友
自分の気持ちを強く自覚してしまうと、奥底から押し寄せるように絶望的な感情が亜里沙を襲った。
『カケル、アリサと話せ』
焦りを含んだ声でニーズが吠えるように言った。
亜里沙がハッと翔を見ると、翔は一瞬眉を顰めたが、何かを察したのか立ち上がる。
「ソフィー、これ、お願いできる?」
翔がテーブルにばらけた封蝋を指すと、ソフィーが頷く。
「お任せください。お話をされるのですか?」
「うん」
翔がイザベラを見ると、イザベラは亜里沙に声をかけて手を取った。
亜里沙は抵抗なく、翔とイザベラに付き添われるように部屋へと向かう。
亜里沙の部屋に入り、イザベラがドアの近くに立ったのを見て、翔はテーブルに亜里沙を促した。
ふたりで対面して座り、翔はまずニーズに声をかけた。
「それで、俺たちは何を話せばいいの?」
『帰る時のことを、詳しく話していなかった。どのようにあちらの世界に戻るのか、それを話しておきたい』
亜里沙の肩が揺れる。翔の視線を感じるが、翔への申し訳なさで目を合わせられそうにない。
『入り口を開く時が来たら、その後我はアリサの中に入ったままお前たちとあの空間を渡る。カケルは恐らく今のままでもあの空間を渡れるが、大きく消耗するはずだ。だからあの世界に渡った後、カケルの中の我の魂の破片を強化する。そして回復を待ち、アリサの中から出て帰還する』
亜里沙は目を見開いた。
「そんな……それじゃ……」
翔だけを帰すわけにはいかないと、今、ニーズからそう釘を刺されたのだ。
翔は亜里沙の呟きを聞いて、おもむろに口を開いた。
「亜里沙ちゃん……まさか、帰りたくないの?」
その低い声に思わず翔を見る。
亜里沙を気遣ういつもの優しさの中に、微かな苛立ちが見える。
「……だって」
「エドワード様を好きになったから?」
翔には知られるだろうと思っていた。だがそうはっきりと指摘されて亜里沙は息を呑む。
咄嗟に顔を伏せると、重く静かなため息が聞こえて、亜里沙は顔をしかめた。
「翔くんは、平気なの……? そんなに、ここの人たちが嫌い?」
翔を責めるつもりはなかった。だが混乱した亜里沙の口からは信じられないほど無神経な言葉が飛び出した。
「そんなにこの世界が嫌い? どうしていつも、自分には関係ないみたいに線引きしていられるの? だって、こんなに沢山関わったのに、何でそんなに冷静で、誰のことも好きにならずにいられるの?」
言ってしまった後、顔面から血の気が引いたのも、体が震え出したのも、亜里沙だった。
翔に目を向けるが、翔はほんの少し曇った表情のまま、ただ黙って亜里沙を見つめている。
「ご、ごめ……っ」
「俺にだって、好きだと思う人はいるよ」
一度テーブルの上に目を落とし、だがそこではない何かを見るようにした後、翔は再び亜里沙を見つめた。
その目の奥に、強い意思があって亜里沙を怯ませる。
「それでも俺は、亜里沙ちゃん、きみを選ぶ」
「え……」
「俺はきみと帰りたい。俺たちがいるべき世界はここじゃないから」
翔は亜里沙に左手を差し出した。
「だから亜里沙ちゃんにも俺を選んで欲しい。帰ろう、俺と一緒に」
亜里沙は差し出された翔の手に見入った。
翔が「帰れない」と言ったあの時のことが、亜里沙の脳裏に浮かぶ。
いつまでも手を取らない亜里沙に、翔は一瞬迷うようにした後、こう告げた。
「エドワード様は俺たちが帰れるように、ずっと力を尽くしてくれてる。亜里沙ちゃんがここに残る選択をしても、彼は喜ばないと思う」
亜里沙の目が自然と見開かれる。
強い痛みが胸を貫いて、目から涙が溢れた。
亜里沙は翔の手に右手を重ねた。
翔の言う通りだと思った。そしてそういう人だからこそ好きになったのだと気付いて、亜里沙は気の迷いを封じるように翔の手を強く握る。
それと同時にニーズが安堵する気配を感じた。
翔は何も言わなかったが、亜里沙が泣き止むまで手を握っていてくれた。
しばらくして、翔に吐いた言葉が許せずいつまでも亜里沙がくよくよして、翔が途方に暮れだした頃。
ロナンが亜里沙の部屋を訪ねてきた。
亜里沙は浮かれてロナンに気持ちを傾け過ぎていた自分が恥ずかしく、気まずくて仕方がない。
そんな亜里沙のために、翔が代わってロナンと話してくれた。
何を話したのかは分からないが、ロナンは翔の話に納得したのか、亜里沙の顔も見ずにあっさり去ってしまった。
この後は、亜里沙は部屋に引きこもり、翔とソフィーに甘えるように過ごした。
寝る間際まで翔がそばにいてくれて、寝る時はソフィーにお願いして久しぶりに一緒にベッドに入った。
翌朝。
ソフィーに起こされた亜里沙は、頭のもやを晴らすために気合を入れて体操に取り組んだ。
『……アリサ』
心配そうな声が聞こえる。亜里沙の気持ちが落ち着いているのは分かっても、不安なのだろう。
(もう大丈夫だよ。また迷ったり落ち込んだりパニックになったりして翔くんとニーズを困らせるかもだけど……その時はまた手を貸してね)
すると、分かった、と小さく呟いて、ニーズの声は遠のいた。
ロナンとどう顔を合わせるべきか悩んだが、ホールで挨拶を交わしてみると案外普通に接することができる。
ロナンは昨日のことを聞いてこないし、やはり冷静になった今考えてみても、一緒にいて過ごしやすい人であるのは変わらないようだ。
そしてこの日、キーランが帰ってきた。
翔が王城に出かけた後、入れ違いでやってきた王家の馬車を出迎える。
馬車から降りたキーランは亜里沙を見て緊張したようだった。
翔がよくキーランと話していると言っていたので、もしかしたら翔は亜里沙との事について言及したかも知れない。
何か言いたそうにして目を伏せるキーランを見る限り、恐らくその予想は正しいだろう。
ホールに入った後、無言でどこかへ行こうとするキーランをロナンが呼び止めた。
「聞いていると思いますが、私とアリサさんはそういう仲なので、今後はアリサさんへの振る舞いを改めてくださいね」
ロナンを見るキーランの顔にはっきりとした怒りが表れる。
ホールにいるのは亜里沙たちだけではない。少し離れた位置で心配そうに見守るソフィーとイザベラはもちろん、他にも屋敷で働く人々がいる。
だがそんなことを気にしていられないほど険悪な空気に包まれる。
キーランは亜里沙に近寄ると、そっと顔を寄せた。
「キーラン」
ロナンの声を無視して、キーランが亜里沙に囁く。
「……本当に? こいつとそういう仲?」
亜里沙はほんの少し考えたが、ここはロナンの話に乗った方がいい気がする。
「そうだよ」
随分弱々しい声になってしまったが、亜里沙は肯定した。キーランは亜里沙の目を見つめて、眉を寄せた。
「こんなやつと……」
ロナンがため息を吐いた。
「こんなやつ、は言葉が過ぎるでしょう」
だがキーランはロナンには目もくれず、亜里沙をじっと見ている。一度言っただけでは納得してくれないようだ。
「ロナンの言う通りだよ。だからもうキーランの気持ちには応えられない」
キーランの目が見開かれる。
傷付けた事が分かっても、手を伸ばしてあげられない事実が思った以上に辛い。何故こんなにもキーランを放っておけないのだろうか。
亜里沙が自分の気持ちに戸惑いながら葛藤している間に、キーランは今度こそ無言で去ってしまった。
「あ……」
しばらく足が床に張り付いたように動かなかった。
だがあの方角は恐らく中庭だ。
追おうと決めると足が動いた。
そうして一歩踏み出した時、ロナンの腕が回って、亜里沙はまるで後ろから抱きしめられるような格好になった。
本当に抱きしめられたわけではなく、ただ止められただけなのだとすぐに理解できる。
だが、わざわざこんな風にしなくても方法はあったはずだ。
「ロナン」
後ろを振り向く。見上げると、ロナンが目を細めた。
「いつの間にか、この程度の接触なら許してくれるようになったんですね」
確かに、不思議と不快感もなければ拒絶したい気持ちもないのだが流石に心臓に悪い。
「離して」
「離して、そして他の男のもとへ行かせろと?」
「そういう言い方しないでよ。キーランをこのままにできない。ちゃんと話せば分かるんだから」
亜里沙はロナンの目をじっと見た。
穏やかに見えても、その表情が「面白くない」と訴えている。
だがロナンは亜里沙を解放した。
「……気をつけてください」
「大丈夫だよ」
亜里沙が根拠もなく言っているからか、ロナンは呆れたように小さくため息を吐いた。
イザベラだけを伴って中庭に出ると、やはりキーランは噴水に腰掛けて項垂れていた。イザベラに目配せして、少し離れた位置で止まってもらう。
また噴水の音に耳を傾けているのだろうか。
「キーラン」
声をかけて隣に座る。
キーランは目を開けて亜里沙を見たが、ふいと逸らしてしまった。
何をどう言うべきか迷っていると、先にキーランが口を開いた。
「アリサは誰ともどうにもならないって言っただろ」
「それは……そのつもりだったよ……」
「でもロナンを好きになった? じゃあエドワードは? そもそもアリサは、僕を好きだったんじゃないのか?」
亜里沙は目を丸くして、捲し立てたキーランを見た。
「まだ、気持ちが追いついていないだけだと思ってたのに……」
苦しそうに吐露される言葉に、亜里沙も苦しさを覚える。
亜里沙のキーランに対する振る舞いが、そういう風に誤解させてしまったのだ。
「でも……私は帰るんだし、誰ともどうにもならないよ」
改めて亜里沙は言った。
「え?」
キーランが咎めるように聞き返す。
キーラン相手に嘘を吐こうとしたのが間違いだった。そんな事をしなくても、亜里沙が話せばちゃんと聞いてくれるのだから。
「……ロナンが言ったあれは、私がちゃんと帰れるように協力するっていう、そういう関係で、恋人とかそんなんじゃないの」
キーランを見ると、訝しげな目が亜里沙を見つめている。
「私は……私が好きなのは、エドワード様だよ」
表情が大きく変わったわけではない。だがその射抜くような視線から思わず身震いするような怒りが伝わってくる。
「……じゃあ、どうして僕を気にかけるような事をした?」
やはりそれも、誤解させた原因の一つなのだ。
「だって……友だちだからでしょ……そういう好きじゃなくても、好きだし、助けたいよ。それは相手を友だちだと思うからじゃないの?」
自信がなくて問いかける形になってしまった。
キーランは考えるように目を伏せた後、「友」と苦々しく呟く。
しばらくして、亜里沙を睨んだキーランの瞳には、それでもまだ亜里沙に縋り付く感情が映し出されているようだった。
「僕はアリサが好きだ。触りたいし、そばにいたい。僕がそばにいられないのなら他の誰にも渡したくない。だから、アリサとは友だちにはなれない」
そう言ったキーランが距離を詰めるように亜里沙の方に身を乗り出して、亜里沙は反射的に身を引いた。
我に返るも、遅かった。亜里沙の行動に、キーランの眉が悲しげに寄せられる。
「……アリサは、嘘を吐いたし無責任だし自分勝手だ」
目を見開いて固まる亜里沙を見つめて、キーランは「でも」と呟く。
「きみが言いたいことは分かった……少し考えたいから、ひとりにしてくれ……」
そう言ったキーランは再び項垂れた。
キーランにはっきりと拒絶されて、予想していなかった展開に大きくショックを受ける。
これでは自分勝手と言われても反論できない。
亜里沙は、もう目を合わせてくれないキーランにかける言葉もなく、そのまま中庭から立ち去った。
結局その日は、その後キーランと顔を合わせることはなかった。
正確に言うと、キーランを見かけても亜里沙が近付く前にその場を去ってしまうのだ。
食事の席にもおらず、ロナンに尋ねると、しばらく放っておけ、と返ってきただけだった。
夕刻になって帰ってきた翔はキーランとの間に問題はなかったか気にしてくれたが、これ以上翔に迷惑はかけられない。
亜里沙は覚悟を決めて、キーランをしばらく放置することにした。
だが、キーランは亜里沙の覚悟と予想に反して、翌日には拍子抜けするほど普通に亜里沙の目の前に現れた。
沈んだ面持ちで亜里沙に挨拶をして、重たい空気の中朝食が始まる。あれ以来変化したメニューは、こんな日でも亜里沙の口と胃に優しく美味しかった。
朝食後、キーランは亜里沙を呼び止めた。
ダイニングルームからイザベラ以外の他の人々が退出するまで待って、キーランは口を開いた。
「アリサは、帰るんだよな?」
「うん……」
答えると、その瞳に一瞬影が差す。
「……本当に誰ともそういう関係にならない?」
「なれるわけないでしょ……エドワード様は王子様だし、婚約者だっているんだから」
「ロナンとは?」
「だから、それは違うんだってば」
たっぷりの沈黙の後、キーランは「分かった」と呟いた。
「アリサが無事でいる方がいいし、友だちは嫌だけど……嫌われるよりはましだから」
まるで自分に言い聞かせているような口調だ。
そうは言いつつ目を伏せて沈んだ表情のまま。
だが、内心ではそう簡単に割り切れなくても、その態度を示そうとしてくれたことは素直にありがたく、亜里沙は安堵する思いだった。
そして同時に、何故だかとても悲しかった。
いつの間にか亜里沙は心のどこかで、キーランのことは自分がずっと手を貸して助けないといけないと、使命感のようなものを抱えていたのだ。
キーランが、まるで使命のように亜里沙を守ると言っていたように。
亜里沙はおずおずとキーランに右手を差し出す。
訝しげに目を上げたキーランに、ぎこちなく笑いかけた。
「仲直りしたいなって……友だちだから」
これ以上キーランにしてあげられることはない、そう自分に言い聞かせながら。
キーランは亜里沙の手を見て、そして自分の右手でそっと握った。
手を取り合って、キーランが亜里沙に見せてくれたその微笑みは、亜里沙と同じでどことなくぎこちなかった。




