人目を忍んで
その後アストリドはとても機嫌が良かった。
侍女の顔面はしばらく蒼白だったが。
だが、ロナンが何とかすると言ったなら、恐らくアストリドは叱られないし、この侍女も咎められることはないだろう。そう思いたい。
サイラスのテントに戻る。
もうパペット小屋の前には誰もいなかった。その近くで汗を拭きながら休憩する男がもしかしたらパペット使いだろうか。
奥へ行くと、サイラスがにこやかに出迎えてくれた。
「ちょうど出来上がったよ」
見せてもらった彫刻は、想像の何倍も見事だった。
元々このように彫られていたと言わんばかりに馴染んで、とてもこの短時間で彫ったと思えない。
「どうやったの?」
亜里沙が驚いて尋ねると、サイラスはにっと笑って口の前に人差し指を立てた。
「これは職人の秘密だから言えないよ」
ごめんよ、と言われると、それ以上は追及できない。
「アリサ、気合を入れるぞ。ここからは私たち次第だ」
アストリドも自分で名前の頭文字を彫るらしい。
お互い顔を見合わせて大きく頷き合った。
それからは祭りの予定どころではなくなった。
ラティファは時々出入りしたが、亜里沙とアストリドはテントから動かなかった。
錐に似た形状の金属の道具を持ち、サイラスに言われた通りに力を込めて先端を刺していく。
もっと苦労すると思ったが、道具が良いのかトップが柔らかいのか、作業は順調だ。
亜里沙とアストリドが彫る文字は点描なので穴で表すものになる。
サイラスたちのようにできれば最高だったが、仕方ない。亜里沙は不格好でも、この部分だけは全部自分でやりたかった。
疲れと空腹を意識し始めた頃、ちょうどサイラスから声がかかった。
「そろそろ夕刻だが、お腹はすいてないかい?」
「えっ」
アストリドと声を揃えて同時に顔を上げる。
サイラスがおかしそうに笑うと、隣でラティファがため息を吐いた。
「あれ、ラティファ、いつ戻ったの?」
「少し前よ。ずーっとそれに夢中なんだもの。声かけても気づかないし」
アストリドと顔を見合わせると、つい笑いが込み上げた。
「その道具は貸してあげるよ。ただし怪我しないように、そしてちゃんと返しに来ること」
亜里沙とアストリドは支払いを済ませ、サイラスに何度もお礼を言ってテントを後にした。
茜色に包まれた広場では、まだ人々が行き交っていた。普段ならそろそろ皆が家に帰り始める頃だ。
だがランタンや蝋燭などの灯りが、広場を幻想的な光で包み、今はまた劇が終わった後のステージで楽団が演奏を始めようとしている。
気が早く、もう踊り始めた者も何人かいるようだ。
広場の隅には厳しい表情をしたナイグラードの兵たちが増えていて、路地を巡回する兵たちもいる。
祭りの三日間は、この街はいつもより少し遅くまで起きているのだ。
広場近くまで迎えに来ていた馬車に乗る。
アストリドとソフィーと侍女、この小柄な三人が並んで座り、亜里沙はラティファと座った。
ラティファを宿で降ろし、屋敷へと帰る。
出迎えたロナンはアストリドに挨拶をすると、明日の朝帰るよう念押ししていた。
「ありがとう伯爵。今日は亜里沙と寝るから部屋は必要ないぞ」
「……そう仰るだろうとは思いましたが」
この様子だとちゃんと部屋を用意したのだろう。
だが結局アストリドは亜里沙と一緒に寝ることになった。
夕食時にはライアンも帰ってきて、アストリドの存在に驚愕した。
アストリドと共にする食事は楽しく、つい話が弾んだ。
キーランと翔もアストリドと積極的に言葉を交わしたが、ロナンとライアンはとても静かだった。
「ああ、そうだ。明日は早朝に帰るが、その時亜里沙を伴っていくからそのつもりでいてくれ」
食事が終わる頃、このアストリドの言葉に、誰よりも先に反応したのはキーランだ。
「駄目だよ。明日はアリサは僕たちと約束があるんだ」
「馬車を急がせれば午前中のうちには帰れるはずだ。それからでもいいのではないか?」
キーランが眉を寄せて亜里沙を見る。
「あ、キーラン様、アリサに訴えるのはなしだぞ」
「俺はそれで構いません。行っておいで、亜里沙ちゃん」
埒が明かないと思ったのか、翔が助け舟を出した。
キーランは不服そうにしつつ、結局最後は、分かった、と同意した。
亜里沙の部屋へ行き、寝る支度を整えて、ペンダントトップを取り出す。
ティーテーブルを作業場にして、アストリドと向かい合った。
「これを明日までに仕上げるのだぞ」
「やっぱり……明日これを、エドワード様に渡せって言うんですね」
「当然だ。誕生日の贈り物なら気を遣わなくていいというのに、こうでもしないと渡さなかっただろう?」
図星だ。まさか見抜かれていたとは。
「エドワード様を訪ねることで迷惑がかかると思っているなら心配ない。私が無理を言って城に連れてきたという話であれば、誰も勘繰ったりはしないはずだ。あとは私が、ふたりで話す場を設けてやるから」
「だから、ここに泊まることにしたんですね」
アストリドが大きく頷く。
覚悟もできていないし困惑も大きいが、その気持ちはとても嬉しかった。
アストリドにお礼を言って亜里沙は作業に集中した。
「その文字は何だ?」
亜里沙が自分の名前の頭文字を彫り、形になってくると、アストリドが不思議そうに亜里沙の手元を眺めた。
「ああ、これは私の名前の頭文字です」
渡さないと思っていたから、自分の名前を隣に並べる気満々だった。
だからエドワードの頭文字の位置もそれを想定したもので、その真横にも区切る点を大きく打っていた。
今更どうにもできないので予定通りにすることにしたのである。
「不思議な形だな。アリサの世界の文字か?」
「はい。漢字って言うんです」
「カンジ……」
最後までアルファベットと迷った。
だが亜里沙の正式な名前は漢字だ。頭文字だけでもエドワードの隣に寄り添いたい。
そしてこれを渡すとなった今は、エドワードに頭文字だけでも持っていてもらいたい、という願望もあった。
この世界の文字にしなかった理由は、ばれたら迷惑がかかると恐れたからで、今となっては、もう一つある。
亜里沙が自分の名前の頭文字を入れたと知ったエドワードから、拒絶されることが怖かったのだ。
自分でも卑怯だとは思うが、それでもこうするしか思いつかなかった。
「私の名前はそのカンジだとどう書くのだ?」
「え」
アストリドに問いかけられた時、不意にニーズが起きる気配がした。
一瞬ニーズに気を取られたが、アストリドを無視するわけにもいかない。
「もしやこの名前はそちらの世界の文字では書けないか?」
「あ、いえ、そうじゃないけど……漢字で書く名前じゃないです。多分アルファベットっていう文字で書くと思うんですけど」
それはどう書く、と、興味津々の眼差しが辛い。
(困った……正確なスペルが分かんない。漢字を教える? 漢字だと当て字だよね……でもこんな高貴な人の名前を当て嵌められる漢字が思い浮かばない)
『こうじゃないのか』
そうして脳裏に浮かんだ文字は、「Astrid」だった。
(これだ、ありがとう! あれ、ニーズってアルファベットが分かるの?)
『……ああ、多少な』
(来訪者に教わった?)
『…………ああ。我のことはいいから、早く教えてやれ』
亜里沙は眉を顰めた。何でもないように振る舞っても、不自然さが隠せていない。
(ニーズは色々話せていないよね。本当の名前も。まだ話す勇気が出ない?)
『何から話せばいいのか、迷っているのだ……もう少し時間をくれ』
眠気が過ぎて辛そうな声に、亜里沙の気は簡単に削がれた。
「アリサ、どうした? 難しいことを言ってしまったか?」
ニーズにおやすみ、と内心で言って、慌てて筆記セットを取り出してくると、アストリドの名前を書いた。
もうニーズの気配はない。
目を輝かせて喜ぶアストリドを見て、エドワードの正確なスペルは翔に聞こうとぼんやり思った。
それからふたりで気合を入れて集中し、夜も更けてしまう前には出来上がった。
点描から完全な線にはならなかったが、何とかしようと足掻いた形はそれほど不格好ではなかった。
幸多かれと祈る流麗なメッセージの上に、エドワードと亜里沙の名前の頭文字。
それはまるで恋のおまじないに見える。
漢字が読めなくても、亜里沙の頭文字だと分かってしまうのでは。
そう考えると明日これを渡すための勇気が唐突に萎んでいく。
(応えられないって言われたのに、こんなことして)
心がきりきりと痛みだして、亜里沙は考えるのをやめてそれを一緒に購入したチェーンに通した。
ソフィーに用意してもらった上等な巾着に丁寧に入れる。
「アリサも終わったようだな」
アストリドは思いきり伸びをした。
見せてもらうと、大味だがアストリドらしい文字でパーシヴァルとアストリドの頭文字が並んでいる。
「きっと喜んでくれます」
その文字を見て、本心から自然と出てきた言葉だった。
アストリドはうん、と言ってはにかんだ。
まだ夜の暗さが勝つ、翌早朝。
せっかくアストリドと一緒に寝たと言うのに、ベッドに入った瞬間ふたりとも寝てしまい、何も話すことができなかった。
アマリアについても、日記を一緒に見てみようと思っていたのだが。
今日はいつも着ているタイプの、少し上等な服を着た。そして丈夫で長い革の紐を首から下げる。
ソフィーが首に下げられる巾着を用意してくれたのだ。ソルサニアのブローチを入れて服の中にしまう。
これで身につけていないときも、より安全に持ち歩ける。
もう持ち歩かないつもりだったので、ソフィーの気遣いでまた泣いてしまいそうだった。
大事に贈り物を懐にしまうと、ロナンに見送られながら亜里沙はアストリドと馬車に乗った。
ソフィーと侍女が同乗し、いつものように護衛に混じってイザベラは外だ。
「必ず帰ってきてくださいね」
馬車に乗る直前、亜里沙にのみ聞こえるように言われた言葉はどことなく重かった。
ロナンは浮かない顔で、その心配は大袈裟に思えたが、亜里沙は安心させるように頷いた。
早朝でまだ賑わいがない街並みを、馬車は速度を上げて走り抜けた。
王都に入るといよいよ緊張で心臓が飛び出しそうだ。
何故これを用意して、何故渡そうなどと思ったのか。亜里沙は自分自身が不思議でならなかった。
冷静な自分が何をしているんだと問いかけてくるし、頭が真っ白になりそうだ。
王都では祝祭も終わり、まだリースが飾られている建物が少し見えるが、飾り付けはほぼ撤去されている。
厳かな雰囲気に包まれて、人通りも少ないこの時間だと一層寂しく見えた。
主城門の中に入って馬車を降りる。
マントをチェックし、フードを深くかぶる。
反対にアストリドはマントを取った。
「アリサ、身構え過ぎだ。大丈夫だから楽にしていろ」
しかしこの頼もしい言葉は、城の中に入ってものの数分もしないうちに取り消された。
「パーシヴァル様……! 駄目だアリサ、こっちの道は大丈夫ではない、どこかに隠れて!」
ホールから続く通路の一つに入ろうとして、アストリドが慌てた。亜里沙からは見えないが、パーシヴァルが先の方にいるらしい。
アストリドは後ろに続く護衛に「絶対に何も話すな」と凄みをきかせている。
イザベラが亜里沙に耳打ちした。
「念のため少しの間厨房に隠れていましょう」
「とにかくやり過ごしたら図書館に来てくれ」
そうして亜里沙たちはアストリド一行と別れた。
特にイザベラが城を熟知しているので、厨房でやり過ごした後は比較的安全だった。
図書館へ続く道を、使用人たちが多く行き交う通路を選んで歩く。
使用人たちはイザベラが先頭にいるからか、後ろでフードをかぶるふたりをあまり気にしなかった。
「少しお待ちを」
イザベラが手を上げて静止する。
外廊に接する通路の角で身を屈める。
前方から貴族らしき格好の数人がやって来て、そのまま外廊の反対側に去って行くのが見えた。
立ち上がろうとした時、どこからか数人のメイドの声がした。
「えー、ほんとに?」
「しっ、声が大きい!」
「よくやるわよねえ、あの方も」
「身につける物はまずいわよ、第二王子殿下は受け取らなかったんでしょ?」
「それはそうでしょ。いくら幼い頃に仲良くなったからって、婚約者でもないのに」
「まさか二ヶ月も先の殿下の誕生日にかこつけてそんなものを贈るなんて」
恐らく、ヤーラがエドワードに何かをプレゼントした、という内容の話だった。
「……帰る」
亜里沙の口から、無感情な声が飛び出した。
あの話は、そのまんま、今から自分がやろうとしていることの影響と結末を語ってくれている。
「あの者たち……」
イザベラが低い声で呟く。
ソフィーはもう通り過ぎて行ったメイドたちには構わず、慌てて亜里沙を説得した。
「お待ちください。帰るにしても、王女殿下にお伝えしないといけません。王女殿下が心配しますから、アリサ様から直接仰らないと」
この言葉は納得できるものだった。
亜里沙はもう心の中でこの贈り物は封印すると決めたが、アストリドにはここまでしてくれた感謝を伝えないといけない。
ほっとした様子のソフィーとイザベラに従って、図書館へと移動した。
この図書館に入るのは初めてだ。
流石にマクベルド邸のものとは規模が違う。
聳え立つような本棚に圧倒される。書籍も多いが巻物状の物もかなりの数保管されていた。
そしてこの図書館は、全体の薄暗さと、細長い窓から入る白い光のコントラストが少し恐ろしい雰囲気を醸し出している。
ふと、ここにアマリアが書いた本が蔵書されているのだと思い出す。
翔にはまだ確認していないが、やはり王が言っていた褒美はそれがいいだろうか。
ソフィーに案内されて本棚と本棚の間にあるテーブルにつく。
しばらく無言で待っていると、誰かが入って来た。
複数人の足音が静かに移動してくるが、近くに来た時、潜められていても間違いようのない声がした。
思わず椅子から立ち上がる。
「アストリド王女、そろそろ用件を言ってください。こんな風に連れ立つのも好ましくないし、あまり僕ひとりで動きたくないのですが」
「分かっている! 今が色々大変な時期だと……だが私と私の侍女がいるのだからひとりではないし、私とふたりきりで連れ立っているわけでもない」
「そういうことでは」
言いかけて、エドワードの言葉が途切れた。
通路に現れたアストリドと、続いてエドワードの姿。
まだ朝の早い時間だからだろうか、エドワードは私服と言っていいような簡単な貴族の服を着ている。
外套も部屋の外に出るから仕方なく羽織ったといった風で、はだけているわけでもないのに、白いシャツを見た亜里沙は緊張した。
「ああ、ここにいたな」
アストリドが笑顔で駆け寄ってくる。
エドワードは通路に立ち止まったまま、あ、と声を上げかけたが、そのまま黙ってしまった。
それでもその視線は亜里沙に向けられて、亜里沙は今、この薄暗さでエドワードの表情が見えにくいことを残念に思った。
同時に、自分の赤い顔が見えていませんようにと願った。




