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 部屋で着替えを済ませた後、イザベラがソフィーに事情を話した。

 ソフィーは亜里沙に確認すると、速やかに退室する。


 そして、イザベラは突然亜里沙の目の前に跪いた。


「申し訳ありません」


「えっ、どうしたの」


 驚いて立つように促すが、イザベラはそのままの姿勢で言葉を続けた。


「私はただアリサ様をお守りすれば、それでいいと思っておりました。そうして私がお話ししなかったことでご不安を抱かせてしまったのだとしたら、あなた様の騎士を名乗る資格がありません」


「大丈夫だよ、ほら、今話してくれればいいから」


 亜里沙が懸命に言うと、イザベラはようやく立ってくれた。

 イザベラを説き伏せて、ティーテーブルを挟んで椅子に座る。


 イザベラは声を落として、彼女が把握していることを話してくれた。




「え……じゃあ、ヒューゴはエドワード様の指示で動いてるの……?」


 ショックで声が震える。

 騎士だから王族に従ってはいても、それは仕方ないからそうしているのだと思っていた。

 だがイザベラから聞いた話では、全く事情が異なる。


「アリサ様」


「いつから……? 遠征のときは、味方って感じはしなかった」


 ティラ砦で大勢の前で亜里沙がヒューゴから責められ、イザベラと決闘にまでなった。

 だからあれ以降の話だろう。


「最初からです、アリサ様。ヒューゴは騎士になった瞬間から、第二王子殿下に忠誠を誓っています」


 再びのショックで、目の前が一瞬揺れたような錯覚があった。


「じゃあ……じゃあ、あの決闘は? エドワード様もイザベラも、ヒューゴと敵対する振りをして、私を騙したの? 何でそんなこと」


「違います!」


 イザベラがつい声を張り上げ、ハッとして声量を落とした。


「確かにヒューゴは殿下に忠誠を誓っています。ですが時折身勝手に動いては、何度も処罰を受けてきた男です。来訪者様を憎む様子も散々見てきたので、遠征でのあのとき、私は、ヒューゴがついに殿下を裏切ったと思ったのです」


「……じゃあ、エドワード様は?」


「あの後ヒューゴに真意を問われたはずです。てっきり命はないものだと思っていたヒューゴが生かされたので、私もトランティアを出る前にヒューゴに問いただして知りました」


「つまり、どういうこと?」


「あの頃、アリサ様とカケル様への不信感が軍の内部で膨らんで、少し危険な状態でした。私と決闘することで牽制しようとした……つまり憎まれ役を買って出たのです。ですがそれもまた危険なやり方です。殿下が指示なさったことではありません」


 亜里沙はしばらく呆然とした頭を必死に動かして考えた。

 色々な思いが浮かんできたが、一つ確かなのは、翔が以前教えてくれたことだ。


「……じゃあ、今日のあれは?」


「殿下が指示なさるはずがありません」


「でもヒューゴがあんなことを言ってきて、ロナンもヒューゴのことだとものすごく怒って……エドワード様とロナンは、やっぱり敵同士ってこと?」


 イザベラは答えなかった。

 その沈黙は肯定だろう。


 こういうのを何と言ったか、政敵、とでも言うのだろうか。


「伯爵とヒューゴに関しては、個人的な因縁もあるかと思います」


 イザベラにしては弱々しい声だった。


 穢れが落ち着いてきたと思った矢先に。

 自分がいったい、何に巻き込まれようとしているのかも分からない。

 ただ、誰も彼も亜里沙や翔を、来訪者を利用しようとしている気がして、無性に腹が立った。


 だが同時に、本当にそれでエドワードの役に立てるのなら、自分は利用されても構わなかったという思考が片隅で頭をもたげて、自分自身に驚愕する。


 ロナンと天秤にかけるわけではない。

 だが亜里沙は、エドワードの力になりたかった。



「私が、エドワード様のためにできることってある?」


 イザベラを見ると、何故か悲しげな顔をされた。

 時々ソフィーもこういう顔で、亜里沙を見ていることがある。


 そんなに、叶わない相手を想い続ける姿が哀れなのだろうか。


 そんな風に自嘲的に考えたとき、イザベラが答えた。


「ご無事であられることを、何より願っておられます。ですから無茶をなさらないでください。私が身命を賭してお守りします」



 イザベラはその後も、彼女なりの考えを聞かせてくれた。

 それは以前に翔に相談したときに返ってきた答えとほぼ同じ内容だった。


「まさか、実際に戦ったり、危ないことになったりするのかな?」


「国王陛下と王太子殿下が伯爵を重用しているため、表立った争いになる可能性は低いと思われます。全くないとは申しませんが、少なくとも、すぐに事が動くようなことはないでしょう」


 だが亜里沙は別の心配に気がついた。


「待って、王様と王太子様がロナンの味方なら、それはエドワード様の敵ってことにならない?」


「王位継承権を持つお方は互いに争ってはならない決まりがあります。ですので、敵対なさることはないでしょう」


 イザベラが亜里沙を安心させるように声を和らげる。


「通常は第一王子殿下が王位を継がれますが、他の王子殿下も不測の事態に備えて継承者であらねばならず、放棄も認められません。この国ではイドルの害が多いため、継承者の間で争いがあったことは記録にもほとんどありません」


「ほとんど? 絶対じゃないの?」


「ええ……ですが、第二王子殿下はオルマの第五王女殿下とご婚約なさったため、王女殿下と親交が深い王弟殿下とも良好な関係を築いておられます。これを無視して陛下や王太子殿下が、第二王子殿下と対立なさることはないでしょう」


「王弟……王様じゃなくて?」


 政治の話はよく分からないが、誰が偉いかは何となく分かる。

 そして身分に力がくっついてくると思っているので、亜里沙は不安点ばかり目についてしまう。


 イザベラはそんな亜里沙に目を丸くして、思わずといったように笑みをこぼした。


「アリサ様……本当に、心から慕っておいでなのですね」


 そう言ったイザベラの眉が、ほんの少し悲しげに下がった。

 亜里沙は顔が赤らむのを感じながら、頷く。


「アリサ様、でしたら、今お聞きになったことはここだけの話になさってください。忘れてしまえるなら、それが一番いいでしょう」


「やっぱり私では、力になれないってことなんだね」


 イザベラは答えなかった。


「翔くんには、相談してもいいかな?」


 翔にも頼ってばかりだが、もしかしたらエドワードの助けになる方法を教えてくれるかもしれない。


 イザベラは眩しそうに目を細めた。


「アリサ様とカケル様も強い絆で結ばれていらっしゃるのですね」


 そして、イザベラはふと遠い目をした。


「友や家族を超えて、もうひとりの自分のような」


「イザベラ?」


 呟かれた言葉に、暗い影を感じる。

 亜里沙が心配して名を呼ぶと、イザベラはハッとした。


「……あ、いえ。私も昔はロナンとの間にそんな絆を感じていたときがあったので……懐かしくて」


 苦笑するイザベラに、亜里沙はかける言葉を見つけられなかった。




 すっかり夕食の時間に遅れてしまったが、ロナンは何も聞いてこなかった。

 ただ亜里沙を心配するロナンを見ると、複雑な思いが絡んで苦しい。


 亜里沙はエドワードの力になりたいが、だからと言ってロナンを切り捨てたいわけではないのだ。



 夕食後に翔を部屋に呼ぶ。

 慣れたもので隣の部屋に下がるソフィーに申し訳なく思いながら、亜里沙は今日あったことを翔に話した。



「まずは、亜里沙ちゃんが無事で良かったよ」


 安心したように呟かれると、頭が上がらない。


「いつも心配かけてごめん」


 翔は首を横に振った。

 そしてしばらく難しい顔で考え込んでいたが、やがて重いため息を吐いた。


「……ごめん、エドワード様とロナンさんの対立をなくす方法は、さすがに思いつかない」


 言葉足らずだったが、翔は亜里沙の気持ちをちゃんと汲み取ってくれていたようだ。

 難題をふっかけてしまったことを謝罪した。


「でも、多分、エドワード様が知りたいことを調べるくらいなら手伝えると思う。というか、手伝ってる。そもそも図書館の利用を始めてから、既に協力関係だったから」


「あ……そっか」


 ルチアと対話したときの、ふたりの準備の良さを思い出す。


「あくまで帰るときのためで、その過程で分かったことを共有してるだけ。そしてそれはロナンさんも疑ってるだろうから、これ以上目立つようなことはできないよ」


 申し訳なさそうな翔に、慌てて手を振る。


「いや、十分だよ。教えてくれてありがとう」


 エドワードが知りたいことは、恐らくこの世界の秘密だろう。

 それを知っていそうな存在なら亜里沙の中にいるが、回復に専念するニーズに、これ以上負担も心配もかけるわけにはいかない。



 しばらく沈黙が続いたあと、翔が切り出した。


「良かったら、一緒に日記の続きを読む?」


 そう提案されて、亜里沙は二つ返事で了承した。




 読みにくい箇所は翔に助けてもらいながら読み進める。

 これまでにかかった時間とは比べ物にならないほど早く読める。


 そして翔が言っていたように、病気がちな体への苛立ちはある時から懺悔に取って代わり、そしてその理由は読み取れない。


 まだ夜が深まる前に、とうとう最後のページに到達した。



 そして、そのページを見た亜里沙はぞっとして、思わず背もたれに上体を逃がした。


「これ……」


「変だろ?」


 翔が眉を曇らせてページに目を落とす。

 亜里沙も恐る恐る、再び日記に目を寄せた。


 そこにあったのは、意味の通らない文字の羅列だ。

 ただ文字が並んでいるだけの、不気味なページ。

 そしていくらか余白を置いて、再び意味不明な文字が一文記されている。


 だが、上の文字の塊をずっと見ていると、不思議ととある見慣れたものが浮かんでくるようだ。


「なんか……これ、表に見える」


 文字が並んでいるだけで、マス目があるわけではない。

 だがその文字と文字の間隔がそれを形作っているように見えるのだ。


「やっぱりそう見えるよね」


 翔はその表のような文字の上に目線を泳がせながら、呟いた。


「暗号の解読表に見えるんだよな」


「暗号?」


「うん。これが解読表だとしたら、暗号で書かれた書簡か何かがあるはずだけど、何も聞いてない? そっちも意味が通じない文字の羅列のはずだけど」


「ううん、聞いてない。この下の文はなに?」


「多分、解読の鍵となる文字列だ。改めて見ると鍵が長いな……表の文字の配置も一部不規則だし。もしこれが本当に解読表なら、この年齢でこんなことを考えるなんて、アマリア様は天才だよ。まあ、思い違いの可能性もあるけど」


「でも、表に見えるよ」


 うん、と翔が頷く。そのままふたりして考え込むが、やはり表のようだ、という結論に至った。


「じゃあ、もし暗号が見つかればこれを使って解けるってことだよね」


「そうだね。ここに残されていてよかった。この表の配置だと、これを使わなかったら筆記だけで解くのはほぼ不可能だっただろうから。もし俺が知ってるものと同じ仕組みじゃなければ、これを使っても難しいかも知れないけど」



 肝心の暗号化されたものの行方については一旦脇に置いた。

 しばらく表を眺めていた翔が「そういえば」と声を上げ、伸びをする亜里沙を見やった。


「覚えてる? 俺たちも昔こういう暗号で遊んでたよね。子供だからすごく単純で簡単なやつだったけど。解読表作ってさ」


「え? そうだっけ?」


「うん、茉利咲ちゃんと」


 言いかけて、翔は言葉を切った。


「……ごめん、覚えてないんだっけ」


 申し訳なさそうに小さくなる声。

 亜里沙はなるべく安心させるように笑みを作った。


「大丈夫だよ。覚えてないのは茉利咲が死んだときの前後で、大体一年くらいだろうって。暗号は何歳のときに遊んでた?」


「亜里沙ちゃん……」


 眉を下げる翔に首を横に振る。


「いいんだよ」


 ずっとくすぶってきた、茉利咲の死についてのこと。


 亜里沙は不意に、これを翔に聞いてもらいたいと、そんな思いを抱いた。


「もし翔くんが聞いてくれるなら、話したい……茉利咲のこと」


 翔は少しの間亜里沙を見つめると、頷いた。




 亜里沙は翔に、茉利咲について自分が聞かされた話をした。


 茉利咲が死んだとき、恐らく亡くなった祖母を恋しがってふたりで祖母が住んでいた家に向かったこと。

 体が弱かった茉利咲は、恐らくその日も風邪を引いていて、ネグリジェ姿だったこと。

 恐らく亜里沙が無理矢理連れ出して、いつも亜里沙を放っておけなかった茉利咲はそれを断らなかったこと。


 祖母の家に向かうまでの近道。

 農家のそばにある森に近い獣道で、浅い池がある。

 そしてそこに茉利咲が落ちて、発見時は息をしていなかったこと。



「それを……誰が、亜里沙ちゃんに教えたの?」


 翔の声色には複雑な感情がこもっている。

 一瞬咎められているかと思って顔を見ると、亜里沙を見つめる目には心配の色が浮かんでいた。


 亜里沙は涙をこらえながら、初めて、これを口にした。


「三年前にね、中三の修学旅行の前。お祖母ちゃん家の近くに住んでて、よく私たちと遊んでくれてたお兄さんがいて、その人に教えてもらった」


 亜里沙は言葉につかえながら、黙って耳を傾ける翔に語って聞かせる。


「私、お父さんとお母さんにも、茉利咲を引き上げてくれたらしいおじさんとか、近所の人たちにもずっと聞いてたんだ。でもあの直後から私はすでに、そのときのことを思い出せなかったり、不安定だったらしくて」


 翔が何かを思い出したように、小さく頷く。


「その後も不安定な状態が続いたと思ったら、ある日、突然その部分の記憶をなくしてたって……だからなのか、誰も教えてくれなくて。そうやって15歳になったとき、たまたま会ったそのお兄さんは大学生になってて、そのとき言われたの」


 涙も流していないのに、込み上げてくる嗚咽で亜里沙の喉が鳴る。

 亜里沙はそれを飲み込んで、続けた。


「お前は、忘れてしまえていいなって」


 翔の手が、テーブルの上できつく握られた亜里沙の手を取った。その手を握り返すとついに涙が一筋こぼれた。


「その人も、助けに来てくれた人だったんだ。そのときのことを忘れられないって言ってたから、全部教えてもらった。私が叫びながら茉利咲の手を引っ張ってて、おじさんがやっと抱き上げた茉利咲はネグリジェを着てて、顔色がすごく変で、息をしてなくて、でも私が茉利咲にしがみついて引き離すのが大変だったって」


「亜里沙ちゃん、もういいよ」


 亜里沙は縋りつくように、翔を見つめた。


「私、なんかずっと変なこと言ってたんだって」


 翔の顔も、亜里沙のように泣き出しそうに歪んだ。


「絶対そうするよ、って。約束だよ、って。ずっとうわ言みたいに、息もしてない茉利咲に向かって何度も繰り返して言ってたんだって」


 それを聞いたときは、理解が及ばない不気味さに、自分のことながら凍りつくような寒気を覚えた。

 茉利咲の死を嘆くよりも、後悔よりも、何よりもその自分の姿を否定したい感情が強く、自分自身に失望もした。



 だが、翔はそれを聞いても亜里沙を見る眼差しを変えなかった。


「話してくれてありがとう」


 弱々しく告げられた言葉以上に、その眼差しに安堵を覚えた亜里沙は、もう涙を我慢しなかった。



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