もう会えないひとに
夕食時に屋敷に帰り着いた。
ひとまず着替えてから部屋を後にする。
イザベラと共に執務室を訪ねると、ロナンだけは帰ってきていた。
机にいくつか書類を広げ、椅子の背もたれに寄りかかるその顔には、強い疲労が浮かんで見える。
亜里沙が心配すると、ロナンは今日の予定を話してくれた。
「アリサさんは会ったのも覚えていないかもしれませんが、アウルマルクの職人組合の長と、今日は約束があったんですよ」
「あ、覚えてるよ。エストランさん……だったよね。今日だったんだ」
「ええ」
気怠げに答えるロナンをよく見ると、その疲労は精神的なもののようだ。
「……帰ってきてくれてよかったです」
唐突に言われて目を丸くする。
ロナンは不思議そうな亜里沙を見て優しく微笑んだ。
「もしアリサさんが第二王子殿下を選んでしまったらどうしようかと、不安でした」
亜里沙は息を呑んだ。
この言葉の意味が分からない。
表情を見る限り、今朝のことが知られてしまったわけではなさそうだ。
「それは、どういう意味?」
「滞在先の話ですよ」
「ああ……」
ほっとして肩の力を抜く。
「でも、エドワード様からはしばらくここで過ごすことになるだろうって言われてるよ」
するとロナンは何やら考え込んだ。
浮かない表情が亜里沙の不安を煽る。
「王城に行くことになっても、会えなくなるわけじゃないよ」
「それはそうなんですが」
ロナンは呟くように言って、椅子から立ち上がった。
目の前に来て、無言で亜里沙を見つめる。
「なに?」
「この先何があっても、私を選ぶと約束してください」
不穏な物言いで、亜里沙はわずかに後ろに下がった。
「……滞在先の話です」
小さく息を吐かれてむっとする。
「だってそんな言い方するから……でもどうして? 一緒に朝食を食べられなくなるのが寂しいとか、そういうわけでもないんでしょ?」
すると、ロナンはいっとき亜里沙に見入った。
虚をつかれたような顔に、亜里沙も目を丸くする。
「え? もしかして、そうなの?」
「あ……」
ロナンは亜里沙から目を逸らした。
その様子はどこか戸惑っているようにも見える。
「いえ、まさか……そういう話ではなく、一度守ると誓ったので、今度こそは最後までそうしたいと思っているだけです」
今度こそ、という言葉に亜里沙の胸が締め付ける。
「キョウコの時は……その誓いは一生のものだった。ご存知の通り、彼女はそれを果たさせてはくれなかったので」
そう呟いた言葉は苦しそうだった。
それは、キョウコがもう戻ってこないから、そう言うのか。
キョウコがもう生きていないことに、薄々気がついているからだろうか。
聞いてみることなど、とてもできそうにない。
「……分かった。いいよ」
気づけばそう口にしていた。
亜里沙を見るロナンの眼差しに、再び胸が痛くなる。
「翔くんのことは私じゃ決められないけど、私は、帰るまではロナンのお世話になることにする」
そして、よろしくお願いします、とお辞儀をした。
頭を上げると、安心したような、しかしどこか寂しげなロナンの顔があった。
「今後のこととか話さないとだよね。翔くんにも聞いてみるから」
「ええ……そう、ですね」
歯切れ悪く答えるロナンに、やはり疲労が見えた亜里沙は退室しようとした。
「じゃあ、先にダイニングルームに行ってるね」
亜里沙が踵を返すと、軽く腕を引かれる。
振り返ると、思い詰めたような表情でロナンが亜里沙を見つめていた。
「アリサ……もし、俺が」
ロナンが言いかけた時。
まるでそれを邪魔するようにライアンが執務室に入って来た。
「ここで何をしてる……?」
ロナンが亜里沙の腕を解放する。
誤解されたと思った亜里沙は言い訳をしようとしたが、ライアンは亜里沙を見ていなかった。
険しい形相の弟に、ロナンが冷たく応じる。
「帰ってきて早々、言うことがそれか? ここは俺の屋敷なんだが」
「兄さんは、今夜は倉庫に行く予定だったでしょ……」
ライアンは慌てたように、そう弱々しく返す。
「あれだけ何度も予定の確認をしたじゃないですか」
「そうだな」
ロナンはずっとライアンを観察するように見ているが、ライアンはロナンに視線を合わせない。
「お前があまりにしつこくその確認とやらを入れてくるから、何かあるのかと思って引き返してきたんだよ」
ライアンの顔が強張った。
対してロナンは冷静だ。
先ほどから弟に冷たく接しているように見えるが、その表情には、わずかにライアンを心配するような色が見える。
だが、今のロナンの物言いは、ライアンを疑っているようなものだ。
それが何なのか事情が分からずとも、このまま穏便に済みそうにないことは分かる。
亜里沙は意を決して声を上げた。
「あの、渡したいものがあるの。ライアンに」
ロナンとライアンが振り向く。
そしてライアンは今初めて亜里沙の存在に気づいたように目を見開いた。
「アリサ様、いらっしゃったんですね」
狼狽えたような様子に亜里沙も驚いた。
「え、見えてなかった?」
「ああ、いえ、アリサ様だとは思わず」
それは気が動転し過ぎではなかろうか。
「と、とにかく、持ってくるから待ってて。ケンカしないでね」
言ってイザベラを振り向く。
「部屋に行ってくるから、ここでふたりを見てて」
「かしこまりました」
屋敷内だからか、イザベラはすんなり了承してくれた。
「アリサさん」
呆れたようなロナンの呼びかけを無視して亜里沙は部屋へと走った。
ダイニングルームに向かうところだった翔を驚かせつつ、亜里沙は息を切らせながら戻ってきた。
ロナンは再び机に戻って仕事をしており、ライアンは緊張した様子でソファに座っている。
ロナンの視界を邪魔するような位置に、イザベラが立っていた。
亜里沙はライアンに歩み寄ると、剥き出しのまま手に持ったそれをライアンに差し出した。
何かしらに包もうと思っていたが、そんな余裕もなかった。
「……何です?」
訝しげに受け取ったライアンは、それを見ると目を丸くした。
「これは、栞?」
今日購入した、革製のかっこいい栞だ。
「うん。使ってるの、ボロボロだったでしょ」
緊張が解けたライアンの顔が、栞を見て緩むのが分かった。
「ありがとう、ございます……まさか、こんなに貴重な贈り物を頂けるとは」
ライアンは亜里沙を見上げ、ばつが悪そうに目を逸らす。
しばらく迷うような気配があったが、ライアンは立ち上がった。
再びぎこちなく亜里沙に礼を言って会釈し、執務室を横切る。
「まだ用事が終わっていないので失礼します。兄さんは、今後予定を変えるときは私に一言ください」
そしてライアンは退室した。
亜里沙がほっとすると、ロナンが再び亜里沙のもとへやって来た。
「……私にはないんですか?」
「え? でもロナンは要らないって」
「確かに自分のために使えと言いましたけど」
亜里沙はロナンへの日頃のお礼に、クッキーを焼くつもりでいる。
買うことも考えたが、自分のために使えと言われたし、裕福な商人であるロナンに何を買うべきか分からなかった。
金儲けが好きそうだとは思うが、かと言って物に執着している様子もない。
他と比べて高い生活水準も、立場上仕方なく、といった風だ。
そうして亜里沙が思い至ったのが、お菓子だった。
よく面倒そうな顔で書類を見ているので、糖分が必要だろうと、単純な理由なのだが。
サフィナの店で買ったトッピングは、安くしてもらってもなかなか高価だったとソフィーから教えてもらった。
その分質が良い、とも。
だが亜里沙は料理が得意ではない。大失敗をする可能性もあるので、まだそれを言う勇気がない。
「ご、ごめん……今度何か買ってくる……」
するとロナンは苦笑した。
「いいんですよ。祭りを楽しんでもらえているようなので、それで」
「うん……あ、そうだ、夜に厨房を貸してもらってもいい? 夜食にお菓子を食べたいから」
「ご自分で作るんですか? 料理長に言えばいいのに」
「好きなお菓子の作り方があって、自分でやらないと再現できないの」
むしろクッキーの作り方をソフィーに聞く気でいるのだが。
納得したのかは分からないが、ロナンは「なるほど」と言って頷いた。
「厨房付きの者たちが許可すれば、私に聞かなくてもいつでも利用していいですよ」
「ありがとう」
亜里沙が笑みを見せると、ロナンも優しく微笑んでくれる。
「それから、陛下から手紙が届きました。アリサさんを呼んでいるので、明後日の午前に謁見しないといけません」
祭りが終わったら、と言われていたが、早速呼んでくれるようだ。
亜里沙はロナンに頷いてみせた。
結局夕食の席にライアンは現れなかった。
一度ロナンに聞いてみたが「心配いらない」と言われて引き下がる。
翔もどこか難しい顔をしていて、この夕食はいつもより静かだった。
贈り物を渡すため、夕食後にキーランを呼び止め部屋に来てもらう。
ライアンにも裸のまま渡したので、亜里沙は他の皆にもそうすることにした。
亜里沙の部屋に入ったキーランは落ち着かない様子だったが、目の前に差し出された物に意識が取られた。
「これを、僕に?」
まじまじと眺めて亜里沙を窺う。
紙と羊皮紙を重ねて、その上に羽根ペン、インク壺を乗せてキーランに見せる。
「うん、手紙を書いて欲しくて」
「誰に?」
亜里沙は少し迷ったが、やはり伝えることにした。
「私に」
キーランはわずかに首を傾げた。頭に疑問符が見えるようだ。
「近くにいるのに手紙?」
「私が帰った後に、私に会いたくなったらそうして欲しい」
キーランの表情から温度が消えた。
亜里沙を見る目に冷たいものが宿る。
「書いたところできみには届かないのに?」
亜里沙は怯みそうになったが、受け取られない贈り物を更にキーランの方に差し出した。
この羽根ペンを見た時、何故かキーランに似合うと思ったのだ。
「会えない人に宛てて書くんだよ。相手は私じゃなくてもいい。もちろん、普通に手紙のやり取りに使ってもいいから」
もしかしたら無難にそう言えば良かったのか。
だが亜里沙には、もうどうやっても会えない相手に手紙を書くことで、自分の気持ちを落ち着けてきた経験がある。
その相手は主に茉利咲だったが、キーランにも同じことが言えると思ったのだ。
「……アリサの言うことは時々分からない。前から変わってるとは思ってたけど」
独り言のように吐き出された言葉に亜里沙はショックを受けた。
「そ、そんなに変だったかな、私……」
まさか出会った当初から知らずにおかしな言動をしていたのか。確かにあの頃は何もかもが慣れなくて混乱が大きく、そんな風だったかもしれない。
キーランは不満げに亜里沙を見たが、しかしすぐにその表情を和らげ、ほんの少し悲しい顔になった。
「でも……アリサがそう言うなら」
キーランは贈り物を受け取ると、亜里沙を見つめた。
その眼差しに複雑な感情が見え隠れする。
キーランはやがて小さく「ありがとう」と口にした。
キーランが去った後、亜里沙はソフィーにお揃いで買った羽根ペンの一本を、イザベラに詩集を渡した。亜里沙なりに好みを考えて買ったものだ。
ソフィーもイザベラも思う以上に喜んでくれた。
そしてイザベラと共に翔の部屋を訪ねて、揃いのもう一本の羽根ペンを渡す。
「俺に?」
翔は羽根ペンを受け取ると眉を下げた。
「ごめん、俺何も用意してない」
「気にしないで。ただ贈りたかっただけだから」
ソフィーとお揃いにしてあげたいという企みもある。亜里沙が買い物をする間、翔は他のものを見ていたのでこれが二本買われたことを知らない。
教えるべきか迷う前に翔が言った。
「これ、ソフィーとお揃い?」
「えっ、知ってたの?」
「やっぱりか……亜里沙ちゃんならそうしそうだなって」
苦笑されてばつが悪くなる。
「ありがとう。この羽根ペン、向こうに持って帰るよ」
微笑む翔を見て、亜里沙は少し落ち込んだ。
見てきた限り、翔とソフィーの間にも強い絆があるのは確かだ。
別れを考えると、亜里沙にはとてもこんな風には振る舞えない。
どうして翔にはできて、自分にはできないのか。
エドワードが一度突き放そうとしたのも、立場や婚約以外にもこういう理由があったのだろう。
考えないようにしていたが、やはりそれに目を向けると予想以上に苦しかった。
「ニーズを起こしてくれる?」
翔に声をかけられてハッとする。
亜里沙は頷いてニーズに強く呼びかけた。
しばらくしてニーズが覚醒するのを感じる。
『……どうした?』
以前にも増して寝起きが悪そうな口調だ。
「きつそうだね……でもごめん、今からしばらく、亜里沙ちゃんが寝た後もニーズには起きていて欲しいんだ。ちょっと確かめたいことがあって」
『何のために……まあ、いい。分かった』
ニーズの声が段々はっきりしてくる。
『それはそうと、我が寝てばかりいるからカケルに接触していないのではないか? 起こしてでもやるべきことだぞ』
「あっ、そうだよね。翔くん」
亜里沙が両手を広げて迫ると、翔は苦笑して受け入れる。
「亜里沙ちゃんはこれにすっかり慣れたみたいだね」
ニーズの力が流れ込む。終わって離れると翔は頭を押さえた。
「大丈夫?」
「うん……少し目眩がしただけ」
翔は軽く頭を振って、亜里沙を安心させるように笑みを見せた。
亜里沙はまだ少しの不安を残しながら、王から呼び出されたことを思い出し、翔に相談した。
アマリアのもう一冊の本の件と合わせて伝える。
「それは、いざという時に取っておいて」
「褒美のこと?」
「うん。もし無理難題をふっかけられたり、承服できないことを飲み込むよう言われた時に少しでも逃げやすいように。特権があるとは言え、相手は王様だからね」
「わ、分かった……アマリア様の本はどうする?」
「気になるよな。多分、俺が普段入れない区画にあると思う。エドワード様に相談してみるよ」
「うん、分かった」
夜、ソフィーから教わりながらクッキー作りに奮闘し、何とかそれなりのものが出来上がった。
砂糖は高いので失敗するたび心臓が縮み上がったが。
(また仕事を手伝えば返せるかな……)
思ったより自分の腕が悪かったことに落胆しつつ、亜里沙はベッドに入った。
夜中、不思議な夢を見た。
亜里沙のそばに誰かが座って、語りかけてくる夢だ。
何かを質問されたが内容も分からないし眠くて答えられない。
代わりにニーズが答えているのを感じて、亜里沙は安心して意識を手放した。
翌朝、翔が王都へ出かけたと聞いた時、亜里沙は何故か胸騒ぎを覚えた。




