麻痺
応接室を出た後、エドワードは騎士たちを従えて、亜里沙と翔とイザベラはその後に続いて別の部屋に入った。
ここも厳格な雰囲気で、やはり家具が豪華だ。
もしかしてこのホールは、こんな部屋ばかりなのだろうか。
「ひとまず問題が一つ片付いたな。カケル、ご苦労だった」
三人で騎士たちから少し離れた場所に移動した後、エドワードがそう言った。
「いえ。お力添えいただきありがとうございます」
「どういうこと?」
亜里沙は翔に聞いたが、翔が言い淀むとエドワードが代わりに答えた。
「今回の聖王の訪問に際して、アリサについての要求が多く、それをどうかわすかが問題だった。トランティアで聖王が無理矢理アリサを連れ去ろうとした際、子孫を使って免れた。だが聖王の訪問も来訪者に会う行為も、我々では制限できない。来訪者に対して要求すること自体も、同様にだ」
一体何を要求されていたのだろう。
想像すると寒気がするようだ。
「この誓約書があれば、今後少しは安心して過ごせるだろう。何事も起きない間にあちらの世界に帰還できれば上々だ」
亜里沙を思って言ってくれているのは理解できても、エドワードの口から亜里沙が帰ることを望むような言葉を、聞きたくはない。
亜里沙は精一杯、その感情を出さないようした。
「だが万が一、お前たちを守るために聖王の手を借りることになったら……それはもう、聖王の死について悩む状況ではないということは、理解しておいてくれ」
亜里沙の顔が強張ると、エドワードは口調を和らげた。
「そんなことが起こらないように尽力する」
短い言葉でも、嬉しさが胸の内で膨らむのを感じた。
エドワードの一言で落胆したり歓喜したりと我ながら忙しい。
「あ、ありがとうございます……」
何とか口にした感謝の言葉は消えいるように小さくなってしまった。
そっとエドワードの目を見ると、エドワードの眼差しが亜里沙を捉えている。目を逸らされないだけでもこんなに嬉しいのだと、亜里沙は改めて思い知らされた。
ふと、エドワードの視線が移った。
思い違いかも知れないが、エドワードは一瞬亜里沙のマントを見たような気がする。
もしエドワードが、マントにあのブローチがついていないことを気にしたらどうしよう。
亜里沙はあたふたしながら巾着を握って引っ張ったが、これを見せたところで何だと言うのだ。
冷静な部分と、ずっと大事に持ち歩いているのだとエドワードに伝えたい気持ちとがせめぎ合う。
亜里沙が葛藤する間にエドワードは翔と図書館の利用について少し言葉を交わした。
そして迎えがあるまで待機するよう告げると、扉の近くにいる騎士たちの方へ去ってしまった。
「あっ」
「大丈夫?」
「う、うん。あの、翔くんもありがとうね」
巾着を握りしめて気持ちを落ち着ける。
翔はそんな亜里沙を心配そうに見た後、窓の外に顔を向けた。
「今後は王都も歩けるようになるだろうね。でも顔は隠しておく方が良さそうだ」
「うん……そうだね」
あの、異様な一体感を思い出すと悪い意味で鳥肌が立つ。
「感覚が麻痺しているんじゃない……意図的に、麻痺させているんだ」
「え?」
翔は亜里沙を振り向いて声を落とした。
「来訪者の存在が当然のようにこの世界の仕組みに組み込まれているよね。エドワード様はそれがなくなることを危惧しているのに、大半の人は疑いもしていない。恐らく国の上に立つ限られた人たちによって、そう導かれているんだ」
以前にも似たような話をした。が、翔は今、あれよりも確信を持って話している。
そして亜里沙も、あの異様な空気の中にいたからか、今ならよく分かる気がした。
この世界は、何かがおかしい。
いつかキーランから秘密の議会があって、そこで何かが話し合われていると聞いたことを思い出す。
これを共有することに後ろめたさを感じ、周囲を気にしながら翔に話すと、翔は難しい顔になった。
「それは俺も、聞いたよ」
「エドワード様に?」
一瞬躊躇して、翔は続けた。
「いや、ロナンさんにだよ」
「え? でもロナンは、その場に呼ばれる人だよね」
「詳細を話してくれたわけじゃない。その話を聞いたのは図書館での調べ物について質問されたときだ。俺がしていることは、王の耳にも当然入っているとも言われた。多分あれは……脅しだったよ」
「え……」
「俺が、俺たちが何を知ったとしても、これまで通り、必要以上にこの世界に関わらずにいるなら問題はないはずだ。俺の調べ物の目的は邪魔されずに帰ることで、詳しく話してはいないけど、それはロナンさんにも伝えたから」
亜里沙が何も言えずにいると、翔はハッとした。
「でも、ロナンさん自身はエドワード様と同じ理想を持っているみたいだし、俺たちを守ろうとしてくれてるし」
「う、うん、そうだね……」
それきり会話が途切れて、亜里沙と翔は指示があるまで黙ったまま待機した。
それから少しして、ひとりの侍女がこの部屋を訪ね、亜里沙とイザベラだけが呼ばれた。
翔に「後でね」と伝え、エドワードに挨拶をして、部屋を出る。
亜里沙を案内する侍女のその装いは、アストリドの侍女アンナとよく似ている。
彼女も恐らくアストリドに仕える人なのだろう。
途中でソフィーとラティファも呼ばれ、亜里沙と合流した。
「アリサ!」
特に厳重に警備された大きな両扉をくぐると通路が続いた。この通路にはいくつか扉があり、その一番奥の部屋に通される。
厳格さはなりを潜め、繊細な調度品で飾られた居間のようなその部屋に、アストリドがいた。
嬉しそうな声を上げて駆け寄ってきたアストリドを、侍女が慌てて嗜める。
亜里沙は構わずアストリドを抱き留めようとして、奥に誰かいることに気づいて踏みとどまった。
侍女らしき人なら数人いるが、そんな立場ではない、明らかに高貴な人の存在に気がついたのだ。
アストリドは亜里沙の目の前で足を止め、満面の笑みだ。
そして亜里沙の視線に気づくと、後ろを振り返る。
「ああ、ヤーラ王女だ」
ラティファやルージェンと同じ髪と肌の色に、薄茶の瞳の小柄な少女。
それは、オルマの第四王女だった。
「来訪者? アリサっていうのね」
人懐こい声でヤーラは亜里沙に歩み寄った。
鮮やかな緑に金糸で刺繍が施された、露出がほとんどない美しい衣装だ。
アクセサリーを沢山身につけていて、アストリドと並ぶと対照的に見える。
「私とも仲良くして! あっちで話しましょう」
亜里沙の後ろから、ラティファの小さな声が「ああ」と呻く。その不穏な響きがとても気になるが、ヤーラは亜里沙の腕を引っ張って奥に連れて行こうとしている。
「あ、あの」
「ヤーラ王女、アリサが困っているだろう」
アストリドが厳しめに言うが、ヤーラは口を尖らせてアストリドを睨む。
「独り占めしようとしても駄目よ! アリサは私とおしゃべりするの」
先ほどバルコニーで見かけて抱いた印象よりも更に幼い振る舞いに、唖然とする。
ソフィーが心配そうに寄ってきたとき、もうひとりの王女が部屋を訪れた。
「何の騒ぎなの? ヤーラ」
ルージェンだ。一瞬、ラティファが喋ったかと思うくらいに声も似ている。
振り向いた亜里沙は何の感情も読み取れない顔でこちらを見るルージェンをつい凝視してしまった。
亜里沙の視線に気づいたルージェンがほんの少し顔を傾けると、そばに控えていた侍女が低姿勢で亜里沙に声をかけた。
「来訪者様、王女殿下をそのように凝視なさってはいけません」
亜里沙は我に返って目を落とし、謝った。
そっと見ると、他の侍女よりもずっと年上のこの侍女は、どこかラティファやルージェンと顔立ちが似ている。
ヤーラは口をつぐんだが、相変わらず亜里沙の腕を引っ張ったままだ。
ルージェンはヤーラのその行動に言及するよりも、先にラティファを見ると、侍女を振り向いた。
「ヨハラ。部屋を間違えたのかしら」
そして、イザベラにも目を向ける。
「ここは厳重に守られているから侍女だけ連れていればゆっくり休めると聞いていたのだけど。まさか平民が立ち入れるなんて」
おっとりとした物言いに似つかわしくない、冷たい言葉を聞いた亜里沙は思わずラティファの様子を確認した。
異父妹でもあり王女でもあるルージェンを、ラティファはただ睨んでいる。
するとイザベラが姿勢を正して恭しく礼をした。
「事情があり、このような格好で失礼をいたしました。イザベラ・ランドストルと申します」
「あら、あなたがランドストル卿なの」
微笑みを浮かべたルージェンの声が柔らかくなった。
「来訪者様の身の安全のために優先すべきことがあるのでしょう。私こそ無礼だったわ」
高貴な人らしく優雅に謝罪して、だが、ルージェンはラティファのことは許さなかった。
「あなたは本来ここにいてはいけないのよ。出ていきなさい」
「あたしも一応貴族なんですけどね。それにロナンだって出入りしてるわよ」
ルージェンがほんの少し冷たい目をして、「ああ」と呟く。
「マクベルド伯爵? 彼はそうね、オルマの者ではないし、どうこう言えないわ。でもあなたはオルマの者でしょう? 違うのかしら」
「同じ国にいることは認めているわけね。知らなかった」
ラティファが挑発するように言うと、ルージェンの顔に僅かに嫌悪が浮かんだような気がする。
「あなたたちのような商人が、私たち王族や貴族、来訪者様を支えているのは知っているわ。だけどあなたたちは、その強欲さも野心もとどまるところを知らない。私にそんな口をきいて、このような場に平気で立ち入れると思い違いを起こすなんて。恥ずべきだと思わない?」
「あ、あの……!」
聞いてきた限り、自分には特権があるはずだ。居た堪れなくなった亜里沙はラティファを助けようと口を開いた。
ハッとしたラティファは慌てて亜里沙の手を引いて止める。
「いいの。そろそろ外に出たかったし。また後で合流しましょう」
早口に言って、ラティファは部屋を出た。そしてその際、ルージェンにぶつかるようにしてラティファは部屋を横切った。
急いでいたからだろうか。だとしてもそれはまずい、と亜里沙が肝を冷やすと、ヨハラが声を上げた。
「ラティファ……!」
ルージェンが静かに息を吐いてぶつかられた肩にそっと手を置く。
「何て野蛮なの……いいのよ、ヨハラ。お前に免じて今回だけ許してあげる。他国にまで来て騒ぎを起こしたくないわ。他の者も、今見たことは忘れてちょうだい」
そう言って微笑むと、ルージェンは部屋の奥へ行って、ゆったりとしたソファに腰を下ろした。
そして、ああ、と声を上げる。
「来訪者様。王族に対して滅多な要求をしない方がいいわよ。ただでさえ噂の件で苦労したはず。この上、来訪者様は傲慢だ、などと吹聴されたくはないでしょう。これについてはあの者が賢明だったわね」
言い終わると亜里沙から目線を外し、ヨハラを呼んで何かを命じる。
亜里沙は開いた口が塞がらない思いだった。
この、全てが優雅な王女を見ていると何故か惨めな気持ちがじわじわと迫り上がってくる。
「あ……ねえ、気にしないで。私と遊びましょう」
亜里沙と同じく途中から呆然としていたのだろうか。突然明るい声がして、亜里沙はいまだにヤーラから片腕を掴まれたままだったことを思い出した。
ぐいっと引っ張られてバランスを崩す。
そして、亜里沙ではなく、腰に下げていた巾着がその被害にあった。
あろうことかヤーラの足元に落ちたのだ。
さっき握りしめたせいだろうか、紐が緩んでしまったようだ。
亜里沙だけではなくソフィーと、アストリドの侍女が反応した。
だが先にそれを拾ったのはヤーラだった。
「なあに? 可愛いわね」
そしてヤーラは拾い上げた巾着から、ブローチを取り出してしまった。
「綺麗……ソルサニアね!」
一瞬、言葉が出なかった。
強い衝撃が心臓を打って、それでも必死で口を開いたとき、ヤーラは無邪気な笑顔を亜里沙に向けた。
「これを私にちょうだい。代わりにほら、これをあげる」
ヤーラの侍女らしき少女が寄ってきたが、何も言えずにおろおろしている。
ヤーラは自分の腕輪を外してそれを亜里沙に差し出す。
とても高価そうな宝石が沢山ついた、煌びやかな腕輪だ。だがそんなもの、亜里沙にとっては何の価値もない。
「だ、だめ……あの、返して。それを返してください」
「どうして? この腕輪の方が価値があるのが分からないの?」
ヤーラの顔つきが鋭くなる。
「ヤーラ王女、それをアリサに返しなさい」
アストリドが語気を強めて叱りつけるが、ヤーラはますます不機嫌になった。
「いやよ、私はこれが気に入ったの! だってソルサニアなんだもの」
それが意味していることが、こんなときだからか、嫌というほど理解できてしまう。
ソルサニアは、亜里沙やヤーラにとっては特別な意味がある。ヤーラはやはり、エドワードを慕っているのだ。
亜里沙はルージェンに期待して目を走らせたが、ルージェンはただ黙って状況を眺めている。その冷たい視線を受けた亜里沙はカッとした。
一瞬でもエドワードの婚約者に頼ろうとしたことが恥ずかしい。
亜里沙は手を差し出して、もう一度ヤーラに言った。
「それは私のものです。大事なものなんです。返してください」
ヤーラの顔に興奮で強い赤みがさす。もう引っ込みがつかないのだろう。
「いや!」
その悪魔のような振る舞いに亜里沙が激しい動悸を感じ始めた時、ソフィーが口を出した。
「殿下。それと全く同じものをマクベルド伯爵がご用意いたします。後日必ず届けに参りますので、どうかそれはアリサ様にお返しください」
亜里沙は驚いてソフィーを見た。これはエドワードが自ら作らせたものなので、全く同じものを作らせることなどできないのではないか。
だがソフィーの顔を見た亜里沙は、腑に落ちた。似たものを用意してでも取り返そうとしてくれているのだ。
「え」
ヤーラが目を丸くして、その愛らしい顔から険しさが消える。
しかしまだ迷うようで、ヤーラが考え込むと、ここまで黙っていたルージェンが口を出した。
「伯爵がそこまでなさるのなら、これ以上わがままを言ってはいけないわ。ヤーラ、それを返してあげて」
そう言われて、渋々ブローチを差し出そうとしたヤーラはふと手を止めた。
亜里沙がほっとしたのも束の間、ヤーラが訝しげに亜里沙を睨む。
「……待って、どうしてそこまでこれにこだわるの? 伯爵が用意するなら、これを私にくれても問題ないでしょ?」
恋をすると、その相手については勘が鋭くなるのだろうか。
「まさかこれ、エドワード様にもらったの?」
泣きそうな、亜里沙を責めるような幼い口調でヤーラが叫んだ。
「エドワード様は本当は私を好きなのよ! なのに何でルージェンも来訪者もエドワード様を横取りしようとするの!」
亜里沙は驚きのあまり、ただヤーラに見入った。
「ヤーラ王女」
アストリドが焦ったように声をかけるが、ヤーラはとうとう涙ぐんでブローチを両手に包んでしまった。
亜里沙の頭が真っ白になりかけたとき、ソファから立ち上がったルージェンがこちらにやってきた。
そして、侍女が声をかける間もなく、乾いた音が部屋中に鳴り響く。
頬を叩かれたヤーラがぽかんとしてルージェンを見上げる。
「恥を晒さないでちょうだい、ヤーラ」
そして奪い取るようにブローチを手にすると、それを亜里沙に返してくれた。
だが亜里沙がブローチに触れたとき、ルージェンがその手を上から包むように押さえ、ほんの少し顔が寄せられる。
この状況にそぐわない、涼やかな香りがして、何故か一層惨めさを感じた。
「あなたも、そんなに大事なものなら持ち歩かないことよ。それから……現実を見た方がいいわ」
それ以上の言葉はなかった。
だが言外に、亜里沙の想いが成就することはないのだと、そう突きつけられた。
(そんなこと分かってる……!)
ルージェンはすぐに手を離してくれたが、亜里沙は悔しさが全身を縛りつけるようで、しばらくその場を動けなかった。




