盛粧麗服
「キョウコさんが帰った時のこと……?」
「うん。……どうかした?」
心配そうな翔に首を横に振って、亜里沙はニーズに呼びかけた。
強く念じると、ニーズが起きる気配があった。
『アリサ……何かあったのか?』
眠そうな声に、翔は申し訳なさそうな顔をした。
だがニーズが状況を把握する間も惜しむように、問いただす。
「ニーズ、キョウコさんが帰った時のことを、できるだけ詳しく教えてくれ」
『キョウコが帰った時……我が帰るための入り口を開いた時のことか? 何故それを知りたいのだ?』
「ニーズは今までの来訪者とは、あまり行動を共にしていないんだよな? 連れてきて、帰らせる以外では」
『ああ……全く共にしなかったわけではないが』
少しずつニーズの口調がはっきりしてくる。
『体があった時も、クルスの影響で我を気にしなくなるし、体がなくなってからはそもそも我を認識できる者がほとんどいなかったからな』
「来訪者の中のクルスが死んだら、ニーズはそれを感じ取れる」
『そうだ』
「じゃあ、来訪者はどうやって自分が帰る時を知るの? まさかクルスが死んだ瞬間にいきなり目の前で入り口を開いたりはしないんだろ?」
『来訪者も、クルスが死ぬとそれを感じ取る。自分を縛りつけていた感情や感覚が消え、そしてまだ言葉を操れても、力はほぼなくなっているのだから』
一度静かに呼吸を整えて、ニーズは続けた。
『そして我は……クルスが中に入って来訪者が再び目を覚ますと念のために教えていた。力が消えた時が帰る時だと。戦えた者もそうでない者も、皆、クルスが死ぬと、その時が来たと判断したのだ』
「そして、準備が整うまではそばで待つ?」
『ああ』
「それはどのくらいの期間?」
『ほとんどは一日もかからない。グスタフなど、数日かかった者が数人いたが』
「キョウコさんは?」
『キョウコは早かった』
「……分かった。じゃあ、彼女が帰った時のことを教えて」
『知りたかったのは今のことではないのか? キョウコに何か他の者と違うような点はなかったが』
「まさか……」
亜里沙は思わず口を挟んだ。
「ロナンのことを知りたいの?」
「……それもある。確認したいことがいくつかあって」
「それは、エドワード様に教えるため?」
その質問に眉を顰めると、翔は少し冷たい口調になった。
「亜里沙ちゃん、悪いけど俺とニーズが今から何を話しても、深く考えずにいてくれる? きみはどうしても、どちらのことも心配せずにはいられないだろ」
できれば耳を傾けないでいて欲しいけど、と翔。
どちらも、というのはエドワードとロナンのことだ。
理解した亜里沙は、確かに翔の言う通りなので、分かったと呟いた。
『……それで、具体的に何を話せばいい』
「何でも。些細なことでも教えてくれ。キョウコさんの様子とか、この世界から持ち帰ったものがないか。逆に来る時に持っていたのに持ち帰れなかったものはないか。それから、キョウコさんが帰る時、ロナンさんに何かおかしな様子はなかったか」
妙に何かが引っかかるような質問だった。
だが亜里沙はそれが何かも分からないし、言われた通りぼんやりすることに集中した。
だが集中すると、なかなかぼんやりはできないものだ。
『持ち帰ったものはないはずだし、あらかじめ準備を整えていたはずだ。我が見た限り、来る時に持っていたものを失くした様子などはなかった』
「俺たちの服もソフィーが管理してるしな……」
そう呟いた翔を見る。
亜里沙と目が合った翔はすぐに視線を逸らした。
「でも、この世界のものを持って帰ることはやっぱり可能みたいだね」
それを聞いた亜里沙の脳裏に、すぐにソルサニアのブローチが浮かんだ。
嬉しくなって声を上げそうになるが、邪魔をしないように我慢する。
『ああ。そしてキョウコの様子は……今までの者とそう大差ない……混乱、困惑、怯え。それから、離別への苦しみだ』
「うん……ロナンさんは? その時近くにいたの?」
『それが……よく、分からない。我はあの時あの男がそばにいたのは思い出したが、来訪者が帰る時はいつも、苦しむ様子を見るのに耐えられず、他に誰かがいると特に、目を背けてしまうのだ』
翔のため息が、ニーズを責めているようだ。
「忘れていた、そして見てもいない、か」
『すまない……だが一つ、気になったことはあった。それはその男に限ったことではないが、多くもないことだ』
「それは何?」
『恐らくあの男は自分も共にキョウコと入り口へ入ろうとしたのだ。キョウコの悲鳴と制止する声が聞こえて、見ると、ふたりは立ち尽くしていた。キョウコの顔は蒼白で、あの男は……そうだな、怯えていたように思う。あの男はすぐに、これまでにそうしようとした者たちと同様に、入れないことを悟ったようだった』
「よくそんなことを忘れていられたな……じゃあ、何があったのかは詳細には見ていないんだね?」
『ああ。キョウコの中のクルスの残滓がいつまで持つか分からなかったから、とにかく我は焦っていたのだ。幸いキョウコはそれからすぐに帰ったが……』
だが、きっと長くは生きられなかったと、ニーズが自分を責めているのが亜里沙には分かった。
翔は再びため息を吐いた。
「分かった。今のところは十分だよ、ありがとう」
静寂が訪れる。少し間を置いて、翔がぎこちなく口を開いた。
「えっと……終わったよ、話」
「う、うん」
翔が気を遣っているのが分かって、亜里沙は先ほどのことについてお礼をした。
「あの、ありがとう。翔くんのお陰で、あのブローチを持って帰れるって分かったよ」
深く考えていなかったので、それがはっきり分かったことはいいことだった。
翔はほんの少し眉を曇らせたが、うん、と微笑んでくれた。
ニーズが話していたことについては、きっとそのうち何かが判明したり考えが纏まれば話してくれるだろう。
気を取り直すように、亜里沙は明るく振る舞った。
「ねえ、明日は翔くんも一緒に来る?」
「いや、俺は遠慮するよ。事前に予定が組まれてるし、何よりせっかく友だちと出かけるんだから」
「そう? じゃあ、翔くんにもお土産買ってくるね! お給料貰ったから」
すると翔がふっと吹き出した。
「俺も貰ってるんだから、気にしなくていいよ」
その笑いは解せないが、確かに、亜里沙が貰っているなら当然翔もそうだろう。しかも亜里沙より確実に多いはずだ。
「二日目に俺と一緒に行く?」
翔に問われて、キーランとの約束を思い出す。
「キーランと約束してるけど、一緒に行けるか聞いてみるね」
「あ、じゃあ、俺が話しておくよ」
亜里沙は内心ほっとしながら翔に頷いた。
もしキーランに傷ついたような顔をされると辛い。
キーランを避けたいわけではないが、なるべくならそんな顔は見たくなかった。
そして、翌日。
ナイグラードの春祭りの初日。
朝の訪れと共に、亜里沙はすっかり忘れていたあの大胆な衣装の存在を思い出したのだった。
早朝に起きて体操をする。
ソフィーが入念に世話を焼いてくれたお陰で目は腫れていないし、調子もいい。
アストリドも早朝に来るという話だが、まだまだその時間は先だった。
串焼きだったりパイのような食べ物を出す露店もあるそうだ。
アストリドも露店のものを食べていいことになっていると聞いて、今朝も簡単な食事を口に入れる程度にしておいた。
「アリサ様、マントをお選びください」
ソフィーが亜里沙に見せたのは、上品な、白に近い薄紫色のマントだ。旅にも着られそうだが、中にドレスを着ていても違和感なさそうなデザインだ。
そしてソフィーは同じようなそのマントを、留め具がついたものと、ブローチで留めるものとで亜里沙に見せてきたのだ。
「あのソルサニアので留めたいけど……大丈夫かな?」
「ここはナイグラードですし、アリサ様と王女殿下の周囲にたくさん護衛が配置されますから、大丈夫ですよ」
何だか物々しい答えが返ってきた。だが、それなら安心できそうだ。
亜里沙の顔に自然と笑みが広がる。
ソフィーも微笑んで、留め具がついたマントはしまい込んだ。
そして、ソルサニアのブローチを取り出して見せてくれた。
ソフィーに預けていたソルサニアのブローチは、やはり特別に綺麗で、このマントにもよく似合っている。
「ではアリサ様、そろそろお召し替えしましょう」
「うん」
そしてソフィーが広げた衣装を見て、亜里沙は声を上げる。
「ええ!?」
すっかり忘れていた。これの存在を。
「どうされました?」
ソフィーの驚いた顔を見つめる。
「着るの? これ」
「ええ、そういう約束をされたと伺っております」
「でも……」
亜里沙はその、ラティファから贈られた──正確にはロナンが購入したのだが──星空のようなオルマのワンピースを見た。
いつ見ても美しいが、冷静に考えると胸元と背中が空きすぎだ。
何故あのときは許容範囲だなどと思ったのか。
「で、でも」
「アリサ様、私は見たいです、この衣装を着たアリサ様を。それにせっかくこちらを購入なさった旦那様にも、見せて差し上げるべきです」
「うう……」
呻いてみても駄目だった。
こうして亜里沙は、そのワンピースで身を包み、刺繍の糸と同じ色の髪飾りをつけ、ソフィーから化粧まで施されてしまった。
鏡を見ると、ソフィーがいかに化粧が上手いかが分かる。
この世界の化粧品は、偏見だが体に悪そうなイメージがあった。実際はそんなことはなく、亜里沙の世界のものよりシンプルだが十分綺麗になれる。
気乗りしなかったというのに、自分の姿を確認した亜里沙は気分が高揚した。
この衣装専用の外套は本当に飾り程度なのでマントの下に着てもおかしくない。
亜里沙はせっかくなのでこちらも着ることにした。
「マント、用意してくれて良かった……」
亜里沙では似合う似合わない関係なく、マントならばと、どれでも着るところだった。
「あの外套ではアリサ様が落ち着かれないかと思って」
最終チェックをしながらにこやかに言うソフィーに感謝する。流石ソフィーだ。
「アリサ様、本当に、本当にお綺麗です!」
「ええ、美しいですね」
ソフィーとイザベラが褒めてくれて、亜里沙は嬉しさと共に少しだけ自信が持てた。
屋敷の人々に見せて歩くには勇気が足りなかったので、マントを着てフードをかぶり、亜里沙は部屋を出た。
ソフィーに言われてロナンの執務室に向かう。
衣装を買ってくれたのだから、お礼をしなければならないのは当然だ。
だがここ連日の出来事で、ただ顔を合わせるにも複雑な心境が邪魔をしてくるようだ。
何より、この衣装を見せる気恥ずかしさで動悸がした。
入室の許可を得て入る。
机に片腕で頬杖をつき、眉を顰めて羊皮紙を読んでいたロナンが目を上げた。
「おはようございます。いいマントですね」
室内で厳重にマントを着込む亜里沙をまずからかってから、ロナンは立ち上がって亜里沙のそばに来た。
亜里沙はドアがちゃんと閉まったか確認すると、覚悟を決めた。
ソフィーによってマントが外され、同時に顔を伏せる。
マントがなくなって触れた空気が思ったよりひんやりしていて、決めたはずの覚悟は仕事をせず、気が挫けたのだ。
「あの、この衣装、買ってくれてありがとう……ございます」
不自然な丁寧語で語尾も萎む。
亜里沙が不安になるほどの間があった。
「アリサさん、顔を上げて」
ロナンの優しい声が無理難題をふっかけてくる。
深呼吸をして、亜里沙はまるで睨むような勢いで顔を上げた。
だがその勢いはロナンの優しい眼差しと目が合うと途端に衰えて、やはり恥ずかしさで顔を隠したくなった。
少しの間見つめ合うと、ロナンは目を細めて微笑んだ。
そのままロナンは何も言わず、ソフィーからマントを受け取り亜里沙にそれを羽織らせる。
ロナンがソルサニアのブローチを手にしたときは、また咎められないか一瞬心配になったが、ロナンはわずかな間無表情になっただけだった。
マントがブローチでしっかりと留められる。
そして亜里沙と目が合うとロナンは再び微笑んで、フードを引っ張って亜里沙の頭にかぶせてしまった。
目深にかぶせられたフードで一気に視界が悪くなった。
「……えっ?」
この一連の動作は何だろうか。
まさか見るに堪えないほどおかしいのだろうか。
「に、似合ってなかった……?」
「いいえ、とてもよくお似合いですよ。……化粧までして」
褒めているとは思えない口調だ。その物言いにどこか棘を感じる。
(この衣装、もしかしてめちゃくちゃ高かったりしたのかな……?)
「旦那様。アリサ様はお綺麗でしょう? おかしなことをしていないで、きちんと口になさってください」
ソフィーが厳しく言うと、ロナンが躊躇うような気配があった。
少しして、ロナンは軽く咳払いをした。
「…………綺麗だ、アリサ」
それはロナンらしくない、あまり余裕を感じられない言い方だった。続けて「心配になるくらい」と呟かれた言葉で、恥ずかしさがよみがえる。
「すみません……何よりも先に言うべきでした」
亜里沙が黙っているのを勘違いしたのか、ほんの少し焦った声がする。
フードをかぶっているのをいいことに、亜里沙はロナンの顔を見なかった。
「ううん、謝らないで。ありがとう」
ロナンとソフィーが日程について軽く確認を済ませ、それが終わると退室する。
部屋を出るときに振り返ると、再び机に向かって羊皮紙を手にしたロナンが亜里沙を見送る。
その顔には確かに心配の色が見える。
心配になるくらい綺麗、と言われた言葉がちらついて、何もないところでも赤面しそうだ。
ホールに戻る。そろそろアストリドが来る頃だろうか。
ここは屋敷で働く人々が行き交うが、もうロナンに見せたので少し度胸がついている。
亜里沙がマントを脱ぐと、ちょうどキーランと翔が降りてきた。
「あ、おはよう、ふたりとも」
「おはよう、亜里沙ちゃん」
翔が挨拶を返す間に、キーランが足早に亜里沙のもとに来る。
「アリサ」
赤く染まった顔で、慌てたように眉を下げたキーランが目の前で立ち止まる。
「綺麗だね。すごく似合ってる」
翔がごく自然に褒めてくれて、亜里沙は安心した。
キーランがハッとして亜里沙を見つめる。
言うタイミングを逃した様子のキーランのために、亜里沙は恥ずかしさを堪えて問いかけた。
「どう? 似合ってる?」
キーランの頬が更に紅潮する。
「うん。とても綺麗だ」
「ふたりとも、ありがとう」
「……でも、ロナンには見せないで」
こちらもこちらで無理難題を言ってくる。
「そんなの無理だし、もう挨拶してきたよ」
とうとうキーランは黙り込んでしまった。
少しすると、アストリドの一行が屋敷に到着した。
間近に迫ると心配も不安もどこかへ隠れてしまったようだ。
亜里沙は胸が弾むのを感じながら、アストリドを出迎えた。




