積年
ソフィーが急遽用意してくれたスープを飲んで、翔はすっかり落ち着いたようだった。
ベッドに上体を預ける翔を見守るように、亜里沙はそばに椅子を置いて座っている。
「それで、日記を読んで俺が感じたことは」
「翔くん、その話は後ででも」
「いや、もう大丈夫だから」
翔は日本語で話しているのか、ソフィーはいつものように少し離れた位置に移動した。
それを見送って、翔は再び亜里沙に視線を戻した。
「一応全部読んだんだけど」
「えっ全部!?」
あの量を一晩でだなんて、翔は速読でもできるのだろうか。
「ごめん、前半とか、重要そうな部分以外は流し読みした。でも多分、亜里沙ちゃんたちが引っかかってる部分はちゃんと読めたと思う」
翔がサイドチェストに手を伸ばしたので、亜里沙は代わりに引き出しから日記を取り出した。
「気になってるのは、九年前のことだよね?」
「うん……その後のアマリア様は、自分の体のことで以前より苦しんでたみたいだし。アマリア様にとってその時の体験が一番大切だったと思うんだ」
翔が頷く。
「なんていうか、言葉を選ばずに言うと恋愛的な詩集っていう印象かな」
「あ……やっぱり、そう思った?」
「うん。ただ少し、違和感は感じるよ」
「違和感?」
翔は頷いて手を差し出す。亜里沙が日記を渡すと、とあるページを開いてその箇所を亜里沙に向けて指し示した。
「例えば、ここ」
亜里沙がその箇所の文字を目でなぞる。
星の子、私の星の子。あなたは私を想ってくれない。
キーランに何度も愛を告白している。
キーランは戸惑うばかり。
好きだと伝えても顔を背けるだけなのに。
悲しくて心が先に死んでしまいそう。
私の星の子、どうか私の想いに応えてちょうだい。
「ここ……」
キーランへの痛いほどの想いが綴られている部分だ。亜里沙が目を上げると、翔はほんの少し首を傾げた。
「どう思った?」
「えと……アマリア様が、キーランをすごく好きなんだなって」
「そうも読めるよね。でも」
もう一度その部分に目を落とし、翔は言った。
「もうひとり、いるように感じない?」
「えっ」
亜里沙も翔にならって、もう一度その部分を読んだ。
「えーと……?」
すると翔が苦笑する。
「うん、まあ、その程度なんだけどね。俺が感じた違和感は」
「どういう意味?」
「アマリア様の書き方の問題とか、俺の読み方の問題って言われれば、それまでって感じの。ただ俺は、ここにもうひとりいるように読めたんだ。他にもそう感じた部分がいくつかあってさ」
「つまり……?」
「キーランと、星の子が指す人物は、別人だってことだよ」
あくまで、そう感じただけ、と念押しのようにつけ加える。
「別館に部屋が移されたこの滞在だけ、いつもアマリア様を招いていた王妃ではなくて王が積極的に関わったっていうのも、気になった。それまでは王のことはほぼ書かれていないから、関わりは薄かったはずなのに。それでこの時、他にももうひとりいたんじゃないかと思ったんだ。多分……どこかのご令嬢かな」
ページを捲っていた翔が手を止めて眺める文字を、横から覗き見る。
そこにあったのは、こんな想いは理解されない、とアマリアが嘆いている部分だ。
「じゃあ……星の子はアストラムの血を引いていたキーランを例えたものじゃなくて……その、アマリア様が想いを寄せたご令嬢を指してる?」
「だから、より詩的だなって感じたんだ。普通の人間を、そんな風に素敵な表現で書いてるんだから」
亜里沙はエドワードが教えてくれた過去の話を思い返した。翔にニハイル砦で起こったことを話したとき、過去の話は詳細にはしなかった。
エドワードから聞いた話を翔にも聞かせる。
「だからその当時、他のご令嬢がいたならエドワード様も覚えてるんじゃないかな。この時はアマリア様しかいなかったはず」
「そっか……聞いてみようと思っていたけど、それはもう答えがあったんだね。じゃあ、やっぱり俺の読み方の問題なのかな」
あとは、と翔は更にページを捲った。
その部分はまだ亜里沙が読めていない部分だ。
「アマリア様は九年前の訪問以降、自分の体が病気がちなことを恨んでいたようだけど、ある日から突然それがなくなるんだ。その後はずっと、罪の意識で苦しんでいるような、そう読み取れることばかり書かれてある。まるで懺悔するみたいに」
「アマリア様が亡くなったのは三年前……この日記にはそこまでは書いてなさそうだね」
「13歳で亡くなったんだよね。読めた限りでは、書かれているのは11歳くらいまでかな」
別の日記に移ったのか、もう書けなかったのか。
これを託されたときのアストリドの様子から考えると、もう書けなくなってしまった可能性は高い。
亜里沙は頭を悩ませて唸った。
「それから最後の方もちょっと変なんだけど……」
翔はそう言って、日記をそっと閉じると、亜里沙に差し出す。
「まずは亜里沙ちゃんも読んでみて。その後、一緒にまた確認しよう。もし会えるならアストリド様と話してみてもいいかもしれない」
亜里沙が受け取ると、翔はふと日記を見て顔を曇らせた。
「本当は、その日記を読んだとき、少し……」
「ん?」
「……いや、これはこじつけに近いから、また後で話すよ」
問いただしたかったが、翔の体調を思えば引き下がるしかなかった。
亜里沙は「分かった」と小さく答えて話を終えた。
仮眠を取っている翔をソフィーに任せて、亜里沙は午前中のうちに、キーランとイザベラと共にラティファの宿に向かった。
祝祭から春祭りに渡って、ロナンとライアンは非常に忙しいらしく、今はどちらも屋敷を空けている。
この日はベンが来ていて、ベンと執事に事情を話して亜里沙たちは屋敷を出た。
難しいかと思いつつ護衛を断ると、あっさりベンが聞き入れてくれた。
このお屋敷ではたまに家令のような役割を引き受けることもあるというルイやベンはそれなりに発言権があるようで、執事も何も言わなかった。
念のためのマントは欠かせないが、あのブローチはソフィーに預け、この日は普通の留め具のものを身に纏った。
宿に向かうまでの間、多少ぎこちなくはあったが、キーランと他愛ない話をする。
あの日記に書かれていた当時のことを聞いてみたい気持ちもあったが、今はキーランなりに折り合いをつけようとしている時なのだと感じる。
これ以上負担をかけるのは憚られて、亜里沙は問いかけなかった。
「祭りの初日はアストリドと出かけるんだろ?」
「うん。キーランも来る?」
「いや、僕は遠慮するよ。最終日はパーシヴァルに城に呼ばれてるから、二日目に、アリサが良ければ一緒に行きたいかな」
「うん、分かった。そうしよう」
キーランが微笑むのを見て、亜里沙は安心した。
ラティファを訪ねると、まだ起きていなかったのか寝ているところだった。
部屋には通されたが、天蓋の薄い生地の向こうから眠そうに声を上げる。
「ごめんなさい、アリサ……昨夜寝るのが遅くなっちゃって。寝かせて……」
眠そうではあるが、昨日の件で落ち込んでいる様子はないようだ。
今日はあのほんのり漂うスパイシーな香りの代わりに、涼やかなハーブのような香りがする。
あのスパイシーは化粧品のものなのだろうか。
「そうだったんだ。そのまま寝てても良かったのに」
「だってせっかく来てくれたんだもの……」
その後は寝息が続いた。
外に芸人仲間や、宿の客を専属で護衛するものたちがいるとはいえ、無防備なのではないか。
念のため護衛にラティファのことをお願いして、亜里沙たちは宿を後にした。
そしてそのまま、何気なく広場を目指して歩き出す。
「貴族とか商人の娘が芸人になるなんて、他にもあること?」
「いや、ラティファ以外で聞いたことはないな」
キーランも同じくらい珍しい経歴だとは思うが、やはりラティファも相当珍しいようだ。
「今更だけど、ラティファって何の芸をするの?」
「聞いてないの? 他の芸人を手伝ったり、細かいことは色々やってるみたいだけど、ラティファ本人は踊り子だよ。毎年最終日に広場で踊るんだ」
「うん、そうだと思った」
あれだけ色気があるのだから、さぞ美しい舞が見られるだろう。人気が高いのも頷ける。
この後をどうするかキーランに聞かれた亜里沙は、王都へ行ってみたいと訴えた。
案外キーランもイザベラも受け入れてくれ、宿に引き返して宿から馬車を出してもらう。
王都に到着したのは午後だった。
祝祭の初日ほどはないが人で溢れている。
今回の目的は主に散策なので、昨日のように人々の間をこじ開けるのも気が引ける。門の手前、少し離れた位置で馬車から降りた亜里沙は、キーランとイザベラに挟まれるように移動した。
亜里沙もキーランもフードをかぶっているとは言え、キーランはもうトレードマークと言ってもいい、黒い服とマントなので目立っている。
ひそひそ声が耳に大きくなってきて、亜里沙は足を早めた。
人通りの少ない路地に入って足を止める。
「ごめん、多分僕が来訪者を護衛してるってみんな知ってるから」
「ううん、ちゃんと計画して来るべきだった」
見る限り悪意ある目ではなく、感じたのは以前のような好奇や何かを期待する眼差しだ。
襲われる心配はなさそうだが、こんな風に思いつきで出歩くべきではなかった。
「でもここまで来たんだから、聖王様にも伝わるかな?」
これでルチアの些細なお願いに応えた、としても良さそうな気もする。
「あの女に会いたいの?」
キーランの訝しげな問いかけに首を横に振る。
「どうしてもってわけじゃないけど、お願いされたから気になっちゃって」
「それなら、ひとまず大聖堂に行ってみる?」
「キーラン様、昨日の聖王猊下の発言もあります。今大聖堂に来訪者であるアリサ様が姿をお見せになると、面倒事が起こるかもしれません」
「うーん……じゃあ、近くまで行って様子を見てみようか? 僕に近寄ってくる度胸のある人間はそんなにいないだろう」
ニハイル砦でのあの女性を思い出すが、確かにキーランを見て怯える人々なら今までも目にしてきた。
少しでも危険を感じたら引き返すことにして、大聖堂の近くまで移動する。
イザベラの案内で人が少なく、かつ比較的安全な路地を歩く。
そうして見えてきた大聖堂は、その名の通り小さな城かと思えるほど大きかった。大きな円形の窓にステンドグラスがはまっていて、それは繊細で美しいのに、全体の威圧感は想像以上だ。
そしてこの大聖堂があるのは、亜里沙たちが遠征の時に通った広場のそばだった。
ホールのある広場よりは狭いが、あれほど人でごった返していないので十分広く感じる。
そしてこの大聖堂だ。あのとき、これの存在感に全く気づかなかった自分が信じられない。
もしかしたら見送ってくれていた人々の中にここの司祭たちもいたのだろうか。
路地と路地の交差する角で、亜里沙とイザベラが待つ。ひとりで様子を見てきたキーランは、戻ってくると首を横に振った。
キーランが背後を確認して、三人で目立たない方の路地へ少し入り込む。
「人が多すぎる。僕が行っただけでも騒がしかったから、アリサは行かない方がいいと思う。そんな格好をしてても、もしアリサだと知れたら面倒だよ」
実は少し中を見てみたかった亜里沙は残念だったが、そういうことならば仕方がない。
「うん、分かった。じゃあ、もう帰ろうか」
城が近いが、今行ったところでエドワードやアストリドには会えないだろう。
そうして亜里沙が歩き出したときだった。
「アリサさん」
瞬間、ゾッとした。名を呼ばれるよりもわずかに先に、頭上で空気を切るような鋭い音がして、同時に亜里沙は引っ張られた。
ぶつかるようにキーランに抱き寄せられて息が詰まる。
しかし亜里沙が何より気になったのは、聞き覚えのあるその気怠げな声。
キーランの片腕に動きを制限される中、何とか首を捻った先に、ヒューゴがいた。その喉元に短剣が突きつけられている。
そしてその短剣を持つ腕を目でたどると、キーランの、恐ろしいほど冷たい横顔が見えた。
「キーラン様。私ですよ。これを下げてくれませんか」
少し待ってもキーランは動かず、イザベラが声をかけてもヒューゴを睨んだまま。
亜里沙が名を呼ぶと、ようやく短剣を下ろした。
同時に腕から解放してもらえたが、手を引かれてキーランの後ろに立たされる。
そんな亜里沙とキーランを見てヒューゴは小さく嘲笑した。
「人を攻撃……しない、あなたが、わざわざ短剣を選んで振るうなんてね。脅しじゃないように思えるんですが」
その言い方は、まさかヒューゴも、キーランが人を攻撃できないのを知っているのだろうか。
怒りを感じた亜里沙が声を上げかけると、キーランがそれを制した。
「アリサ、こいつとは話すな」
「ちょっと……しばらく会わない間に、私への心象が悪化していませんか? それに、以前と比べて随分と攻撃的になっておいでだが」
「お前が悪いぞ、ヒューゴ。わざわざ気配を消して背後から近付くから。さっさと用件を言え」
「キーラン様が珍しく聖堂においでになって、何もせずに帰られたので気になっただけですよ。ですが」
ヒューゴは亜里沙を見て口の端を歪めた。
「せっかくアリサさんに会えたので、一つ頼み事をしましょうか。本来ならキーラン様の前では言いたくありませんが、最近の噂を聞く限りでは、邪魔されることもなさそうですし」
「……前からずっと言ってるよね。私に何を頼みたいの」
「アリサ」
「大丈夫だよ、キーラン」
そして亜里沙は、目を細めて不快な笑みを浮かべたヒューゴを見て、今の自分の発言をほんの少し後悔した。
だが既に遅く、ヒューゴはずっとこれを頼みたかったと前置きして、それを亜里沙に告げた。
「ロナン・マクベルド。この男の身辺を、アリサさんに探ってもらいたい」
「……え」
「ヒューゴ、アリサ様に何を」
「イザベラにできるなら最初からアリサさんには頼みませんよ。それに、今ならキーラン様にも頼めそうですが……恐らく奴は、あなた様には隙を見せないでしょうからね。ですので」
目を見開いてヒューゴを凝視する亜里沙に、ヒューゴは一層笑みを深めた。
「これは、最初からあなたにしか頼めないことだったんですよ。キョウコさんと同じ特徴を持つ、女性であるあなたにしか、ね」




