求婚
聞けば翔は、亜里沙もまだ寝ている早朝に出かけたという。
起きて身支度を整える時、ソフィーからそれを聞いた亜里沙は、ソフィーの様子がおかしいことに気がついた。
「出かける以外には何か言ってなかった?」
「あの本をお持ちになるとのことでした。アリサ様に確認せずお渡ししてしまいました」
ソフィーも亜里沙と同様に不安を感じているのが分かる。
亜里沙と違って、ソフィーは更に事情を知らないし、気になったとしても聞くこともない。
亜里沙はソフィーの両手を取って握った。
「大丈夫だよ、多分調べ物だから」
アマリアの日記を持って行ったのなら、きっと間違いない。
もう一冊の本に暗号が隠されているとみて、エドワードに相談に行ったのだろう。
(エドワード様は午後にこっちに来る。翔くんには言っておくべきだった……すれ違いにならないといいけど)
ただ、何故亜里沙に何の相談もなく、こんなに早く出て行ってしまったのか分からず不安が拭えない。
少しの間お互いを落ち着かせるようにソフィーと手を握り合った。
「アリサ様……昨夜……」
「ん? どうしたの?」
「い、いえ。何でもございません」
ふとソフィーの肩越しにイザベラを見ると、彼女もどこか表情が曇っているようだ。
だが何かの事情があって口を閉ざすなら、これ以上は聞けない。
そう言えば、と亜里沙は自分の内側に意識を傾けた。
昨夜起きているよう言われたニーズは、今は眠っているようだ。
朝食時。ライアンはいなかったがキーランも姿が見えない。
亜里沙は一緒に席に着いたロナンからも、翔が出かけたことを聞いた。
翔は、調べ物に数日かかるかもしれないと言ったそうだ。
「そこまで熱心に、何を調べているんでしょうね」
ロナンの言葉を聞いて亜里沙は更に心配になった。
翔が以前、していることは全て王の耳に入っていると、ロナンから言われたという話を思い出す。
そしてそれを、脅されたと翔が感じていたことも。
亜里沙は何でもない風にロナンを見た。
「翔くんは、ちゃんと帰れるようにするために色々調べてるんだよ。そう聞いてる。ロナンだって協力してくれてるじゃない。ひとりで出かけたのは心配だけど」
言えるのはこれが精一杯だった。
しかしロナンは亜里沙の視線から目を外した。
「……カケルくんなら心配いりません。私の保護下にあるので、ひとりで行動しても大丈夫でしょう。もし滞在が長引くようなら様子を見に行きます」
「あ、それなら、明日私も呼ばれてるから、その時聞いてみるよ」
「ああ……そうでしたね」
ロナンは眉を顰めた。
それきり会話は途切れて、そのまま食事は終わった。
翔を心配しつつ、亜里沙がロナンを探すと執務室のドアが開きっぱなしだった。
使用人たちが何やら上等な木箱を運び入れている。
「ライアンはどうした?」
外から覗くと、ロナンが足元の木箱を見ながら言った。
「お戻りは夕刻と伺っております」
執事が答え、ロナンがため息を吐く。
「……ではこれは全て私が確認するということか」
忙しそうだと判断して踵を返すと、ロナンの声がした。
「アリサさん、入ってください」
「え? でも」
「何か用事があったのでは? 遠慮しないで、どうぞ」
執事が亜里沙と入れ替わりに退室する。
「そこは開けておいていい。どうせまだあるんだろうから」
「はい。もう少ししたらまた届きます」
執事は亜里沙に会釈して、ドアを開けたまま去った。
「すごい荷物だね」
木箱を避けながら歩く。
机に戻り、椅子に座って書類に目を落とすロナンを見た。
「ええ、本当ならこれは倉庫に……いや、そんな話はいいでしょう」
ソファにかけるか聞かれて、亜里沙は緊張した。
手に持った小さなバスケットにロナンの視線が注がれたからだ。
ロナンの目の前で立ち尽くしたまま固まる亜里沙に、ロナンは小さく笑った。
「手に持っているそれは?」
「あ、えっと、ちょっと作り過ぎちゃったんだけど」
ぎこちなく言いながら、亜里沙はロナンの目の前、書類がない場所にバスケットを置く。
蓋を開けると、甘い匂いが漂った。
「これは、昨夜の残りを私にくれるということですか?」
確かにそう言ったが、残り物を押しつけたと誤解されるのは嫌だ。
「ち、違うよ! あれは嘘なの。本当はロナンに作ろうと思って。でも私、下手だから上手くいったら話そうと思ってたんだ」
ロナンの驚いたような眼差しを受けてクッキーを確認する。
出来上がった直後は悪くなかったが、こうして見ると、普段から良い料理を食べている人に渡すものではないと思えてくる。
「一応……ソフィーに聞いて作ったし、昨夜味見はしたんだけど……甘いもの、大丈夫だったよね?」
ロナンが答えないので亜里沙は目を上げた。
「あれ、苦手だった?」
「いや……甘いものは好きだよ」
ようやく答えたロナンの声は静かで、目線はバスケットの中のクッキーにある。
何を考えているのから分からない表情で、ロナンはそれを一つ摘み上げた。
ロナンがクッキーを口に入れると、食べ物にあるまじき音がした。
「……えっ!」
驚愕した亜里沙を尻目にロナンは顔色を変えずに食べている。
だがそれは絶対に食べてはならない何かだ。よく見ると色も変だし、苦いことだけは確かだ。
「うそ、ちゃんと味見したのに……ていうか、ナッツ? ナッツの音、それ?」
亜里沙は慌てて、次のクッキーを取ろうとするロナンの手を掴んだ。
「食べちゃだめ! ごめん、多分失敗してたやつがあったんだ……気づかなくて」
ロナンは掴んでくる亜里沙の手をそっと取った。
「アリサ、美味しいから」
「いや、そんなはずないって、その色」
「美味しいよ」
もう一度そう言ったロナンを見る。
目を合わせて謝ろうとした亜里沙は、そのまま言葉を失った。
亜里沙を見つめる真剣な表情、真剣な眼差し。
それはいつもとは何かが違った。
ロナンの頬がわずかに上気しているように見える。
反射的にロナンの手を離したが、その手は逆にロナンに握られていたので逃げられない。
ロナンは突然立ち上がって、机にもう一方の手をつくと亜里沙の目の前に迫った。
「触れたいから許可をくれ」
吐息がかかりそうなこの距離で、何の許可かは明白だった。
以前と違って、ロナンの表情にも見つめてくる瞳にも余裕が感じられず、亜里沙はひどく狼狽えた。
「あ、ご、ごめん……だめだよ」
「なぜ」
掴まれた手を引かれて前のめりになる。
そのままキスされるかと驚いたが、ロナンは鼻先で止まってくれた。
その時、開け放されたドアの近くに立つイザベラが、あ、と小さく声を上げるのが聞こえた。
──そうだ、ドアが開いている。
自分の顔から血の気が引くのを感じる。
ロナンは眉を顰めて亜里沙から離れた。
解放された手を、咄嗟にもう片方の手で包む。
ドアの向こうで使用人たちが行き交っていたとして、振り返ってそれを確認する勇気はない。
そして、ため息を吐くロナンを恐る恐る見つめた。
亜里沙を見つめ返すロナンから、いつかと同じ失意と苛立ちを感じる。
「俺にそういう感情を抱いたことは?」
答えようとして口を開くも、言葉に詰まった。
ロナンはそれを否定と取ったようだ。
「本当にないのか? 一度も?」
怯んでいる場合ではない。
からかう様子も意地悪な様子も、今のロナンからは少しも感じない。
きちんと向き合わないといけない、と亜里沙は思った。
亜里沙は一度口を閉じて、再び開いた。
「正直、ロナンは優しいし、かっこいいし、大事にされて浮かれてた時はあったよ。それとは関係なく人として好きだし。でも私は」
ロナンの苛立ちが一層ひどくなったようだった。
だが亜里沙はロナンをまっすぐ見つめて言った。
「エドワード様が好きで、他にこんな気持ちを感じた人はいない」
静かに吐き出された息は重く、亜里沙を責めているようだ。
「もし、俺がアリサに……ここに残ってくれと頼んだら、アリサはどうする?」
予想もしていなかった問いかけに目を見開いた。
「え? なに言ってるの、だってロナンは」
「ああ、そうだった」
ほんの少し語気を荒くしたロナンは苦しそうに顔をしかめる。
「ただ……、もしアリサが望むなら、この先ここで暮らしても不自由のないようにする。俺がずっときみを守る。今度こそ、死ぬまでずっと」
ロナンの目が、亜里沙に拒むなと言っている。
「それ……結婚してって言ってるみたいだよ」
「そうだと言ったら?」
だが、その目に映っているのは亜里沙でも、その心を大きく占めている存在はまだキョウコなのではないか。
「だけど私は……」
「人の心は移ろうものだ、アリサ」
そんなことはない、と言いたかったが、今の亜里沙にはそれが言えない。
ロナンはまだキョウコを想って苦しんでいるように見える。
だがそれも、もしかしたら純粋に愛情だった頃からは、変わり果てている何かなのかもしれない。
「俺が忘れさせてやるから、俺を選んでくれ」
その物言いは、懇願にも似ていた。
こんな時に何故か、いつかラティファが軽口で、ロナンが亜里沙の愛を乞うと言っていたことを思い出す。
「……多分、ロナンならそれができるんだろうね。でも私は、ロナンを好きになる前に……他の人と結婚する彼を憎んでしまうと思う」
エドワードに触れられて、それが何にもかえがたい幸せだと分かってしまった。
そんな自分がこの世界に残ったとしても、エドワードの隣に他の誰かが立つことを許容できるとは思えない。
いつかはロナンを好きになるかもしれない。
だがきっとその前に、この心は醜く歪んで崩れ落ちてしまうだろう。亜里沙にはそれがたまらなく恐ろしい。
エドワードと想いが通じた瞬間、自分の中にある脆さに気づいても、「どうせ帰るから」と見なかった振りをした。
今それを引きずり出された。
あの世界に帰って二度と会えなくなることよりも、その脆さが、エドワードや亜里沙自身に牙を剥くことの方が耐えられない。
もし翔のことがなかったとしても、もうこの世界に残ろうとは思えない。
「そんなの無理だよ。私は帰らないと」
そう言って、ロナンを見る。
ロナンの目に明らかな失意が浮かんだ。
そして次の瞬間、それが怒りに変わった。
机越しに再び身を乗り出したロナンの手が、乱暴に亜里沙の頭を引き寄せる。
そして亜里沙が驚く間もなく、口付けをされた。
「……かわいそうだから、唇にはしないでおくよ」
すぐに離れたロナンの顔に意地の悪い笑みがうっすらと浮かんだ。
以前と同じ、頬に。ただし唇の端ではなくちゃんと頬だった。
気遣いの方向がおかしいが、それでも、ロナンはやはり根底にある優しさを捨てきれない人なのだと思った。
「私、前にもう絶対だめだって言ったよね。それに今、触ってもいいか聞かなかった」
「そうだったか? 覚えていないな。それから言っておくが、俺はこれまで、触るのにいちいち許可を求めたことなんかない」
「そうなの?」
まさか自分だけ特別なのかと驚愕するところだったが、ロナンは自嘲気味に言った。
「その必要がなかったからな、きみ以外は」
自分がモテることを鼻にかけた様子ではなく、事実として語られたことが何となく癪に障った。
亜里沙が無言で見ていると、ロナンは小さくため息を吐いて椅子に座った。
「滞在先はこれまで通りここで。今後のことについての話し合いを先延ばしにしていたので、近いうちに話しましょう。カケルくんの用事が延びた場合は、彼が不在でも一度アリサさんと話したいと思っています」
事務的に述べた後、ロナンはふとテーブルの上のクッキー入りバスケットに目を留めた。
ロナンの視線に気づいた亜里沙は慌てた。
「あの、これはもう食べないで」
「美味しいと言っているのに。ちゃんと全部頂きます。私ひとりで。私に贈られたものなので」
まだ棘のある言い方だ。これは当分機嫌が悪いかもしれない。
しかし、亜里沙が退室する時、ロナンは一度亜里沙を呼び止めた。
「ありがとう、アリサさん」
まだ影のある表情だったが、浮かんだ微笑みはとても優しかった。
退室する時、イザベラの立ち位置が変わっていた。
ドアが開いた執務室自体を守るように仁王立ちしていて、通り過ぎる使用人が大きくそれを避けるように歩いている。
亜里沙はイザベラへの感謝を口にしたが、イザベラは眉を下げて亜里沙を見た。
そして部屋に戻った時、ずっと迷う様子だったイザベラはとうとう口を開いた。
「あの……アリサ様。本日はその、殿下とお約束がありましたよね」
「うん。午後からだから、もうそろそろ準備しないと」
「もしかしたら、行かない方がいいのでは……。私から殿下にお伝えしますから」
「えっ? や、やだよ、絶対行く」
せっかくのデートなのだ。
確かにエドワードとの関係についてはたくさん思うところはある。
好き以外にも複雑な感情や不安が付き纏ってくるのは事実だ。
それでも、帰ったら二度と会えなくなるのだから、それくらいはいいのではないか、と亜里沙は意固地になった。
「でも、何でそんなこと言うの?」
「いえ、それが……」
嫌な予感がした亜里沙はイザベラに詰め寄った。
「どうしたの? ちゃんと教えて」
ずっと下がっているイザベラの眉が更に困ったように下げられた。
そして、イザベラは白状した。
「実は、先ほど殿下がいらっしゃっていました」
亜里沙は目を見開いた。この言い方は、まさか。
「ヴァーロ卿のみホールの方に見えましたが、殿下のあのご様子からすると、お約束も先触れもなくおいでのようでした。そして、ドアが開いておりましたので……」
イザベラは、とても言いにくそうだった。
もう答えは分かったようなものだが、それでも確認するまでは分からない。
そしてイザベラは、亜里沙とロナンが口付けをしているところをエドワードが見てしまった、と言った。
先ほどイザベラが声を上げた時、あの時のことだ。
「し、してない! キスなんかしてない!」
正確には、最後に頬へのキスはあった。だがイザベラが言う問題のその時、イザベラは亜里沙とロナンが唇を合わせたと思っているようだ。
「え、そうでしたか……私の方からはそう見えたので、てっきり」
イザベラからもそう見えたなら、ドアの向こうにいる人からどう見えたかなど想像に難くない。
「やっぱり、行かなきゃ……ちゃんと話さないと」
イザベラはもう何も言わなかった。
ソフィーがあのワンピースを用意してくれていた。
初日に汗をかいて汚れたと思っていたが、聞けばソフィーが手入れして、またすぐに着られるようにしてくれていたらしい。
誤解を与えてしまったのにこんな格好を、とも思ったが、これを着た姿を一番見せたいのはエドワードだ。
ソフィーの心遣いも無駄にしたくない。
亜里沙はもう一度、この星空のようなワンピースを身に纏い、広場へと出かけた。




