渦中
亜里沙はふと暗闇の中で目を覚ました。
ぼんやりした頭を動かすと、鈍い痛みが頭全体に広がって体が硬直する。
上質な寝具の感触がある。どうやらベッドに横向きに寝ているような状態だ。
頭の痛みで体を動かしにくく、亜里沙は元々の姿勢にそっと戻った。
暗闇に目が慣れていないうちに、目の前にいる存在に気がつく。
「キーラン……」
亜里沙の目の前に同じく横向きの姿勢で横たわり、亜里沙をじっと見つめている。
名を呼ぶと目が細められた。
「……え。どういう状況?」
なるべく目だけを動かして周囲を見る。
天蓋付きのベッドだ。見たような景色に、嗅いだことのある香り。
「ラティファの部屋?」
「そうみたいだね」
そう呟いたキーランはじっと亜里沙を見つめたままだ。
「どうしてまた助けてくれたの?」
亜里沙がまだ状況を把握できないうちに、キーランがそう問いかけてきた。
先ほどの冷たさが嘘のように、亜里沙を見つめるキーランの眼差しが優しい。
「助けるのは当然でしょ。もう何ともない?」
キーランが微笑む。
「もう大丈夫だ。ありがとう、アリサ」
亜里沙の頬にキーランの手が伸びて、驚いた亜里沙が身構えると、その手は遠ざかった。
この暗さでも目が慣れて、しかもこの至近距離では、キーランの瞳が悲しげに揺れたのも見えてしまう。
「あ……ごめん、私」
「いいよ。それ以上は聞きたくない」
キーランはゆっくり仰向けになった。
横顔が一瞬歪むのを見て思わず上半身を起こす。
ガン、と頭に響いて再びベッドに倒れた。
キーランがわずかに顔をこちらに傾ける。
「急に動いたら駄目だ」
「うん……ねえ、さっきのあれって」
亜里沙は何とか身を捩って部屋の中をできる限り見渡した。
「今は誰もいない。イザベラがもう少ししたら戻ってくると思う」
亜里沙はひとまずほっとして、キーランを見た。
「あれ、人を攻撃したからだよね?」
「ああ……うん。あんなに激しいのは初めてだけど」
「前にも攻撃したことあるの?」
「掴み合いとか、些細なことだよ」
亜里沙は自分のことなのに淡々と語るキーランに胸が痛んだ。
「ねえ、もっと自分を大事にして」
キーランは亜里沙をまじまじと見た。
「……大事にって? 例えばどんな風に?」
「え? どんな風って……とにかく、無事でいて欲しいし、体を労って」
「僕に生きていて欲しいってこと?」
無事でいる、体を労るということが、何故そんな大前提の話に置き換わってしまうのか。
「いや、それは当然のことで、生きていて欲しいだけじゃなくて」
「分かった。アリサがそう望むなら」
亜里沙が上手く説明できないまま、キーランはそう答えた。
少しするとキーランから穏やかな寝息が聞こえてきた。
亜里沙はニーズに語りかけてみる。
だがニーズが起きる気配はない。
(ニーズ……大丈夫かな……)
何をどうやってあれに対処したのかは分からないが、相当力を使ったのは分かる。
意識の中に行ってみるべきか悩んでいると、イザベラが戻ってきた。
「アリサ様、お目覚めでしたか」
すぐに亜里沙の近くに来て跪く。そばを離れたことを悔やむイザベラに、亜里沙も申し訳なさが込み上げる。
「そんなに自分を責めないで。いつも守ってくれてありがとう」
そう言うと、イザベラは眉を下げたままだったが、口の端に小さく笑みを作った。
「それで、どのくらい寝てた? 何で私キーランと寝てるの? さっきの……騒動は、どうなった?」
「そんなに時間は経っておりません。おふたりは気を失われたのですが、アリサ様がキーラン様をお離しにならなかったので、やむを得ず」
では寝ているうちにキーランを解放したのか。
それがキーランが起きる前であったならいいのだが。
「先ほどのことは」
イザベラは一層声を落とした。
「心配なさらなくても大丈夫です。オルマの者たちが上手くやるでしょう。殿下に害は及ばないかと」
すぐそばで人が死んだというのに、亜里沙は真っ先に安堵してしまった自分が怖くなった。
何かが起ころうとしている、または既に起こっている。
その全容は亜里沙には見えない。
分かるのは、ラティファがやはりエドワードと、その何かにおいて協力関係にあること。
そして、サイラスやサフィナもその仲間であり、恐らくそれはルージェンも同じであること、だ。
(ジェーン、か……)
だが、亜里沙にとって一番大事なのはエドワードが無事でいることだ。
そのために必要なら、いくらでも目を瞑る。
「伯爵にはおふたりがこちらで宿泊すると、ラティファ様から知らせが行きました。酒の席で会話が弾んだことになっています」
ロナンが様子を見にくるのではないかと心配したが、そちらはソフィーが上手くやってくれるのではないか、とイザベラが言った。
「キーランは……ロナンに話したりしないかな」
「キーラン様はそういったことをお話しになる方ではありません。恐らくアリサ様がご無事であれば、そのまま飲み込んでしまわれるでしょう」
重要な情報を持っていて驚くこともあるが、確かにキーランは基本的にそれらを口にしない。
亜里沙に対して秘密の情報を明かしたこともあったが、恐らくそれは亜里沙だからだろう。
多少の懸念は残るが、亜里沙は小さく頷いた。
しばらくするとラティファが部屋を訪れた。
深く眠るキーランをイザベラが抱えて出て行く。
別に部屋を取ってくれたらしい。
ランタンに火が灯され、ほのかに明るくなる。
「調子はどう? 痛みはまだある?」
上体を起こした亜里沙の顔色を見ようと、近づいたラティファからあのスパイシーな香りがする。
何故か小さな引っかかりを覚えたが、それはすぐにどこかへ消えた。
「動かすと少し痛むくらい。大丈夫だよ」
ラティファが安堵の笑みを浮かべた。
「頭、こぶになっちゃってたから、何にでもよく効く薬を塗っておいたわよ」
「ありがとう。あの……ラティファ、さっきの」
「あ、そうだ。飴の瓶、割れちゃってたの」
そうやって、空の巾着と、ガラスの綺麗な器に飴だけを集めたらしいものを見せてくれる。
何となく、亜里沙が質問するのをラティファは拒んでいる気がする。
飴を見つめてから、亜里沙はラティファを見た。
「それ、ラティファにあげようと思って買ったの」
ラティファは不意を打たれたように目を丸くする。
そして飴に視線を落とすと、どこか寂しげな微笑みを浮かべた。
「……嬉しい。ありがとう」
亜里沙に目を戻したラティファはもういつもの明るい笑みだ。
「じゃあ遠慮なくー」
飴を口に入れて目を細める。
「んー、美味しい」
そんなラティファの様子に亜里沙も自然と笑みがこぼれた。
「あ、お腹すいてない? 注文したけど食べなかったって聞いたわよ。スープなら用意できそうだけど、口に入りそう?」
途端に腹が鳴って、亜里沙は若干恥ずかしかった。
「うん、お願いしていいかな」
温かいスープを口に入れると染み渡るように美味しく、ほっとした。
思う以上に疲れているらしい。
亜里沙がスープを飲み干すのを黙って見届けたラティファは、彼女らしくない暗い声で言った。
「アリサ。さっき見たことも聞いたことも、忘れてもらいたいの」
亜里沙は、こちらを見るラティファの真剣な顔を見つめた。
ランタンの灯りがゆらめくその瞳は、刃のように鋭く見える。しかしその表情には少しの躊躇いのようなものが見えた。
「……誰にも言わない」
ラティファの眉根がわずかに寄る。
信じていいのか決めかねるのだろうか。
亜里沙はしばらく迷ったが、これを告げることにした。
「エドワード……様が、好きなの」
ラティファの目がわずかに見開かれる。
何を感じているのかは分からないが、ラティファはしばらく亜里沙を観察するように見つめた。
亜里沙もまた、その視線を受け止めるように見つめ返す。
ラティファなら亜里沙の想いを聞けば納得してくれるし、耳にしたことも胸の内に秘めてくれる。
何故か亜里沙にはその確信があった。
そしてラティファは、微笑みを浮かべた。
それは亜里沙に寄り添うような、温かいものではなかった。
しかしその微笑みは亜里沙に、思った通りだと感じさせた。
「……そう。それなら安心できそうね。あたしも今聞いたことは忘れるわ」
ふう、と息を吐いて、ラティファは伸びをした。
「あー疲れた。踊ったせいで汗だくよ。ちょっと汗を流してくるから、アリサはゆっくりしてて」
亜里沙も汗を流したかったが、まだ痛みがあるので我慢した。
しばらくしてイザベラとラティファが揃って戻ってきた。
イザベラはラティファに遠慮するようにパーテーションの向こう側に移動する。
ラティファは長い豊かな髪を全部下ろしていて、ベッドの端、亜里沙の足元にかけると手際よく整え始めた。
「手伝おうか?」
亜里沙はゆっくりと身を起こす。薬の効きがいいのか、動くたびに襲ってくる痛みは小さくなっている。
「怪我人にそんなことさせられないわよ」
ラティファは横目で亜里沙を見やって言った。
そして亜里沙が近づいて座り込むと、おかしそうに笑う。
「触ってみたいんでしょ。いいわよ、好きにしてちょうだい」
知り合いの小さな女の子がやたらラティファの髪を弄りたがる、とラティファは笑って話してくれた。
亜里沙が幼い子と同じだと言われたようなものだが、気にせずラティファの髪を丁寧に拭き取る。
(三つ編みにしたり、全部アップにしたり、ポニーテールもやりがいがありそう)
アストリドは下ろしたままが似合い過ぎていたが、ラティファならアップが合いそうだ。
そんなことを考えながら首元の毛束を掬い上げた時、ふと、左の襟足の辺りに不思議な痣のようなものが見えた。
それは鳥が飛ぶ時の姿を模ったものに見える。
一瞬タトゥーかと思ったが、それならこんなに生え際に近い位置に彫るだろうか?
いずれにしても、このぼんやりした灯りでは分からない。
「えっ、やだ、見えちゃったの? こんな暗いのに」
亜里沙の手が止まっていたからか、ラティファが気づいてため息を吐いた。
「それ、うちの一族でも最悪に駄目なやつから受け継いじゃったの。あたしにとっての恥なんだから、忘れて」
ということは、タトゥーではないのか。
何となく縁起が良さそうだしかっこいい形だが、亜里沙はラティファの気持ちを汲んで「分かった」と頷いた。
ラティファの髪を乾かすのを手伝った後。
ラティファの髪でしつこく遊んでいたら、イザベラから明日の午前のことについて言及があった。
明日の午前は王への謁見がある。
亜里沙は大人しくベッドに入り、ラティファは寝る準備を整えてその隣に横になった。
眠くなるまで、ラティファとゆっくりと言葉を交わす。
取るに足らない些細なことを言い合って、気がつけば亜里沙はそのまま眠りに落ちていた。
翌朝、目を覚ますともう隣にラティファはいなかった。
その代わりに部屋にはソフィーがいて、頭が働かない亜里沙を気遣いながら素早く身支度を整えてくれる。
「お怪我に響きませんか?」
「うん、大丈夫だよ」
「……もう、危ないことをなさってはいけませんよ」
そう呟かれた声が涙交じりで、亜里沙は謝ることしかできなかった。
階下へ降りるとまだ眠そうなキーランと、亜里沙たちを迎えにきたロナンがいた。
当然なのだろうが、廊下も綺麗だし階下もいつもの宿の風景だ。
あのオルマの人々が何をどうしたのか、亜里沙は知らされていない。
あれは夢だったのではないかとすら思えてくる。
「おはよう、アリサ」
「おはようございます。昨夜は盛り上がったようですね」
キーランとロナンに挨拶をされて、亜里沙は平常心を意識しながら挨拶を返した。
ロナンが特に何も気にかけていない様子で、亜里沙にも何も問いかけてこない。
ロナンは昨夜のことをまだ知らないのだ、と亜里沙は悟った。
これから知るのか、それともあのパペット小屋のカイリという男は人知れず消えたことになるのか。
だがソフィーは事情を知る様子だった。
もともと主従だったふたりの関係が変わってしまったと、今はっきりと思い知らされた。
嫌な鼓動を感じて、亜里沙は頭から昨夜の出来事を追い出した。
王への謁見にはキーランとロナンも同行するようだ。
馬車に乗っての移動中、何やら考えていたロナンがふと亜里沙を見た。
「一昨日の午後、ラティファを見かけましたか?」
ロナンの唐突な問いに亜里沙は驚いて挙動不審になるところだった。
「え、一昨日? 祭りの二日目だよね。ラティファならステージで音楽隊と演奏してたよ」
キーランに目をやると、亜里沙の視線を受けて頷く。
「……ではやはり間違いないか……ありがとうございます」
「何かあったの?」
「いえ、大したことでは。忘れてください」
忘れろ、と。亜里沙はこの言葉をこの短い間に何度も聞いている。
(一体何が起こってるの……)
亜里沙の知らないところで暗い何かが渦巻いている。
亜里沙はただ、その渦でエドワードが溺れないように助けたいと強く思うのだった。




