左手
ヤーラは再び亜里沙を睨んだ。
「ヨハラのせいだし、私は悪くない。だからアリサからうまく言って、私をここから出してよ」
癇癪を起こさないように無理に抑えているのか、強い語気だが声が震えている。
「じゃあ何で、聞かれたときにそう答えなかったの?」
亜里沙も相当、色々と我慢しているので、敬語を使うのをやめた。だがそれを気にしたのは若い侍女だけだった。
しかし「あっ」と声を上げただけで、侍女はただおろおろした。
ヤーラはそれについては気にした様子はなく、亜里沙の質問に答えた。
「だって、エドワード様とルージェンの婚約は、パ……父上が乗り気なんだもん。そんな理由で部屋に入ろうとしたなんて言ったら父上に殺される」
当然のように飛び出した不穏な言葉に驚く。
ヤーラはとても可愛がられているという話だったが、オルマの王は怒ると手がつけられないタイプなのだろうか。
亜里沙は小さくため息を吐いた。
「でも、それじゃあ侵入が成功して、王女が望むものがあったとして、それをなんて説明するつもりだったの?」
「説明なんて必要ないわ。ただ証拠を見せればいいんだから。パーシヴァル様とルージェンがそういう関係だって知れたら、私が侵入した理由なんて、誰も気にする暇もなくなるわ」
確かに大騒ぎになりそうだが、意外とずるい考えだ。
しかし、執務室にある密会の証拠とはいったい何なのだろう。何を目当てに探すつもりだったのか聞いてみたいが、そもそも怪しい情報なのでやめておいた。
「それで失敗したんだよね。この状況で私にどうしろって言うの?」
「だから、それをアリサが考えてよ! 来訪者なんでしょ? 特権があるんでしょ?」
「どうして私がそんなことを考えてあげないといけないの?」
「私は王女よ!」
「だからなんなの?」
特権の使い道はここではない気がするが、こういうときでもないと思う存分使えない気もする。
「私は来訪者よ。王女だからって私に指図できないでしょ」
言ってしまった後、まずい気もしたが、もう後戻りはできない。亜里沙はそのまま堂々と、身長差を利用して見下ろした。
ヤーラは歯噛みするようにした後、だったら、と提案してきた。
「アリサが証拠を探してきてよ」
「は……?」
そもそも情報が合っているかどうかも分からないのに、まだそんなことを言い出すのか。
呆れて口を開く亜里沙を、ヤーラは鋭く睨み上げる。
「アリサだって、エドワード様が騙されたままなのは嫌でしょ? ルージェンは父上の王女の中で一番出来がいいなんて言われてるけど、エドワード様に選ばれるまではただの離宮の亡霊だったんだから!」
頭を殴られたような衝撃だった。
やはり、ルージェンはエドワードが選んだのだ。
「ルージェンはきっと卑怯な手でエドワード様を誑かしたのよ。エドワード様が好きなら、目を覚まさせてあげたいって思うでしょ」
一気に捲し立てたヤーラを、亜里沙はしばらくじっと見た。
ふつふつと湧き上がる怒りを、深呼吸で抑える。
掴んだままの枕を握りしめた。
ヤーラの言葉が許せない。だが怒ったら認めることになると思った。だから、亜里沙は再び淡々と伝えることにした。
「ルージェン様はそんな人じゃない。私はまだそこまで深くは知らないけど、きっと聡明な人だし、素晴らしい王女のはずだよ」
悔しい。事実とは言え、何故ルージェンを褒めないといけないのだろう。
「だから、ルージェン様が王太子様とそんな関係のはずがない。だって、エドワード様が選んだ人なんだから」
エドワードが選んだのなら、選ばれた相手は絶対に素敵な人だ。婚約者を裏切るような真似をするなんて思えない。
たとえその相手との未来を心から祝福できなくても、それだけは確信できる。
「だからそれは騙されたんだって言ってるでしょ!」
「エドワード様は騙されるような人じゃない。馬鹿にしないで」
うっと、ヤーラが呻いた。
「だって……だって、六年前に会ったときは、エドワード様は私がいいって言ったんだもん」
「……え」
「結婚するなら、私がいいって言ってたのよ。ルージェンは……そのときいなかったけど。でも、エドワード様が」
ヤーラの目が再び潤む。
亜里沙も頭が混乱しかけて、再び深呼吸をした。
「六年前にも一度婚約者を決めるための話し合いがあったの?」
「そうよ。でもそのときはまだパーシヴァル様の婚約が決まってなくて、それを待つことになって」
「それで、三年前にルージェン様が選ばれたのね」
ヤーラが口を尖らせながら、小さく頷いた。
六年前だと、エドワードは九歳だし、ヤーラは八歳だ。
亜里沙がその年齢のときは、亜里沙は翔が好きだった。
幼い恋心なんてそんなものだろうとも思ったが、エドワードは年齢の割にしっかりした考え方をする人だ。きっと六年前も三年前も、恋心では選んでいないはず。
だとしたら、考えが変わる何かがあったのだ。
(六年前か……似たような話をどこかで聞いた気がする)
亜里沙はすぐにそれに思い至った。
アストリドも同じようなことを言っていた。
(王太子様は、五年前に王太子になる前はあんな人じゃなかったって言ってたよね)
パーシヴァルが変わったきっかけが王太子になったことであるなら。
それはきっと、あれに関係するだろう。
「ねえ、何を考えてるの?」
「今情報を整理してるの」
王太子になったから、秘密の議会に参加するようになった。
そのせいで、きっとパーシヴァルは変わってしまったのだ。
そしてエドワードは、恐らく変わってしまった兄の影響で、考えを変えたのだろう。
婚約の話だけならば、政治とも関係があるのだろうし、例の議会の影響がなくとも結局は今の形になったのかもしれない。
だがこの議会に関することで、亜里沙が知るだけでも、ふたりも命を落としている。
亜里沙が知らないことなど山ほどあるし、きっと犠牲者はもっと沢山いるはずだ。
その秘密の議会の存在が、正確にはこの世界の秘密が、沢山の人生を狂わせているのだと思えてならない。
「ねえってば!」
「やっぱり、エドワード様は考えがあってルージェン様を選んだし、ルージェン様はエドワード様に選ばれるほどの人なんだから、ヤーラ王女の勘違いだと思う。そもそも、ヨハラさんは今どうしてるの?」
「ヨハラはいないわ」
亜里沙の言ったことに不服そうにしながら、ヤーラは素直に答えた。
「少なくとも私が捕まった後は、誰もヨハラを見てないの」
「え? でも、ルージェン様は?」
「知らない! 会いに来ないんだもの!」
あの女、とヤーラは金切り声を上げた。
再びベッドに舞い戻り、高級そうな枕の一つを掴んでベッドを殴りつけ始める。
「パーシヴァル様ともそういう関係のくせに、夜にエドワード様の寝室に招かれたってメイドたちが噂してるの! そんなわけないじゃない! きっとルージェンが自分から言いふらしてるのよ!」
「あ……えっ? な、なんて?」
亜里沙は顔に火がついたような熱を感じた。
慌てて再三の深呼吸を試みる。
だが、うまく息ができない。
その間もヤーラの金切り声が耳を突き刺してくる。
苛立ちが大きくなった亜里沙は、先ほどキャッチして掴んだままだった枕を思い切り投げた。
こう見えて、運動はまあまあ得意な方だ。
重量がそこそこあったので勢いよく飛んだ枕は、ベッドの上、ヤーラの足の近くにぶつかった。
「どこ見てるの? へたくそ!」
「わざと当てないようにしたの! ちゃんと狙い通りよ!」
ヤーラが次の枕を投げた。難なく掴んで、やはり足元に向かって投げ返す。
それでやめようと思ったのに、再び枕が宙を舞った。確実に顔に向かって飛んでくるのでヤーラのコントロールもなかなかだ。
「もうやめなさい! またやったら次は顔に当てるよ!」
ヤーラの手元にはまだ枕があるので、警告を飛ばす。
手に掴んだものは怯える侍女の足元に向かって投げた。
侍女が慌てて回収するのを横目に見届けて、お陰で少し冷めた頭で、亜里沙は口を開いた。
「ヤーラ王女。ルージェン様は婚約者だよ。王族の婚約について詳しくないけど、別に……そういう……部屋に招いたって……とにかく、おかしいことじゃないでしょ」
言葉を吐くたび胸がズタズタに裂かれるように痛んだ。
言葉尻も蚊の鳴くような声になって、それでも亜里沙はヤーラを見据えた。
「王女なんだから、子供みたいに騒ぐのはやめて。ちゃんと反省して」
ヤーラの大きな目が見開かれ、口は真一文字に結ばれる。
しかし、ヤーラが侵入しようとした理由、そしてそれがヨハラが言ったことが原因となると、これを話す相手は選ばないといけない。
「……私が話してみる。だから大人しくしていて」
ヤーラは眉間をギュッと寄せて、力なくベッドに座り直した。
返事はなかったが、大人しくしてくれるようだ。
そうして、亜里沙が退室しようとしたとき。
外から声がかかった。
「第二王子殿下がお越しです」
「エドワード様?」
ヤーラが歓喜の声を上げる。
だが、扉が開いて顔を出したのはソフィーだった。
どうやらエドワードは亜里沙に用事があるようだ。
ソフィーに促されて部屋を出るとき、つい振り返ってしまった亜里沙は後悔した。
部屋を後にする亜里沙を見つめていたヤーラのあの顔は、けして他人事ではなかったからだ。
部屋を出ると、扉から離れた場所に、エンリクだけを連れたエドワードが落ち着かない様子で立っているのが見えた。
亜里沙が早鐘のような鼓動を感じながらエドワードに近づくと、こちらを見たエドワードの顔に安堵が広がった。
「良かった……何事もなかったようだな」
心配してくれたことに喜びを感じながら、エドワードの顔を見た亜里沙はふと気がついた。
先ほどの、ヤーラが口にした噂。
いくら婚約者だとは言え、宗教の影響が強い世界で、しかも王族なら、婚前のそういう関係は醜聞になりかねないのではないか。
エドワードなら自分の婚約者にそんな恥をかかせるわけがない。
それにきっと、何よりもまず大事に扱うだろう。
噂は噂に過ぎないとほっとすると同時に、その相手が自分じゃないので複雑な思いを抱えながら、エドワードに笑みを見せる。
そして、亜里沙はやっと、周囲がまだ明るいことに気がついた。今は夕刻ではない。
エドワードはエンリクだけを連れていて、そしてそのエンリクの顔は強張っているような気がする。
「あの、儀式は?」
エドワードは一瞬、言葉に詰まったようだった。
「……僕がいなくてもいい段階に入ったから、抜けて来た」
ついエンリクを見るが、目を逸らされた。
もう一度エドワードを見る。
そんなことをして大丈夫なのかという心配と、抜けて来た理由への期待が渦巻いて胸が騒がしい。
「でも、どうして?」
「それは……心配だったからだ」
期待したことが叶って、亜里沙は嬉しくなった。
だがエドワードを案じる気持ちも当然ある。
「あの、ただヤーラ王女と話しただけなので、私は大丈夫です」
「大丈夫ではない」
エドワードに厳しく言われて、目を見開く。
「例え未遂であっても、侵入しようとした事実は変わらないし、その目的も看過できるものではない。アリサ、この件はお前が思うより危険なんだ。今後は呼ばれてもヤーラ王女を訪ねるな」
一瞬、エドワードはヤーラの真の目的を知っているのかと、肝を冷やした。
エドワードの表情からはそこまでは読み取れない。
ヤーラを唆したとされるヨハラはルージェンの侍女だ。もしかしたら何か知っている可能性はある。
(とにかくこれを誰かに話さないと……)
亜里沙は心底嫌だったが、話すならやはりルージェンだろう。
身内の問題だから身内同士でどうにか解決して、できればヤーラの真意は有耶無耶になったまま、エドワードの耳に入れないで欲しい。
返事を待つエドワードに、亜里沙は頷いてみせた。
「……分かりました、もう呼ばれても行きません。でも、ヤーラ王女と話したことを伝えたいので、ルージェン様に会えるようにしてくれませんか?」
姉妹間の話に聞こえるように、言った。
だから、分かった、と言われると思っていた。
「駄目だ」
その強い語気に驚く。
「ヤーラ王女と話したことは全て僕に話してもらう。ルージェンに伝える必要があるかは僕が判断するし、そうする必要があった場合は僕から伝える」
「でも……」
「ルージェンに会わせることはできない。聞き分けてくれ」
その理由が分からない亜里沙は、とても嫌な考えに支配された。
亜里沙の気持ちを知るエドワードが、もしかしたら誤解をしているのではないか。
亜里沙が嫉妬のあまり、ルージェンに危害を加えると思っているのではないか、と。
不安な気持ちのまま、エドワードに促された亜里沙は、先ほどヤーラと話したことを口にした。
エドワードへの気持ちが分かってしまいそうな部分は何とか隠しつつ、言葉にする。亜里沙が自覚したときにもう知られているだろうが、それでもこのように伝わるのは嫌だった。
話し終えて、誤解をそのままにしておきたくなかった亜里沙は、エドワードに訴えた。
「あの……私、ルージェン様に危害を加えたりしません」
弱々しく言うと、エドワードは目を丸くした。
「そんなことは心配していない。ただ、これ以上この件に関わって欲しくないだけだ」
亜里沙の嫌な考えは、エドワードの言葉で簡単に消え去った。
だが何度も線引きされるのは辛い。
せめてもう一度これを伝えようと、エドワードを見つめる。
「私に何かできることはありませんか? エドワード様の力になりたいんです」
きっと、数歩後ろの位置でこれを聞いているイザベラは呆れているだろう。
だが、やはり亜里沙の気持ちは自分自身でも簡単に変えられないのだ。
エドワードの瞳に、ほんの一瞬、切ない感情が見えた気がした。
だがこれは亜里沙の願望だったかもしれない。
エドワードはエンリクとイザベラに目で合図して、その位置からもう少し下がらせた。
ソフィーもイザベラについて距離を取る。
そうして、エドワードは亜里沙をまっすぐに見つめた。その表情から、今から言われることがけして嬉しいものではないと、分かってしまった。
「アリサ、勘違いではないと思うが、僕を慕ってくれているんだよな?」
亜里沙の顔面があっという間に沸騰する。
真っ赤になる亜里沙を見て、エドワードは悲しげに眉を寄せた。
「アリサの気持ちは嬉しい。だが、それに応えてやることはできない」
頭をバットで殴られたかと思った。
分かっていたことなのに、直接言われた衝撃は想像もつかないものだった。
エドワードはそれでも容赦なく言葉を続ける。
「だから、無事でいることだけを考えてくれ。そして無事に、あちらの世界に帰って欲しいと思っている」
エドワードは何も言えない亜里沙をしばらく見つめた。
そして、何故そうしようと思ったのか、亜里沙の左手をそっと取った。
儀式用の白の衣装で、手袋をしていないエドワードの手が、亜里沙の手に直接触れる。
握られた手にほんの少し力がこもって、伝わってくる体温に、亜里沙の心臓が痛いほど締めつけられた。
「アリサが無事でいることが、僕が望んでいることだ」
それ以上の言葉はなかった。
だが少しの間、その手が離されることはなかった。




