初めての報酬
エドワードが亜里沙の手を離すとき、その親指が亜里沙の薬指の付け根の辺りを撫でた。
ほんの一瞬だったが、あまりに優しい手つきで、くすぐったさを感じた。
まさか焼き菓子の破片でもついていたのだろうか。だとしたら、こんなときまで不恰好な自分に嫌気が差す。
エドワードは手を離した後は、一切亜里沙を見なかった。
「兄上が言いつけたことが終わるまで帰れないだろうから、アリサを以前使っていた部屋に連れて行ってくれ」
ソフィーが返事をすると、エドワードは一呼吸置いて続けた。
「……それから、アリサをひとりにさせないように、マクベルドを呼んでくれ」
自分の言葉に自身が承服できないような口調だった。
ソフィーとイザベラがいるのでひとりにはならないが、きっとそういう意味ではないのだろう。
ロナンは今日の儀式に参加しない貴族だが、立場としてはかなり強い。ヤーラに呼ばれたときもソフィーはまずロナンに報告していたし、この城でもし亜里沙が厄介事に巻き込まれたら、今守れるのはロナンだけだ。
本当ならエドワードが良かったが、亜里沙を守ろうとしてくれたという事実だけでもう十分だ。
エドワードが去ってから、亜里沙はソフィーに付き添われながら懐かしい部屋へと向かった。
「アリサ様、お部屋に着いたら、またお茶を淹れて差し上げますからね。お菓子は何を召し上がりたいですか?」
ソフィーの言葉は耳を通り抜けるだけで、亜里沙はただ「うん」と繰り返した。
「アリサ様……おかわいそうに……ひどいお方です」
だがソフィーが涙ぐんで呟いた言葉は、遅れて理解した。
「まさか、離れた後も話が聞こえた?」
「いえ……ですが、何を仰ったのかはご様子から分かります。それに、最後のあれは……残酷です」
最後のあれ、とは、ロナンを呼べと言ったことだろうか?
それとも亜里沙を見ないようにしたことか。
尋ねると、ソフィーは眉を寄せて首を横に振った。
「いえ、もう忘れましょう」
エドワードのことなら、何一つ忘れたくなどない。
だがそれは、亜里沙のために怒ってくれているソフィーには黙っておくことにする。
部屋に着いて、あの頃と何も変わっていない室内に入ると色々なことが思い出された。
ほんの少し冷静になって、ティーテーブルにつく。
ソフィーがお茶を用意し終わった頃、ロナンがやって来た。
「またそんな顔を……何があったんですか?」
迎え入れて顔を合わせると、ロナンは表情を曇らせた。
どんな顔をしているというのか。
亜里沙は暖炉の上の鏡に目をやるが、少し遠目とは言え無表情に見える。問題はないはずだ。
「旦那様、アリサ様はお疲れでいらっしゃるのです」
言葉を選びながらソフィーが言う。
ロナンはイザベラに近づいて、ふたりは亜里沙に聞こえない声量で何かを話した。
少し言葉を交わすとロナンが小さく息を吐く。
そして遠慮がちに亜里沙のそばにやって来た。
「ライアンが戻ってくるまでもう少しかかると思います。置いて帰りましょうか?」
いったい何を話したのだろう。イザベラのことだから、エドワードや亜里沙に不都合のあることは言わないとは思うが。
それにエドワードは終わるまで帰れないと言っていたので、亜里沙は首を横に振った。
「私がここにいても構いませんか?」
とても気を遣ってくれるが、今はそうされるのも負担に思える。
だがエドワードがロナンを亜里沙のそばに置こうとしたのだ。
「うん、一緒にお茶しよう」
なるべく普通の声色で答えた。
ロナンはもう何も言わず、亜里沙が指したティーテーブルの席、亜里沙の隣に腰を下ろした。
しばらく、重苦しい沈黙の中で亜里沙はもくもくとお菓子を口にしていた。
無心で頬張っていると何度か隣から視線を感じる。
振り向くと逸らされるその繰り返しが、何だかロナンらしくない。
「そうだ、明日のこと教えて」
亜里沙はアストリドとの約束を思い出して尋ねた。
「ああ、まだ話せていませんでしたね」
明日の早朝にアストリドはナイグラードへとやって来る。
お忍びとは言え護衛や侍女の人数、どういうルートで祭りを見て回るか細かく決められていて、軽い気持ちで聞いた亜里沙は唖然とした。
「予定内であればある程度自由がきくので、そこまで身構えなくても大丈夫ですよ。ソフィーが全て把握していますので、アリサさんは楽な気持ちで祭りを楽しんでください」
「分かった、ありがとう」
なるほど、これは修学旅行だ、と亜里沙は納得した。
「ああそれと、屋敷にいる間、カケルくんと一緒に私の仕事を手伝ってくれましたので、アリサさんの分の報酬をソフィーに預けておきます」
「えっ?」
亜里沙は思いがけない言葉に目を見開いてロナンを見た。
そう言われてみれば、亜里沙も夜に、時々翔と一緒にロナンの手伝いをした。
何か手伝えないか聞くと、翔がそうさせてくれたのだった。
気持ちが高揚したのが顔に出てしまったのか、ロナンが目を丸くして亜里沙を見る。
「ありがとう、ロナン。お土産買ってくるね」
するとロナンは、亜里沙が今まで見た中で、一番優しく感じる微笑みを浮かべた。
「喜んでもらえたようで良かったです。私はアリサさんに楽しんでもらえれば十分なので、報酬は自分のために使ってください」
それに答えようとして、口を開いたときだった。
不意に目から涙が溢れ出し、驚いたロナンの顔がすぐにぼやけた。
「あ……アリサ?」
慌てたように、語気が弱くなった声がする。
知らずに緊張していたものが緩んだのか。
亜里沙は顔が歪んで嗚咽が漏れるのを自分の耳で聞きながら、自分の涙腺の弱さを呪った。
「……話を聞こうか?」
「いい、いらない」
泣きじゃくりながらでも、それだけははっきり言えた。
「分かった」
そうしてロナンは黙った。
亜里沙はやけになって、再びお菓子を口に詰め込んだ。泣いてむせ返りながらも次のお菓子を掴む。
しかしロナンにその手を止められてしまった。
抗議の意味を込めてロナンを睨む。
するとソフィーが亜里沙のそばで身を屈めた。
「アリサ様、今それをお口にすると危ないので、喉を通りやすい物を用意いたしますね。少しお待ちいただけますか?」
ソフィーの優しい声に毒気を抜かれて、亜里沙は項垂れるように頷いた。
ソフィーがテーブルの上を素早く片付け始めると、ロナンが亜里沙をソファに促す。
椅子より何倍も座り心地のいいソファに身を預けて、亜里沙は両手で顔を隠した。
適度な距離を空けてロナンが隣に座るのを感じる。
(じゃあ何で手紙を書いてなんて言ったの?)
言葉に出せない想いを亜里沙は胸の内で吐露した。
だが、それを共有してくれる存在は今は眠っている。
(何で大事な用事も放り出して、私のために来たりしたの? 何であんなに優しく笑いかけたりするの? 応えられないって言ったのに、何で手を握ったの?)
「どうして……婚約しちゃったの」
口に出てしまって、ハッとした。
隣を見ると、当然のようにロナンと目が合う。
ロナンの表情に苛立ちが見えた気がして、亜里沙は慌てた。
「違うよ、ただ……ちゃんと帰るし、心配しないで」
ロナンは無言で立ち上がり、驚く亜里沙を尻目に亜里沙のすぐ隣に座り直した。
「え、なに」
ロナンに抱きしめられて肩が跳ねる。
「私のことは枕だとでも思ってください。胸を貸すだけ。これに深い意味はありませんので」
泣いていいということだろうか。
「別に」
亜里沙は強がろうとして、できなかった。
緩みまくった涙腺は簡単に崩壊して、亜里沙はロナンの胸に縋りついて泣いた。
どのくらいそうしていたか、ようやく少し落ち着きを取り戻す。
ロナンに抱きしめられたまま、少しの間ぼんやりした。
ロナンの心臓の音が、服越しにかすかに聞こえる。
少し早い気もするが、一定のリズムを聞いていると落ち着いてくるようだ。
このまま寝てしまいそう、と考えたとき、ニーズが起きる気配がした。
(ニーズ?)
『……苦しい』
久しぶりに話せると思ったら、ニーズの呻き声がそう訴える。
『何だこの……妙な、感じは』
(妙な感じ?)
まさか。
また、穢れが増え始めているというのか。
亜里沙の背筋が寒くなったとき、ニーズが亜里沙の体勢に気がついた。
『あの男に抱きしめられているのか。ああ……これは、あの穢れが間近にあるせいなのか……』
そう言われて、思い出す。
忘れているわけではないが、ロナンがいつも何でもないように振る舞うので、ついその事情が頭の隅に行ってしまうのだ。
──あの、心臓をも覆うところだったという、侵食の跡。
抱きしめられる亜里沙は、今、服を隔ててその侵食と広範囲で接しているということだ。
(今活動状態じゃないよね?)
『ああ、違うようだが……そうだ、この男……思い出した。入り口を開いてキョウコを帰らせるとき、そばにいたな』
(そうなんだ)
そのときのことを聞いてみたいが、ロナンが話したくない部分に触れることだったら、と思うと躊躇われた。
『それにしても、この不快感は……ただの穢れではない、やはりクルスの力と反応して変質しているようだ。しかしここまでのものを我が気づけなかったとは』
ロナンに抱きしめられたことは以前にもあるが、こんなに長い時間ではなかった。だからニーズもこれまで気づけなかったのだろう。
そう考えると小さく、むう、と唸る声がする。
(ねえ、どうにもしてあげられない……だよね?)
『ああ。この男の状態がそもそもおかしい。奇跡と言える偶然が生み出したものだ。だからこれを下手にいじる方が危ないだろう。女神ほどの圧倒的な力で塗り替えでもしない限り』
亜里沙は一度目を閉じた。
やはりロナンに対しても、何もしてあげられない。
せめて、ロナンが望む通り帰ることくらいか。
(回復はどう? 順調?)
『……ああ』
不穏な間があった。かすかに伝わってくる動揺を、亜里沙が気づかないわけがない。
(どうしたの? 問題があるならちゃんと教えて)
『回復はしている。だが……眠りにつくとそのまま目覚めが遅くなることが増えているのだ』
(そうなの? それって以前みたいに、ってこと? 自分から寝てるのかと思ってた)
『そうだ、回復を早めるため自らそうしていた。だが今は、以前とは状態も違うのに徐々に起きていられなくなっている』
(そんな……原因は?)
『考えられることは、誰かが我の邪魔をしたいと願い、それが叶ってしまっている、ということだが……我の存在を知るものがほぼいないから、それも考えにくいな』
亜里沙はすぐに考えついた可能性にぞっとした。
(まさか……私の、せい? 私がエドワード様を好きになったから、まだどこかで帰りたくないって思って)
『落ち着け、お前の願いならばきっと我が気がつく。だから別の者だ』
ニーズがきっぱり否定してくれたことで安心する。しかし、それは別の不穏があるということだ。
(別の者……)
『それも、可能性は低いが。我の存在を知らないと邪魔のしようがない』
ニーズはそう言うが。だが亜里沙の脳裏に、とても嫌な考えだが、どうしても浮かぶ顔がある。
(キーラン、じゃないよね?)
『それは……確かにキーランは、我の存在をぼやけた程度に認識しているかもしれないが』
(単に、私が帰らないように願っていたりするのかも……)
『ああ……だが、キーランはお前が帰ることに納得した。自分で言ったことに責任も持てないほど分別のない奴ではないはずだ。それにそう願ったからとて我に必ず届くわけでもない』
(だといいんだけど……)
『起きていられないだけで、何らかの害があるわけではないから、心配するな。だが、まあ……念のためキーランには用心しろ。お前への執着が少し度が過ぎているように思う。最終的には引き下がるだろうが、帰るときになってまた揉めないようにな』
(うん……ねえ、時々起こそうか?)
『ああ、そうしてくれた方がいいかもしれない』
(分かった。また意識の中に行けばいい?)
『いや。お前が強く呼びかけてくれれば起きられると思う。それでも駄目だった場合、意識の中は最後の手段にしてくれ』
眠そうな声に、不安を感じながらおやすみと言うと、ニーズの気配は遠のいた。
亜里沙も何だか疲れて眠気を感じ、体の力を抜いて寄りかかる。
亜里沙の体を支える腕にほんの少し力がこもったのを感じて、亜里沙は驚いた。
いつかもこんなことがあったが、自分の体勢を一瞬忘れていた。
「ご、ごめん! 忘れてた!」
慌てて上体を起こそうとする。
「忘れてた?」
亜里沙から離れたロナンは、呆気にとられたように亜里沙を見つめた。
「ごめん……眠くてぼんやりしてて……」
「眠くて? 私に抱きしめられていることを忘れていたと?」
ロナンは苦笑して、亜里沙の肩を支えていた腕も引っ込めてしまった。
「まあ、枕だと思えと言ったのは私ですしね」
もしかしたらこういうとき、ロナンのようなタイプの男性はプライドが傷ついたりするのではないだろうか。
「あ、あの、ごめんね……」
しかし、亜里沙の心配をよそに、ロナンはふっと笑うと、優しい微笑みを見せてくれた。
「いいえ。アリサさんが元気になったのなら、それでいいんです」
その表情を見る限り本当にそう思ってくれているようだ。
亜里沙は胸が温かくなって、ロナンへの感謝を口にした。
ソフィーから目を冷やしてもらっているうちに、ライアンの用事が終わった。
ロナンとライアンは亜里沙に聞こえないような位置で深刻な様子で話していた。
亜里沙に分かるのは、ロナンがライアンの言葉に納得していないということだけだ。
ヤーラがどうなるのか心配になって聞いてみたかったが、エドワードにはほぼ全て話してある。
関わるなと言われた以上、もうそれを口にしてはいけないと、亜里沙は我慢した。
結局この後エドワードともアストリドとも会えず、亜里沙たちはナイグラードへと帰還した。
ホールに入ると留守番をしていたキーランがすぐにやって来た。
何もなかったか聞かれたが、亜里沙が大丈夫だと言うとそれ以上は踏み込んでこなかった。
(基本的に素直なんだよね。やっぱり、ちゃんと話していけば、帰るときも揉めずに見送ってくれるはず)
部屋に上がり、軽い食事を取る。
その後翔を部屋に呼んだ。
執務室侵入未遂について話そうか、だいぶ迷ったが、亜里沙はそうしなかった。恐らく必要ならエドワードから翔に共有されるだろうし、また思い出して涙腺を刺激したくない。
そこで亜里沙は、ニーズのことと、明日のことについて話した。
亜里沙はすぐに明日の話に移ろうとしたが、翔は亜里沙が予想もしなかった反応を示した。
「亜里沙ちゃん、ニーズを起こしてくれる?」
「え、今?」
「うん、少し聞いておきたいことがあるんだ」
亜里沙が首を傾げると、翔は言った。
「キョウコさんが帰った時のことについて」
今日のロナンとのことは言いにくくて、翔にはまだ話せていない。
だがこのタイミングでその話題を持ち出されて、亜里沙はまるで胸騒ぎのような、落ち着かない気持ちになった。




