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蔵書

 ここまで泣いたのは、エドワードへの想いが溢れたあの夜以来だ。


 翔はずっとそばにいてくれた。

 気づけばいつの間にか抱きしめられていて、時々背中を優しく叩かれた。


 やがて落ち着いて離れると、亜里沙を見つめる翔の目には、変わらず亜里沙を心配する気持ちが見える。

 照れ臭さのせいでわずかにぎこちなくなったが、亜里沙は精一杯翔への感謝を口にした。



「ネグリジェだったの?」


 亜里沙を気遣うように躊躇いがちに、翔がそう問いかけた。


「うん、そう聞いてる」


 すると翔は考えるように目を伏せる。

 翔が何に疑問を感じたのかは分からないが、亜里沙もそこは少し引っかかったところだった。

 ネグリジェは茉利咲の服の好みからは外れるし、母親が買うのもパジャマだった。


「お祖母ちゃんが、そういうタイプの服をよく買ってたんだよね。だから多分、それもお祖母ちゃんが買ったんだと思う」


 そっか、と小さく言うと、翔は目を上げた。


「茉利咲ちゃんって、よくヒーローもののパジャマ着てたよね。蓄光のやつ」


 翔が懐かしそうに笑って、亜里沙もつい笑みが浮かんだ。


「うん。翔くんと翼ちゃん、何度かうちに泊まりにきたよね。で、私と翼ちゃんは魔法少女とかプリンセスのパジャマ着てた。蓄光のやつね」


「俺だけ動物とかの総柄の普通のやつ着てたから、光らなかった記憶があるよ」


 そうそう、と笑って相槌を打つ。


「でもあれ、茉利咲の好みもあるけど、翔くんに合わせるためだったんだよ」


「えっ、そうなの?」


「うん。翔くんはパジャマは光らなかったけど、そういうヒーローものとか好きだったでしょ。茉利咲は翔くんが大好きだったから、余計に私物がそればかりになってたんだよね」


「そうなんだ……」


「あの子、翔くんが大好きすぎて、いつも誰にでも翔くんの話をしてたから、実はお祖母ちゃんの近所でちょっとした有名人だったんだよ」


「それは、なんか照れるね」


 翔が照れ臭そうに笑う。亜里沙も懐かしさで目を細めた。

 もしあんなことが起こらなければ、茉利咲はいつも宣言していたように、未来では翔と結婚していたのだろうか。


 胸が強く締め付けて、亜里沙はその考えを振り払った。こないと分かっている未来が輝いていればいるほど、心は暗く沈んでいく。


「……もう遅いから、休もう」


 亜里沙を労るような優しい声がして、亜里沙は顔も見ずに頷いた。




 翌朝、やはり腫れ上がった目を、今度はソフィーが何も聞かずに冷やしてくれた。


 朝食前の早い時間。まだ夜が明けきってもいない。

 何となく落ち着かなかった亜里沙は、ソフィーとイザベラに言って部屋を出た。


 そして居間でソフィーから目の手当を受けていると、そこへライアンが顔を出した。


「あ、アリサ様。おはようございます」


「ライアン、おはよう」


 ライアンは居間を見渡した。


「ここにもいないか……あの、兄は来てませんよね?」


「ロナン? まだ会ってないよ」


「ですよね。こんな早くからどこに行ったんだ。ただでさえ今日は忙しいのに」


「いないの?」


「はい、部屋にも、カケル様のところにもいないし、誰も兄を見ていなくて困ってるんですよ……もしかして昨日、何かありましたか?」


 亜里沙は昨日のことを思い出して、一瞬嫌な予感がした。

 どこにもいなければ外へ出たのかとも思うが、その行き先が一つしか浮かばない。


(……いやいやまさか。いくらなんでも、ヒューゴをどうにかしたりはしないでしょ)


 おかしな考えが浮かんでしまうほど、昨日のロナンの怒りは強かった。


 だが、あれからすぐにロナンは落ち着いていた。

 冷静に考え直すと、今ロナンが見当たらないことの原因があの会話にあるとは思えない。


 亜里沙は安堵しながら答えた。


「私が勝手に王都に行っちゃって、それで少し怒られたけど、それくらいだよ」


「そうですか……困ったな……」


 例の議会に関係してくることだからか、ロナンはライアンには昨日の詳細を話していないようだ。



 何となく申し訳なさを感じた亜里沙がライアンを手伝おうとしたとき、ロナンが居間に顔を出した。


「なんだ、こんなところにいたのか。ただでさえ今日は忙しいのに」


 姿を見せて開口一番、ライアンと全く同じセリフで文句を言うロナンに、ライアンの口が開く。


「それは私が言うべきことなんですが」


 遅れてライアンは声を上げていた。


 不機嫌になるライアンを軽くあしらうロナンを見ていた亜里沙は、すぐにその顔色が悪いことに気がついた。


「おはよう、ロナン。もしかして具合悪い?」


「おはようございます。アリサさんはまた目を腫らしたんですか?」


 言って、口を押さえて軽く咳き込む。

 軽いとはいえ、また血を吐くのではと思わせる嫌な咳だ。

 驚いた亜里沙がつい駆け寄ると、ロナンはそんな亜里沙を見て苦笑した。


「……随分と心配してくれるんだな」


 ほんの少しの呆れが混ざるが、優しい声色で、亜里沙は不意打ちをくらった。


「俺なら大丈夫だよ」


 その言葉も微笑みもとても自然に出てきたものだった。

 ただ亜里沙を安心させようとしてくれたことが分かる。

 亜里沙への親しみが滲むような表情は、まるで心を開いてくれているようだ。


 身構えていなかった亜里沙の鼓動が大きくなった。

 口説かれていたときとはまた様子が違うが、これはこれで心臓に悪い。


「そ、それならよかった」


 ソフィーの元に戻ろうと振り返ったとき、怪訝な顔でこちらを見るライアンが見えた。


 亜里沙と目が合ったライアンはハッとして、ロナンを振り向く。


「知らせはもう耳に入っていますよね?」


「ああ。この忙しいのに厄介なことをしてくれるものだ」


「何かあったの?」


 尋ねると、ライアンは躊躇したが、ロナンはあっさり教えてくれた。


「王太子殿下の執務室に侵入して、盗みを働こうとした者がいるんです」


「えっ」


「正確には、侵入を試みた者は未遂で捕まりました。ですが王太子殿下が、重要な書簡が誰かに触れられた形跡があると仰ったようで……大変な事態になっているんですよ」


 昨日の出来事のせいで、先ほどからどうしても不吉な考えが頭をよぎる。


 エドワードとパーシヴァルが対立することはないとイザベラは言っていた。

 だがもし派閥のように人を分けて考えるなら、パーシヴァルはロナンと同じ側だ。


「捕まったのは誰?」


 平静を装って問いかける。ロナンは少し考えたが、結局はその人物のことを口にした。


「第四王女殿下です」


「それって、ヤーラ王女?」


 ロナンが頷く。

 予想もしなかった人物だが、あの幼さなら何をしてもおかしくないと思えてしまう。

 エドワード側の誰かではないと分かって、亜里沙は思わず安堵してしまった。

 ヤーラには悪いが、王女だからまさかひどい目には遭わないだろう。


「そういう事情なので、私とライアンはそろそろ出ないといけません。アリサさんは今日は」


 言いかけて、ロナンはじっと亜里沙を見た。


「……私に同行してもらいましょうか」


「えっ?」


 亜里沙とライアンが同時に声を上げたが、亜里沙の驚きはライアンのそれにかき消された。


「アリサ様を城に連れて行くのはどう考えてもまずいでしょう。王女殿下以外に不審な者がいるかもしれない。しかも、それが誰かも分かっていないのに」


「それはそうなんだが」


 言って、ロナンは亜里沙を見やった。


「昨日のことを考えると、そばに置いた方が安全だと思えてね」


 どこか皮肉めいた微笑みが亜里沙に向けられる。

 ライアンは断固として反対する様子だったが、ロナンはそれ以上ライアンに構わず、亜里沙の同行を決めてしまった。




 あれからすぐに、亜里沙は軽く食べ物を腹に入れるとロナンとライアンと共に屋敷を出た。

 ソフィーとイザベラの同行を許可したロナンは、不服そうなキーランのことは翔に押しつけ、こうしてふたりは留守番となった。


 イザベラは護衛に混じって外を守り、車内には亜里沙とソフィー、ロナンとライアンがいる。

 主に兄弟で明日からのことで話し込んでいるので亜里沙は気が楽だった。


 城でどの程度動けるかは分からないが、アストリドと会えたなら暗号のことを話せるかもしれない。


 エドワードとも会えるかもと思うと胸が高鳴るものの、今日はロナンと行動しているので面と向かっては会いたくない気もする。


 遠くから姿を見るだけなら、と小さな期待を胸に、すっかり祭りの準備が整ったナイグラードの華やかな街並みを眺めた。




 今日は祝祭の最終日で、あの大聖堂での行事で一日を使うらしかった。そして王族も来賓もこれには参加し、もし会えるとしても夕刻頃だという。


 王族が欠席するなどあってはならないのに、そんな重要な行事を控えた昨日の夕方、ヤーラは今回の騒ぎを起こしたという。

 そして侵入を試みた理由については、頑なに口を開かないのだそうだ。


 聖堂では何か儀式があるらしく、今年は大司祭だけではなくルチアがいるためか、聖堂前の広場は早くも人でごった返している。


 そしてこの日は、ルチアや司祭だけではなく、儀式に参加する王家やその来賓、高位の人々も白を基調とした装いになるらしい。

 その話をソフィーから聞いた亜里沙は、やはり遠目にでも姿を見たいと期待が高まるのだった。



 馬車の速度のお陰で行事前には城に到着したものの、ホールに通されたときにはもう時間が迫っているようだった。


 ルチアはすでに聖堂にいるらしいが、王族の人々と高位の貴族らしき人々がいて、侍従や騎士がその周りを固めている。

 ロナンがパーシヴァルのそばに行って何やら話している間、亜里沙は他の皆と共に端の方で待機となった。


 一度、王がこちらを見て、頷くような仕草をしたので亜里沙もその場から軽く会釈をした。

 その近くにいるアストリドの兄も亜里沙ににこやかに会釈してくれる。


 見たことのない人々も亜里沙を気にしている素振りがあるが、イザベラが壁になって威圧しているからか、それとも来訪者の扱いを心得ているからか、誰も近づいてこないようだ。


「アリサ様がおそばにいて良かったです」


 安堵したようにライアンが囁いた。


「誰も構ってこないので楽ですよ」


 そう言うライアンは、だが顔がどこか緊張している。このような場に慣れない亜里沙よりも息苦しく感じていそうだ。


 ライアンはハッとして小さく謝罪したが、こんなことでお世話になっているライアンの役に立てるなら嬉しかった。



 ライアンとの会話は途切れ、亜里沙は望んだ通り、遠目からエドワードのその姿を眺めた。


(かっこいい)


 いつ見てもそうだったが、その衣装のせいか、また違った印象で亜里沙の心臓は騒がしくなった。


 だがこの衣装の一つ悪い点は、そばに立つルージェンとお揃いのように見えるため、亜里沙にとっては結婚式の衣装に見えてしまうところだ。

 形は全然そのように見えないものの、白というだけでこうもそのイメージに結びつくものだろうか。


 ソフィーから話を聞いたときはここまで思い至らなかった。

 そもそもこの世界の結婚式の衣装の色はどうなっているのだろう。

 まだ結婚するわけでもないのにあんな色で揃えて身に纏って問題はないのか。



 そんなことを思いながら視線を送っていると、エドワードがこちらを見た。

 途端に目の腫れが気になってしまう。ソフィーの手当てが的確でほとんど分からないとは思うが。


 一瞬で逸らされると思ったのに、エドワードはそれから少しの間亜里沙を見ていた。

 何か言いたいことでもあるのだろうか。

 他に誰もいなければ駆け寄って尋ねてあげられたのに。


 またしても顔が熱くなるが、これはもう不可抗力だろう。エドワードの視線が外れると、亜里沙は顔を隠すようにイザベラの後ろに立った。

 それでもエドワードが見えるようにと立ち位置を調整していると、ライアンが「あ」と小さく声を上げる。


 そして突然恭しく挨拶をしたので、ようやく亜里沙は、アストリドが近くに来てくれたことに気がついた。



「アリサ、おはよう」


「アストリド様! おはようございます」


 ソフィーとイザベラも控えめに挨拶をする。


 金糸の刺繍で装飾された、露出の少ないシンプルな形の白いドレス。

 アストリドはいつも綺麗だが、今日は眩いばかりの美しさで、女神か天使のように見える。


「あ、あの、すごく綺麗です」


「そうか? ありがとう」


 アストリドは嬉しそうに笑うと、もう少し亜里沙の近くに立った。


「ヤーラ王女は部屋に軟禁中だ」


 取り巻きが後ろに続いているので、必然的に囁き声になる。


「騒ぎがあったこと、聞きました。でも軟禁までされてるんですね」


「うん。本人は、入ろうとしただけでそれ以前には近寄ったこともないと訴えていたが、さすがにそれで許されることではないからな」


 窺うように目をやると、パーシヴァルがこちらを見ていて、亜里沙は慌てて目を逸らす。


「ああ、大丈夫だぞ。王太子殿下に許可を得て話しかけたのだから、心配するな」


 亜里沙はひとまずほっとした。


 ヤーラの件も気になるが、先にあの話だけでもしておこうと、亜里沙はほとんど耳打ちで伝えた。


「最後まで読みました。翔くんも一緒に」


「そ、そうか。どうだった?」


 この耳打ちし合う姿が周囲からは不審に思われるかもしれないと亜里沙は後悔したが、もう切り出してしまったから仕方ない。


「翔くんは違和感があるって言ってました。それと、最後のページが暗号の解読表みたいだったので、どこかに暗号で書かれたものがあるはずだって」


「あれが暗号?」


 アストリドは目を丸くして考え込んだ。


「アマリアが書いたものが実はもう一冊ある」


「あるんですか?」


「ああ。あれの後に書かれたものだ。だがそちらは日々の記録というより、北方の花などの植物について書かれたもので、絵なども描かれていたから、寄贈したのだ」


「どこに寄贈を?」


「正確には、アマリアが何かを遺さなかったか気にされていたから、それを差し上げたのだ。アリサに託したあれを渡すわけにはいかなかったから。その後、本として貴重であるため図書館の蔵書にしたと教えてくださった」


「それは、誰のことですか?」


 アストリドは顔をそちらに向けて、言った。


「国王陛下だ」


 アストリドの視線を辿るように目を向けた先に、穏やかな顔でロナンに声をかける王の姿があった。



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