激情
帰ると言わなければいけないのに、その言葉が出てこない。
アストリドにお礼を言って、エドワードに謝って、何でもない、と言わなければ。
「あ、お……おはようございます……」
そうじゃない、と冷静な自分が嘆く。
「……おはよう」
答えたエドワードの声は優しいが、困惑が含まれているようだ。
「何故連れて来たんですか」
エドワードが声を落としてアストリドに問いただす。
「友だちに送ってもらったらいけないのか?」
口を尖らせるアストリドに、エドワードが呆れたような表情で眉を顰める。
するとアストリドは更にむっとした。
「そんなに話したくないのなら、アリサを見送るからエドワード様はもう帰っていただいても結構だぞ」
エドワードが何か言いかけるのを制してアストリドが畳みかける。
「アリサは今日は出かける予定があるのだ。キーラン様と。さあアリサ行こう。待たせるわけにはいかないからな、キーラン様を」
キーラン様、とわざとらしく強調された言葉に亜里沙は肝を冷やした。
そんなことを強調したりしたら、エドワードから呆れられるかもしれない。
だが亜里沙の予想に反してエドワードは「分かった」と語気を強めた。
「全員少し下がっていてくれ」
するとアストリドは、うん、と頷いた。
「あまり時間はないが、きちんと話すといい」
アストリドがそう言って、顔面蒼白な侍女を伴って通路の向こうに消えた。
ソフィーとイザベラがそれに続き、亜里沙は反射的に後を追った。
エドワードの手が亜里沙の進路を塞ぐ。
「ふたりで話すために下がってもらったんだ。お前まで行ってどうする」
ハッとしてエドワードを見ると、エドワードはやっと表情を和らげてくれた。
エドワードに促されて少し奥、亜里沙が先ほどまで座っていた辺りに移動する。
アストリドたちは見えなくなったが、声を大きくすると聞こえる距離にいるのは分かる。
立ち止まって振り返ると、エドワードは適切な距離を置いて足を止めた。先ほどより近いので表情は見えるが、薄暗いのがやはり残念だ。
だが少しの間見つめ合い、赤面してしまった亜里沙は薄暗さに感謝した。
「祭りは楽しめているか?」
「あっ、は、はい。お陰様で、すごく楽しいです」
「そうか、良かった」
会話が途切れる。
何か言わなければ、と亜里沙が慌てると、エドワードが話を切り出してくれた。
「今日はどうしてここに? 僕に何か話があるのか?」
「あ……それが、実は……」
亜里沙はもう、何でもなかったなどと言えなくなっていた。
ここまでしてくれたアストリドの顔に泥を塗ることはできない。
何よりこうして時間と機会を作ってくれたエドワードに、そんな失礼な真似はできない。
だが、先ほどのメイドたちの話が頭をずっと巡っている。
「あの……エドワード様の誕生日が二ヶ月後だと聞いて、それで……」
顔を見られず目を伏せる。
「多分その頃には私は帰っているので……祭りで、素敵なものを見つけたから、今贈りたいと思って……」
震える手で懐から巾着を取り出す。
両手に持って、顔も見ずに差し出した。
少しの沈黙の後、エドワードがその巾着を受け取る。
「……この贈り物の意味は?」
低い声に、亜里沙は顔を上げた。
巾着に目を落とすエドワードの表情からは、何も読み取れない。
「あ……えっと……」
エドワードが目を上げて亜里沙を見つめる。射抜くような視線から怒りが伝わってくる。
その怒りを感じて、怯えではなく、悲痛によって亜里沙の体が震え始める。
「た……ただの……贈り物です。たくさん、助けてもらったから……」
惨めな羞恥心で顔に熱が集まり、胸の痛みで表情が歪んだ。
エドワードはハッとしたように目を逸らし、再び巾着を見つめた。
「中を……見てもいいか?」
ほんの少し迷うような声。
亜里沙は何とか「はい」と言葉を絞り出した。
金属のチェーンが奏でる小さな音が聞こえる。
左手にある巾着の上にそれを乗せて、エドワードがペンダントトップを見つめる。
すぐにエドワードの表情が崩れた。
それは、苦悩するような、堪えていたものが決壊したような、そんな表情だった。
その表情の意味が分からず、亜里沙は泣き出しそうだ。
「僕の名前の頭文字……これは、アリサが彫ったのか?」
「……はい」
「その隣の文字は? アリサの世界の文字のようだが」
「そ、それは」
エドワードが亜里沙に目を移す。
「何の文字だ?」
「そ、れは……い、意味はなくて」
「アリサ、正直に答えてくれ」
何故そんなに詳細を聞いてくるのか、亜里沙にはまるで分からなかった。
怒っているようなのに、拒絶するわけでも突き返すわけでもない。
一度エドワードの目をじっと見つめる。
怖くはない。だが先ほどから心が引き裂かれているようだ。
嘘を言ってもきっと見抜かれる。
せめてこれ以上失望されないように、亜里沙は正直に答えた。
「それは……私の名前の、頭文字……です」
それを聞いたエドワードの表情を見れば、もう答えは分かっていたようだ。それならば何故亜里沙に言わせようとしたのか。
やがてエドワードが静かに言った。
「……応えられないと、そう言ったのに」
亜里沙は混乱した。
その言葉は間違いなく亜里沙を責めている。
だが、それなら何故そんなに切なそうに言うのだろう。
「あの、困らせたかったわけじゃないんです。それ、持って帰ります。もう、こんなことはしません」
だからどうか、せめて嫌いにならないで欲しい。
そう言いたかった言葉は出てこなかった。
亜里沙が手を伸ばすと、エドワードはペンダントトップを握りしめた。
「……駄目だ。返さない」
「え……」
握りしめたそれを、まるで抱きしめるように胸の前に持っていく。
そして、亜里沙の目を見つめたエドワードの瞳の奥に、激しい感情が見えた気がした。
「もう、僕のものだ」
まるで亜里沙本人を指して言っているような強い眼差しに、亜里沙は驚いた。
ふらつくと、エドワードが右手で亜里沙の背中を支えた。そのまま抱き寄せられるかと錯覚した。亜里沙とエドワードの間にはわずかな距離しかない。
背中に回った腕以外は触れていない。それでも混乱と緊張で頭が真っ白になって、顔どころか全身が熱を持ったようだった。
亜里沙の耳元で低く囁くようにエドワードが言った。
「もう遠慮はしないから、そのつもりでいてくれ」
どういう意味か聞こうとして、顔を見ようと思った。だが、顔を見るために体を離そうとすると、ぐいと押し戻される。
咄嗟にエドワードの胸の辺りに両手を置いてしまった。
亜里沙は息を呑んだが、エドワードはそれを咎めたりしなかった。
「大事にする。ありがとう……アリサ」
名を呼んだ声が一際優しく、どんな顔でそれを言ってくれたのか亜里沙は確かめたかった。
しかしこの体勢では難しく、亜里沙の目に映るのはエドワードの肩だ。
途端に緊張が増して鼓動が激しくなる。
エドワードがそっと亜里沙を離した。
残念なようなほっとしたような気持ちでエドワードを見る。
するとエドワードは今日会って初めて、優しい笑みを見せてくれた。
テーブルに寄りかかるように腰かけたエドワードが、自分の隣を軽く叩く。
亜里沙は躊躇いながら、エドワードの隣に同じように腰かけた。
「幸多かれ、か。いい言葉だな」
亜里沙にも見えるように右手にペンダントトップを乗せて、エドワードが言った。
「読めるんですか?」
肩と肩が触れ合っていることに浮かれそうになる気持ちを抑える。
亜里沙がエドワードを見ると、エドワードも亜里沙に視線を移した。
「ああ、読めるよ。それに、僕の名前を手ずから彫ってくれたのも嬉しい。大変だっただろう」
どうしてか、優しい眼差しを向けられると、もっとかっこよく彫りたかったという欲が出てくる。
亜里沙はそれを彫る間に込めた気持ちを思い出して、首を横に振った。
エドワードの目がほんの少し細められて、じっと見つめられる。
見つめ返すと、エドワードは再びペンダントトップに目を落とした。
「あちらの世界の文字……これが、アリサの名前なんだな」
「はい。漢字っていいます。“ありさ”、の、“あ”の字で」
エドワードが興味深そうにそれを見つめる横顔を見ていると、亜里沙は段々、その文字を選んだことに後悔を感じ始めた。
名前の頭文字だから彫った。
もし、それが周囲にばれてしまったら。
ばれないように漢字にした。だがエドワードは、名前だとすぐに気づいたようだった。
「どうした?」
気づくとエドワードが心配そうに亜里沙を見ていた。
「……名前じゃなくて他の文字にすればよかったのに……ごめんなさい」
「何故そんなことを言う? 僕はこれが好きだ」
亜里沙の心臓が思い切り跳ねた。いちいち自分に言われたように反応してしまう。
「でも、もし誰かに見られたら」
「心配するな。何も悪いことは起きない」
エドワードが言うと、不思議と不安や心配は全てなくなって、亜里沙は頷いた。
沈黙が訪れ、触れている腕に妙に意識がいってしまって亜里沙の身が固くなった時。
再びペンダントトップを眺めていたエドワードが不意に言った。
「美しい文字だ」
「……え?」
「アリサの名前」
エドワードの微笑みが向けられる。
亜里沙は目を見開いてエドワードを見つめ返した。
保育園の頃、名前の頭文字に悪い意味がある、とからかわれたことを思い出す。
その子は茉利咲が追い払ってくれたが、ひどく落ち込んだ亜里沙は、母親に由来を聞くまで立ち直れなかった。
「でも……それ、あんまりいい意味の文字じゃなくて」
考えてみると、特別な意味のあるアクセサリーに刻むべきものではなかった気がしてくる。
すると、エドワードが「アリサ」と真剣な声色で名を呼んだ。
「これはアリサの名前じゃないか。それだけで十分に良い意味がある」
亜里沙は目を瞬いた。
「僕は、この文字は美しいと思う」
エドワードはもう一度そう言って、それに目を落とし、亜里沙の頭文字の部分を指で優しく撫でた。
母親に由来を聞いた時、それはとても壮大で、大きな願いが込められたものだった。
だが後ほど本当か問い詰めると、由来は本当だが、その文字が可愛かったからだと白状した。
可愛い我が子に可愛い文字をつけたかったと言われて嬉しかったが、今の気持ちはあの時と比べものにならない。
「エドワード様」
「ん?」
エドワードの優しい眼差しに見つめられて、亜里沙の心臓が壊れそうなほどに激しく打ちつける。
「ありがとうございます……嬉しい」
そのまましばらく見つめ合った。
ふと、エドワードの目元が赤く染まっているような気がした。これが気のせいでなければいいのに。
エドワードがそれを巾着に丁寧にしまうのをじっと見守る。
「アリサの誕生日はいつなんだ?」
「私?」
亜里沙の誕生日は五月にある。
あちらの世界では誕生日は過ぎた。こちらではずれていて、まだ先だ。
確か以前に、世界を繋ぐニーズに時間の概念があるから、二つの世界は同じ時間を共有しているようなものだ、と話していた。
もともとどこに繋がってもおかしくないから、多少のずれが出ているのだろうか。
(時差……みたいなもの? それにこの場合私は今17歳になる?)
「えっと、私の世界ではもう誕生日は過ぎました」
「そうか……こちらでは?」
「まだです」
答えると、エドワードはほっとしたようだ。
「二つの世界では季節も暦もずれているし、そもそも少し異なると記録で読んだことがある。だから本来の誕生日にはならないだろうが、僕もアリサの誕生を祝いたい」
亜里沙は思いがけない言葉に、嬉しさで目が潤んだ。
これだけで、どちらの世界の時間で考えるべきかという問題など、どうでもよくなった。
亜里沙は泣きそうになって掠れる声で、誕生日を告げる。
「あと二週間か。何か望みはないか?」
ふと、王に望みを聞かれて、エドワードは駄目だと言われたことがよみがえる。
あなたの婚約者になりたい、などと、浮かんできた馬鹿げた考えを押しのけて、亜里沙は思いついたことを口にした。
「明日は祭りの最終日だから、少しだけ一緒に見て回りたいです」
これくらいならば、迷惑にはならないだろうか、と恐る恐る窺う。
するとエドワードはほんの少し困った顔をした。
「明日は……」
「いえ、忘れてください」
亜里沙は慌ててそう言った。だがエドワードは、少し考えるようにした後、いや、と首を横に振る。
「少しなら可能だ。午後に広場まで出て来られるか?」
時間を聞いて、大きく頷く。
嬉しくて顔が綻ぶと、エドワードも優しく微笑んでくれた。
その時、誰かが図書館に入ってきた音がした。
「王女殿下、失礼します」
若い青年の声だ。
反射的に立ち上がった亜里沙の左手を、エドワードの右手が取った。
驚いて振り向くとエドワードが声を落とした。
「静かに」
言われて口を閉ざす。
アストリドが青年に応じる声がする。
「エドワード様なら先ほど出て行かれたぞ。私は見ての通り勉強中だ。お前も早く出て行ってくれ」
「あ……ですが、図書館は……」
「何だ? 私が勉強するのは王太子殿下をお支えしたいからだが。それを邪魔するというのか?」
アストリドが青年を脅している。
亜里沙は、この状況が密会と言えることに突然気がついた。途端に落ち着かなくなり、不安が膨らむ。
すると立ち上がったエドワードが、握った亜里沙の手を、指を絡ませるように握り直した。
再び驚いてエドワードを見つめる。
「もう少しだけ、僕といてくれ」
「あ……ど、どうして」
嬉しすぎて二つ返事をしそうになって、何とか思いとどまった。これがもしあの青年にばれたらエドワードに迷惑がかかる。
だが何故エドワードはこんな風に引き止めるのだろう。
大事にするとまで言い添えて、贈り物を受け取ってくれた。
亜里沙の名前を美しいと言ってくれた。誕生を祝いたいと言ってくれた。
亜里沙に対して好意的なのは分かる。
こうして引き止めるのだから、別れを惜しむくらいには親しみを感じてくれているだろう。
だが、亜里沙はそれ以上の感情をエドワードに期待した。
引き止める理由が、亜里沙と同じ気持ちだからであって欲しいと。
あまりに見つめ過ぎたのか、エドワードは困ったように微笑んだ。
「……そんな顔をするな」
どんな顔をしているのだろう。ただ、自分の顔が異様に熱いことだけは分かる。
エドワードが握った亜里沙の左手を持ち上げ、そして手の甲に唇を寄せた。
それは薬指の付け根の辺り。
亜里沙を見つめるエドワードの瞳が、先ほど見たあの感情を宿している。
握った手を引かれて引き寄せられる。
エドワードの左手が亜里沙の髪を撫でるように差し込まれ、後頭部に手を添えられた。
エドワードの顔が間近に迫って亜里沙は自然と目を閉じた。
亜里沙の唇に、エドワードの唇が優しく触れた。
その柔らかい感触に触れた時、泣きたいほど嬉しかった。嬉しくて胸が締めつけられ、心臓が悲鳴を上げる。
それは目眩を感じるほどで、再び亜里沙はふらついた。
エドワードの手が回って亜里沙を支える。
亜里沙が両手でしがみつくと、回された腕が更に亜里沙を引き寄せて、強く抱きしめられた。
いつの間にか青年が出て行ったことに、亜里沙はしばらく気がつかなかった。
惜しむように唇が離れて、エドワードの顔が紅潮しているのが見えた。
嬉しくてどうにかなりそうな亜里沙の顔は、きっとひどく赤いに違いない。
もう一度抱きしめられて、亜里沙は震える両手をエドワードの背中に回した。
幸福感で目の前がくらくらして、そっと目を閉じた。
どうやって帰ってきたのかはっきり思い出せないくらいに亜里沙はぼんやりしていた。
エドワードから優しく見つめられ、明日の約束を確認されて頷いた。
その後エドワードとアストリドに挨拶はしたと思うが、定かではない。
とにかく心臓がやかましく、顔はずっと熱かった。
ソフィーが必死で亜里沙の顔を冷まそうと色々試していた。
お陰で、身の毛もよだつような怖い話を聞いた頃にやっと、熱が落ち着いてきた。
明日の約束をソフィーに話す。
ソフィーはどこか複雑な心境を抱えていそうだったが、嬉しそうな亜里沙を見ると微笑んで、分かりました、と頷いた。




