ばされた手が顔を覆う。
冷たいような、熱いような奇妙な感覚に包まれて、そのまま闇が訪れた。
次の瞬間亜里沙が見ていたのは、黒い汚泥の中でまるでイドルのように穢れに包まれた茉利咲の姿だった。
『茉利咲! 茉利咲!!』
泣き叫びながら、後ろで突然池に落ちた茉利咲の腕を必死で引っ張る。
水の中で、茉利咲の体は段々と汚い泥が落ちていくようだったが、ピクリとも動かないし、動かせない。
茉利咲の着ている服が、いつの間にか変わっている。
『おねえちゃん、助けて欲しいの』
『えっ、なに? 茉利咲、起き上がって!』
『私はもう動けないから、会いに行けない。だから代わりに、おねえちゃんに助けに行って欲しいの』
『なにを助けに行くの? 一緒に行こうよ! おねえちゃんが引っ張るから、大丈夫だから起き上がって!』
『私の友だちを』
いくつかの大人の声がする。
男性が茉利咲の体を抱き上げて、あんなに動かなかった茉利咲は軽々と水から引き上げられる。
『茉利咲! 茉利咲!』
『亜里沙ちゃん、手を離すんだ!』
茉利咲は男性の腕の中でピクリともせずに、不自然に穏やかな声で言った。
『私の大事な、大好きなひと……キーランを助けて』
亜里沙は叫ぶ。
『絶対そうする! 約束だよ、茉利咲! 絶対そうするから!』
だから、私のもとに戻ってきて、と。
亜里沙は茉利咲に懇願するように泣き叫び続けた。
亜里沙はずっと息をしていなかったように、空気を激しく吸い込みながらベッドの上に飛び起きた。
「あ……ああ……!」
両手で寝具をきつく握りしめる。
そうだった。そうだったのだ。
ばらばらだった断片が少しずつ少しずつ繋がっていく。
『そうか……九年前、王都の水路で穢れに包まれていた者……あれが、お前の妹、マリサだったのか……』
亜里沙は目を見開いた。
『マリサの最後の願いを、母が聞き入れた。マリサの声を直接届けられるように、体から離れゆくマリサの魂とアリサが直接繋がったのだ。そして干渉されたアリサの体はその負荷に耐えられなかった……不安定とは言え、母があのように姿を現すとは』
憔悴したニーズの声。
世界をまたいで、理解不能なことを成し遂げる。
女神というよりも、化け物と言う方が馴染むと亜里沙は思った。
だから亜里沙は、あんなにキーランのことを放っておけなかったのだ。茉利咲との約束だったから。
──いや、もしかしたら。
それも、茉利咲の願いを聞き入れた、女神の力が働いた結果なのかもしれない。
(化け物……化け物……っ!!)
激しい怒りで頭が鋭く痛んだ。
茉利咲は女神に連れ去られた。
だが、何故だろう。何故女神は茉利咲を連れて行ったのか。
『アリサ……その時、母は聖王から身体の一部を奪われたことで苦しんでいた。苦痛のあまり連れてきてしまったのだろうと思うが……』
「でも……じゃあ何でキーランの名前が出てくるの」
『それは……』
ニーズには分からないのだ。
来訪者と、世界の穢れ以外の、ほとんどの物事から目を背けてきたニーズには。
ならば、キーランに直接聞くしかない。
亜里沙がキーランに会いたいと言うと、ソフィーがすぐに動いてくれた。
王の発言、そしてアマリアの日記を思い出す。
明記されなかった、三人いたかのような九年前のアマリアの記録。今なら翔が言っていたことがよく理解できる。
冷たくされてもキーランに何度も愛を告白していた「星の子」。
アマリアが執着を見せていた、その「星の子」の正体。
そして出会ってからのキーランの言動の全てが。
そこに茉利咲を当てはめることで少しずつ違って見えてくる。
アストリドのベッドに腰掛けて待つ。
この部屋にいる皆全員、亜里沙に遠慮してパーテーションの向こうに控えている。
少しして、キーランがソフィーと共に部屋を訪れた。
「アリサ? 大丈夫?」
心配そうなキーランの顔を見た瞬間、複雑な感情が絡み合って亜里沙は混乱した。
衝動的に立ち上がり、驚くソフィーを避けてキーランに迫る。
閉まったドアの近くに立ったまま目を丸くするキーランに、亜里沙は掴みかかった。
キーランは亜里沙を受け止めて、ドアに背中を打ちつける。
「危ないよ」
自分のことよりも亜里沙を心配して、諭すようなキーランの物言いに眉根が寄る。
キーランは、何故女神が連れ去ったのが茉利咲だったのか、何も知らないかもしれない。女神の暴挙とは何の関係もないのかもしれない。
だがそれでも、キーランとアマリアと過ごした「星の子」の正体が茉利咲なら、どうやって無関係だと思えるのだろう。
「どうしたの?」
固唾を飲んで見守る気配を後ろに感じながら、亜里沙はキーランに掴みかかったまま、震える唇をこじ開けた。
「茉利咲だったんだよ……」
「え?」
「茉利咲だったの、キーランが前に会ったのは」
キーランは目を見開いた。
「アリサ……九年前のこと、思い出したのか?」
亜里沙は噛み合わないやり取りに苛立った。
キーランと初めて出会った時のことが思い出される。
あの時は気にならなかったが、もっと疑問に思うべきだったのだ。
初めましてと挨拶した時、その言葉をおうむ返しに呟いたキーランの顔が曇っていたことを。
「違う、私じゃない! それは茉利咲だった!」
「……でも、きみの名前はアリサだったんだろ。僕が間違えて」
「そうじゃない! 私はそもそも九年前にこの世界には来ていない!」
キーランが眉を顰める。
「九年前にここに来たのは茉利咲で、私の妹なの」
「それは……家族だろ? 確か姉妹がいるって言ってた」
「キーラン!!」
亜里沙は名を叫んでから、ハッとした。
キーランの様子がおかしい。いつも通りなのがおかしい。
瞳の奥には闇のように暗いものが見える。初めて見たわけでもないのに、何故もっとこの闇を気にかけなかったのか。
「突然どうしたのか分からないけど、多分思い出したばかりで混乱してるんだね」
そっと包み込むように両肩に触れられる。
キーランは亜里沙に微笑んだ。それでも尚美しいその笑みが、亜里沙の目には恐ろしく映る。
「キーラン……それは私じゃないの……」
「きみだよ、アリサ。あれはきみだった」
「な、なんで」
「だってきみが言ったんじゃないか、何度も。僕を助けられるのはきみしかいないんだって」
今度は亜里沙の目が見開かれる。
茉利咲は一体、どれだけのことをキーランに信じ込ませてしまったのだろう。
「実際、そうだったよ。こうしてまた会えたし、何度も助けてくれた……だから」
キーランの笑みが更に優しくなった。
「アリサ、あれはきみだった」
「き、キーラン……」
亜里沙の全身が震えだす。怒りと恐怖によって。
「茉利咲の存在をなかったことにしないで!! 茉利咲は死んじゃったの、九年前に。死んじゃったんだよ、この世界のせいで……それなのにキーランが、茉利咲の存在を消そうとしないでよ!!」
「マリサ……死んだ?」
キーランの顔が曇る。
亜里沙が口をつぐむと、少しの間沈黙が訪れた。
「アリサ、また嘘を吐いたの?」
「え……? ち、違う、そんなつもりじゃなくて、茉利咲と間違われて」
「違うよ、アリサ」
キーランの手に力がこもり、暗く冷たくなったその彫刻のような顔が亜里沙の目前に迫った。
「アリサの家族が幼い頃に死んだんだろ?」
噛み合わない。目を合わせて、言葉も交わしているのに、心が噛み合わない。
「アリサの世界も危ないんじゃないか」
「……な、何を言ってるの……?」
キーランが青ざめる亜里沙を抱き寄せた。
何故か亜里沙はその時、何かに囚われてしまったような感覚を覚えた。
「……じゃあ、もうアリサを帰すわけにはいかないよ」
抱きしめる腕が更に強くなる。
「う……キーラン……」
「ずっと、ここにいてアリサ。僕のそばに」
そして亜里沙にとって、もう何度となく聞いたあの言葉が、そっと耳元で囁かれた。
「大丈夫。僕がアリサを守るよ」




