決意
その後、ルージェンは部屋の中にいた侍女たちひとりひとりを呼び、何やら短く言葉を交わしていた。それには当然のようにソフィーも呼ばれた。
帰ってきたソフィーを亜里沙は不安な思いで見つめる。
「大丈夫ですよ」
そばに来たソフィーが小さく言った。
「名前と家名をお尋ねでした」
「名前と、家名?」
「先に私の名を出され、間違いないかお尋ねになりました。他の者も同様でしょう。先ほどのことが外に漏れないようになさるのだと思います」
それはまるで脅しのように聞こえる。
亜里沙がブローチを持ち歩いたせいであんなことが起こってしまった。
侍女たちなら大丈夫だとは思うが、もし変な噂でも立って、エドワードに迷惑がかかってしまったら。
そう考えると、亜里沙はどこまでも落ち込むようだった。
ルージェンの隣に、ヤーラがソファに蹲るようにして、ずっとすすり泣いている。
ルージェンは、ヤーラには少しも構う様子はない。その美しい横顔はどこまでも静かで感情が見えない。
この婚約は王同士の話し合いで決まったというより、こういう人だからエドワードが選んだような、そんな気がしてくる。
亜里沙が再び落ち込むと、隣に座るアストリドがそっと囁いた。
「アリサ、何も気に病むな。アリサのせいじゃないぞ。ヤーラ王女はオルマの国王陛下に大層可愛がられているようだから」
「ありがとうございます……でも、私のせいです」
アストリドはそれ以上は肯定も否定も口にしなかった。
「あ、そうだ、文字の勉強はどうだ? 捗っているか?」
亜里沙はハッとしてアストリドを見た。
「手紙、ありがとうございました。すごく嬉しかったです。返事は、北方の文字で書きたくて、まだ」
「気にするな。そう思ってくれるだけで嬉しい」
その屈託ない笑顔に、強張った気持ちがほぐれていく。
「あの、アマリア様の……読みました」
日記と言っていいのか躊躇われて、曖昧になってしまったが、アストリドには伝わった。
「そ、そうか。どうだった?」
一層声を落とすアストリドに合わせて亜里沙もほとんど囁き声になった。
「まだあと少し残っているんですが、あれは、恋の詩だと思いました。切なくて、苦しくなるような」
「恋の詩……」
アストリドの表情に、ほんの少し落胆が浮かんで見えて、亜里沙は目を瞬いた。
「もしかして、違いましたか?」
「ああ、いや。私も、何となくそう思ったんだ。そうか、アリサも同じように読み解いたのだな。けれど、上手く言えないが、それだけではない気がして……」
アストリドは少しの間、迷うように考え込んだ。
「もうひとり、来訪者がいたな。確か、カケルだ。一緒に文字を勉強していると聞いているが」
「はい」
「カケルにも、あれを見せてもいいかもしれない。私たちとは別の視点から読み解いてくれるかも」
「えっ」
驚いて声が大きくなり、慌てて口を押さえる。
アストリドは亜里沙を窺うように見た。
「アリサだから託したいといった気持ちに偽りはないぞ。アリサなら、と今でも思っている。ただそれと別に、あれを渡せたのはアリサが来訪者だからだ。この世界の者ではなく、しがらみがないから」
どこか線引きをするような言い方だ。
アストリドはハッとして、慌てて首を横に振った。
「どうか悪く受け取らないで欲しい。アリサが私の大事な友であることに変わりない。信頼できると思ったからこそ託した。そして……カケルも、信頼できると思っている。アリサの友なのだから」
そこまで亜里沙を信じてくれるアストリドに、胸が詰まった亜里沙は咄嗟に返事ができなかった。
アストリドはそんな亜里沙の様子に微笑んだが、すぐにその目に憂いが宿る。
「あれを読んでから、後悔しない日はない。もっと耳を傾けてやれば良かった。自ら話そうとしないアマリアに、食い下がってでも。だからどうしても、アマリアが何を思っていたのか知りたいのだ」
「アストリド様……」
「カケルが読んでも私たちと同じ結論なら、それでいい。アリサから頼んでみてくれないか?」
もし亜里沙やアストリドがあの日記から受けた印象以外に、何か別の、アマリアの真意が込められているのだとしたら。
確かにそれは解き明かして受け止めてあげないといけない、と亜里沙は思った。
日記を読む限りアマリアは強い孤独感も抱えていた。だからこそ。
亜里沙が黙って頷くと、アストリドは安心したように微笑んだ。
それからしばらく、アストリドと他愛ない話をした。
泣いているうちに眠ってしまったらしいヤーラを連れて、ルージェンが先に部屋を出て行った。
優雅に挨拶されて、精一杯丁寧に返したが、最後まで惨めな気持ちは拭えなかった。
「ああ、肩が凝ったな」
ルージェンとヤーラが行ってしまうと、アストリドが盛大なため息と共にそう言い放った。
侍女が小さく「アストリド様!」と悲鳴を上げている。
「パーシヴァル様とエドワード様がいる城に私たちも滞在するわけだが、滞在中の心配なら無用だぞ」
アストリドは亜里沙にそっと耳打ちした。
「兄上には、王子同士ということで親交を深める席が用意されているから、頻繁に顔を合わせる機会があるが、私たち王女には婚約者とはいえこういった公の場と、晩餐での顔合わせくらいでしか会う機会はない」
アストリドの眼差しに、亜里沙への深い気遣いが見て取れる。
どうやらアストリドにも亜里沙の気持ちは知られてしまったようだ。
「そしてヤーラ王女には、その機会もほとんどないはずだ。それに私も目を光らせておくから心配ない」
心配ないのは、あくまでこの滞在中の話だ。
ルージェンがエドワードの婚約者である事実は変えられないし、いずれふたりは結婚する。
そして亜里沙はきっと、その頃にはもうこの世界にはいない。
亜里沙はアストリドなりの思いやりに、胸に痛みと温かさを同時に感じながら、小さくお礼を言った。
先に亜里沙がメイドから呼ばれ、ソフィーとイザベラと共にアストリドに挨拶する。
「アリサ、春祭りで会おう。初日にそちらに行けるはずだ。伯爵にはもう伝わっている頃だろう。詳細は後ほど伯爵に聞いてくれ」
「はい! 楽しみです」
アストリドは、うん、と満面の笑みで頷いて、亜里沙たちを見送ってくれた。
ホールの玄関まで戻ってきて目に入った人物に、亜里沙は息を呑んだ。
「エドワード様」
思わず呟く。
自分で思うより声が大きかったのだろうか。それなりに距離があるのに聞こえてしまったようで、エドワードが亜里沙を振り向いた。
しかし、先に亜里沙に声をかけたのはキーランだった。
「アリサ」
翔とロナンも気がついて、ついでに周りの騎士たちもこちらを見た。だがラティファの姿はない。
視線の多さに思わず足を止めると、エドワードが亜里沙に歩み寄ってくる。
亜里沙の視界の端にキーランの顔が曇るのが見えたが、キーランはそのまま目を逸らした。
しかしエドワードが目の前までやって来て、亜里沙がキーランを気にする間はなかった。
「何も問題はないか?」
一瞬、先ほどのヤーラとのトラブルが頭に浮かぶが、エドワードが気にしたのは亜里沙自身だった。
「話はルージェンから聞いている」
エドワードはそれ以上を口にしなかった。
つまり、亜里沙のことを心配してくれたのだ。
だがエドワードはあの騒動を、どこまで聞いたのだろうか。
表情を見ても、心配してくれているのが分かるだけで、そこから窺い知ることはできなかった。
「あ、大丈夫です……心配かけて、すみません」
亜里沙は何とか平静を装って答えた。
そうか、とエドワードが言って、話が終わりそうな気配を感じた亜里沙は、思い切って声を上げた。
「あの、私に何か、できることはありますか?」
唐突すぎたと自分でも思うが、力になりたいと直接伝えたかった。今を逃したらいつ会えるか分からない。
そしてエドワードは、亜里沙が言いたいことを汲み取ってくれたようだ。
少しの間考えるように目を伏せたエドワードは、亜里沙を見て、何かを言いかけた。しかし
「…………いや、いい」
亜里沙が食い下がる前に、エドワードは続けた。
「まだしばらくはマクベルドの屋敷で暮らすことになるだろうが、警戒を怠らないでくれ」
「……はい」
これ以上踏み込むなと言われているようで、意図せず声に落胆が滲む。
すると、エドワードが少し緊張した声色で「あ」と小さく言った。
「手紙を、また書いてくれるか?」
「え?」
亜里沙が目を丸くして見ると、エドワードの表情がどことなく落ち着かないように見える。
「僕もまた返事を書くから」
亜里沙は目を瞬いた。
やはり、エドワードは緊張しているように見える。
咄嗟に「分かりました」と返事をしたものの、嬉しいやら恥ずかしいやらで、亜里沙は自分の顔が熱を持つのを止められなかった。
そんな亜里沙を見て、エドワードはほんの少し困ったように、だが優しい笑みを浮かべると、「ではまた」と口にして騎士たちのところに戻った。
ロナンと短く言葉を交わし、騎士たちとホールの奥へと去って行く。
「私の後ろからおいでになってください」
いつまでも見送っていると、突然イザベラがそう言った。
イザベラは亜里沙の前に出て、ソフィーが亜里沙の横に寄り添う。
ホールの中なのにどうしたんだろう。するとソフィーがおずおずと教えてくれた。
「アリサ様、お顔が少し」
亜里沙はハッとした。確かにとんでもなく熱い。
これだけ熱ければ多分、この顔は今、不自然なくらい真っ赤なはずだ。
馬車へと移動中、イザベラがしばらく盾になってくれたお陰で、ソフィー以外は誰も亜里沙に声をかけてこなかった。
亜里沙は目深にかぶったフードの中で人目を気にすることなく顔を冷ますことができたのだった。
馬車に戻ってもラティファはいなかった。
帰りもルイと共に待ってくれていた馬車に乗る。
ラティファがいた席には代わりにロナンが乗った。
やっと冷静さを取り戻してきた亜里沙はロナンにラティファのことを尋ねた。
「第五王女殿下と揉めたことは聞いています。ラティファは先にナイグラードへ送り届けたので、心配はいりませんよ」
あの時垣間見たラティファの暗い一面が脳裏をよぎる。
「明日、ラティファのところに行ってもいい?」
「ええ、もちろん」
珍しくロナンはすんなり許可を出した。考えてみれば、ラティファが話してくれたルージェンとの関係は、ロナンなら知っていてもおかしくないだろう。
亜里沙はラティファを心配しつつ、窓の外の景色に目をやった。
ナイグラードに帰りついた頃、辺りはすっかり日も暮れようとしていた。
「今後のことについて話さないといけませんが、お疲れでしょうし、また後日に。食事は部屋に運ばせます」
「じゃあ僕ももう休むよ。おやすみ」
キーランはそう言って、亜里沙を見ずに階上へと歩いていく。
「おやすみ、キーラン」
「うん」
慌てて声をかけると、少し素っ気ないが、返事をしてくれたことにほっとする。
そして亜里沙もロナンの気遣いに感謝しつつ、部屋へと上がった。
食事が運ばれる前に、亜里沙は早速日記の件を翔に話した。
翔が見せたのは強い戸惑いだ。だが亜里沙とアストリドの想いを聞くと、日記を受け取ってくれる。
「亜里沙ちゃんはもう全部読んだの?」
「あ、まだなんだけど……三分の二くらいは読んだよ」
「……分かった。じゃあ俺もその辺りまでは急いで読むよ。違った見方ができるかは、保証できないけど」
「うん、それでもいい。ありがとう翔くん、お願いね」
翔の目にはまだ迷いが残るようだったが、亜里沙の言葉に頷いてくれた。
翌朝。
前日の疲れが若干残る体を体操でほぐして、支度を整えた亜里沙は廊下に出た。
ちょうど翔も部屋から出てきて挨拶を交わす。
「あれ? 翔くん、具合悪い?」
「え? いや……寝てないから、少し眠いかな」
そう答える翔の顔は血の気が引いたように白い。寝不足の顔にしては色が悪い気がする。
亜里沙がただ翔の顔を見ていると、翔は寝不足の理由を口にした。
「一晩中日記を読んでたんだ。それで」
そしてそう言いながら、翔の体が傾いた。
「あれ……」
「翔くん!」
そばにいた護衛が翔を支え、亜里沙が駆け寄る。
「ソフィー、食事は部屋で取るよ」
「かしこまりました」
ソフィーは顔中に心配を浮かべながら、ひとり階下へ向かう。
護衛とイザベラが交代し、翔の肩を支えて部屋へと入った。
「おかしいな……寝不足くらいで……」
翔が片方の手で目の辺りを覆って呟く。
その時、ひそやかな声がした。
『……カケル』
(ニーズ、起きたの?)
『アリサ、カケルに接触してくれ』
翔が亜里沙に顔を向ける。亜里沙はすぐに理解して、イザベラに支えられていない方から翔を抱きしめた。
「あ、亜里沙ちゃん」
翔の焦った声がする。イザベラは何も言わずに、亜里沙の邪魔にならないよう少し離れた。
すぐにニーズの力が流れ込む。
それを感じたのか、翔は息を呑んだ。
「……もう大丈夫みたいだ。目眩は止まったよ」
言葉とは裏腹な弱い声がそう言うのを聞いて、亜里沙は翔から離れた。
イザベラに支えられて、翔がベッドに腰掛ける。
「立ち上がる際はお呼びください」
「ありがとう」
イザベラがドアまで下がると、翔はため息を吐いた。
「ニーズ……もしかしたら、俺の体はもう」
『そんなことはない。アリサ、今後は定期的に今のようにカケルに接触してくれ』
「うん……分かった」
「でもそんなことして、帰れなくなったら」
『カケル、そうはならない。我の力も回復しつつある』
「だけどそのせいで帰れる日が遠のいたらどうするんだ?」
『そうはならない。多少は影響が出るかもしれないが、そうなっても数日程度だ。我を信じてくれ』
翔はしばらく返答に迷ったようだった。
やがて翔が小さく頷くと、ニーズの気配はまた遠のいた。
亜里沙はその間ニーズと共有される感情に集中していた。
迷いもなく言い切っていたニーズだが、そこから読み取れたのは根拠となる何かではなかった。
それは亜里沙が想像もつかないほどの強い決意。
ともすれば危うさを感じさせるほどの、決意だった。




