変化
部屋に戻って寝る支度を整える。
ふとルキウスが明日の朝にはしおれてしまうことを思い出した。
「ねえ、もう一度ルキウスを見に行ける?」
「ルキウスの見頃は咲いた直後です」
ソフィーが申し訳なさそうに言った。
「夜には色がくすみ、寂しい見た目になってしまうんです。ですので庭師がもう手を入れていることでしょう」
「そうなんだ……残念」
ソフィーは少し考えた後、何故か心配そうに眉尻を下げた。
「アリサ様、やはり旦那様は本気でいらっしゃるようです」
「え?」
「鑑賞には旦那様の許可が必要だとお話ししましたよね? 旦那様はいつもならすぐに許可を出してくださいます。でも今日は、恐らくアリサ様に一番に見せて差し上げたかったのだと思います」
ソフィーは思いのほか深刻な顔だ。
「ソルサニアやルキウスは女性に人気の花なので、意中の女性に想いを伝えるのに使われます。旦那様はそれを、一番にアリサ様にお見せになったのですから」
それを聞いたアリサが真っ先に思い浮かべたのは、エドワードから貰ったソルサニアのブローチだ。
一瞬浮かれそうになったが、あれは亜里沙のために用意されたものではなかったと冷静な自分が即座に突っ込んで、気落ちした。
頭を振って、気を取り直す。
「大丈夫だよ、流されないようにすればいいし。何よりロナンは、帰ることには協力的だから」
それこそ嫌になるほど、協力的だ。
ソフィーは難しい顔で考え込んだが、しばらくして小さく頷いた。
「ええ……そうですね」
軽く流してはいけない気がしながら、正直に言うと今は、これ以上頭を悩ませたくなかった。
一週間が経過した。この間、様々なことが変化した。
一日目。ルキウスを鑑賞した翌日の朝食でのこと。
「ん、美味しい」
いつも美味しいが、この日は亜里沙が好む味付けで更に美味しく感じた。少し疲れていたが口に入りやすく、手が進む。
良かった、と微笑んだロナンは平然と言い放った。
「アリサさんはこういう味付けがお好きかと思って」
それは翔が驚いた顔で亜里沙を見るくらい、特別に優しく感じられる物言いだった。
お陰で亜里沙は、不意に高鳴る自分の胸に「動揺するな」と言い聞かせる羽目になった。
「アリサさん、この後のご予定は?」
朝食後にロナンに呼び止められて、身構える。
「き、今日は都合が悪くて。ひとりで文字の勉強がしたい」
しかしロナンは気にした様子もない。
「それでは気分を変えて温室で勉強するのはいかがでしょう。もちろん、おひとりで」
今日は体が重いし温室では眠くなる、と思いつつ、勧められた一角に向かう。
そこはすっきりとしたハーブの香りが爽やかな空間で、眠いどころか目が冴え勉強に対する意欲が湧いた。
小腹が空いた頃、ソフィーが菓子を用意しに屋敷に戻ったが、思ったより早く温室に帰ってきた。
変わった焼き菓子を持って、何故か心配そうな表情だ。
「何これ美味しい!」
出来たてなのか温かく、程よく甘い。どことなくミントのような風味がある。
重たい眠気がどこかへ飛ぶようだった。
「旦那様がご用意くださいました。旦那様の指示でアリサ様のために特別に作られたものだそうです」
「え」
まさかこれらは、亜里沙の体調を気遣ってのことなのか。
徹底していて少し怖い。しかも心地良く感じてしまうのだから、どうしようもない。
昼食後、再び予定を聞かれた亜里沙は、ラティファに会いに行きたいと口にした。
「アリサさんがお望みなら、仕方がないですね」
そうして許可が降り、宿へと向かう。
メイブはもう王都へ帰っていたが、ラティファは歓迎してくれて、亜里沙は彼女の着せ替え人形と化した。
デコルテが大きく開いたものや、上と下が分離して鳩尾からへその下までぽっかり空いたような服。
不恰好ではないが似合わず、惨めな気持ちになる。
だがまた来てと言われれば、断る選択肢はない。
二日目。
この日も格別に美味しい朝食の後、翔がエドワードから手紙を受け取った。図書館を利用する許可が下りたのだ。
そして早速この日から、翔は毎日、朝から王城へ通うこととなった。
しばらくは必要ないと言われたのに、真面目な翔は夜にロナンの手伝いをするようだ。
亜里沙はというとロナンに予定を聞かれて、またひとりで勉強と答えた。
「そうですか。では今日は屋敷の中でどうぞ。執務室に来ていただいてもいいですけど」
「ううん。ガゼボでやる」
寒くなるというロナンの言葉を無視してガゼボに向かった亜里沙は後悔した。
降るほどではないが空が暗く、肌寒い。
ソフィーが用意した膝掛けだけでは足りない気がする。
ソフィーは何か温かいものを、と屋敷に戻り、そして思ったより早くガゼボに帰って来た。
「旦那様からです。アリサ様のためにご用意なさったようです」
デジャヴだろうか。
ロナンが用意させたという飲み物は美味しい上に飲むと体が温まり、刺繍が美しい膝掛けは段違いに保温性に優れていた。
ものすごく心地良いし、悔しいがこの気遣いが嬉しい。
居た堪れなかった亜里沙は、この日の午後もラティファの元へ向かった。
夕刻には翔が帰ってきた。
そして嬉しい知らせを亜里沙に持ってきてくれた。
一つはキーランで、手の傷はほぼ回復し、疲労は見られるものの、心配したほどの不安定さはなかった。数日で屋敷に帰ってくるようだ。
もう一つはエドワードで、亜里沙への手紙を翔に預けてくれたのだ。
中身はいたってシンプルで、砦の事件の後、亜里沙の体調を気遣うものと、警戒を促す内容だ。
どんなに抑え込もうとしても、心の奥底でエドワードに期待してしまうような事がいくつかある。そしてそんなものは、当然だが手紙には一つも書かれていなかった。
ほんの少しの落胆を覚えるが、それでもやはり嬉しかった。
亜里沙の様子を見ていたソフィーが恐る恐る提案する。
「返事をお書きになっては?」
翔は心配そうだったが、それでも亜里沙が書くと言うと、折れてくれた。
「……分かった。俺が直接届けるよ」
そうして亜里沙は、手紙の内容に対する返事と、日々の生活での、差し障りのない些細なことを綴って、翔にそれを託した。
三日目。
この日は相変わらず予定を聞いてくるロナンに「都合が悪い」と言い続けることに罪悪感を覚えた亜里沙が負けて、執務室を訪ねることになった。
「でも、仕事の邪魔じゃない?」
「まさか。アリサさんがいてくれると捗りますよ」
亜里沙は不覚にも照れてしまって、反対意見を求めてライアンを見た。
ライアンは困ったような表情だ。
「私も見ていますので、問題はないでしょう」
そうは思っていなさそうだが、しかしこれ以上食い下がるのも迷惑だろう。
亜里沙は大人しく翔が使っている机で文字の勉強を始めた。
「調子はどうですか?」
文法が分からず悩んでいると、ロナンがそう亜里沙に声をかけた。
質問するのもどうかと躊躇う間に近くまでやって来たので、亜里沙は遠慮なく尋ねることにした。
「この言葉を使う時は、文の順序は必ずこの形になります」
ロナンは亜里沙の隣に立ち、少し身を屈めて、亜里沙が参考にしている北方の本に指を滑らせた。
「あ、ほんとだ。何で他のと順番が違うの?」
「それは、この言葉ひとつでは、それが指している動作を説明出来ないからです」
「……あ、そっか」
「この動作には必ず目的が必要になるので、この順番。これと同じ用法の言葉は他にもいくつかあるので、併せて覚えておくといいでしょう」
「なるほど、確かに」
ロナンの教え方はとても分かりやすく、教わった後はすらすらと頭に入ってくる。
亜里沙は切りがいいところで勉強を終え、北方の文字で書かれた他の本を復習がてら読んだ。
しばらくして目と頭が疲れてきた頃に、再びロナンがタイミングよく声をかけてきた。
「アリサさん、休憩しましょう」
ありがたく誘いに乗り、ソフィーが用意したお茶や菓子を挟んでティーテーブルについた。
「ライアンは?」
「私は席を外しますので、結構です。兄さんの仕事は……まあ、これなら休憩してもいいでしょう」
ライアンはそう言うと、執務室を出て行った。
ソフィーやイザベラがいるとはいえ、緩衝材のようなライアンがいなくなって途端に緊張する。
しかしロナンはそんな亜里沙の緊張をほぐすように、何気ない会話を続けてくれた。
他愛ない話だが、亜里沙が興味がある話題を程よく出してくれる。
そしてロナンはいつもタイミングよく、亜里沙がちょうど話したいと思った事を質問してくれるので飽きないし、楽しい。
ロナンとの何気ない会話は不覚にもひどく居心地良く感じられた。
ここからはロナンと過ごす時が増えた。
ロナンはライアンが認める程度にはその日の仕事を終え、なおかつ亜里沙が必要とした時は待たせることなく時間を割いてくれた。
時には庭園の散策にも付き合ってくれて、段々と亜里沙はロナンと過ごす時が一番楽しいと思うまでになった。
そしてロナンはここぞという時に、亜里沙が勘違いしそうな言動をした。
亜里沙のためだと分からせてくる言葉の数々や、亜里沙にしか見せない優しい表情に眼差し、亜里沙に対しての行動など。
とにかくロナンの亜里沙に対する言動の全てが、ロナンにとって亜里沙が特別に大事な存在であると、そう思わせてくるのだ。
そうして一週間が経った、この日。
この日は翔は午後になると帰って来た。
亜里沙はちょうど、ロナンとガゼボに行こうとしていて、翔もこれに合流することとなった。
ガゼボの周辺は自然さを演出するために、足元が他よりも不安定な箇所がある。
危険があるというほどではないが、ロナンはいつもこの辺りでさり気なく亜里沙の手を取る。
最初は警戒したものの、この行動が終始亜里沙を気遣ったものだと感じられて、すぐにそれは解けた。
この日は自分から手を差し出したまである。
ガゼボについてすぐ、ロナンが急用で呼ばれた。
ロナンが席を外すと、亜里沙は少し残念に思いながらその背を見送る。
すると、黙って見守っていた翔が口を開いた。
「亜里沙ちゃん、最近ちょっと浮ついてない?」
「えっ」
亜里沙が驚いて振り向くと、ソフィーとイザベラが同じく翔を振り向いたのが視界に入る。ふたりの表情を見るに、翔は日本語で話したようだ。
翔は申し訳なさそうにしながら、しかし質問を撤回しなかった。
「ごめん、少し心配で……ここ最近、ロナンさんが亜里沙ちゃんを口説いているように見えるから」
「……え?」
思いがけない言葉に亜里沙は固まった。
確かにロナンの亜里沙への接し方が変わった。
以前より気遣ってくれているのが分かるし、実際それを受け取るのが心地良い。
ロナンといると嬉しく感じることが多く、あろうことか胸が高鳴った瞬間がいくつも思い当たる。
もし、エドワードを好きでいなかったら、今頃は。
そこまで考えた亜里沙は両手で頰を包んだ。
(あれ!? 私、いつからこんなに浮ついてた!?)
『……それは、我に聞いているのか?』
何だかニーズとも久しぶりに会話する気がする。
『数日前からだ。帰ることに協力的だから問題ないだろうと、様子を見ていた』
思い返してみるとここ数日は、亜里沙はロナンの事ばかり考えていた気がする。
だがそれは切なくなるような苦しいものではなく、あくまで浮ついた気持ちだ。
たとえば明日帰ることになっても、それはひどく残念で寂しいだろうが、抵抗なく帰ることが出来てしまいそうな。
自分の今の心情が、ロナンが言った通りになっている事に亜里沙は愕然とした。
(いや、でも。実際この状態で帰れるのなら、その方がいいのかな……)
たとえ帰った後に苦しみが待っていても、それはもう手遅れで、取り返しはつかない。
帰ることだけを考えるなら、それでもいいのだから。
『そうだな……今ここで入り口を開けるのなら、そうしたいところだ……だが我は、お前にもカケルにも、なるべく幸せでいて欲しい』
翔が小さく咳払いして、亜里沙は我に返った。
ソフィーが亜里沙と翔の顔を見比べて心配そうにしている。
「……もしかしたら、これを渡すタイミングじゃないのかも知れないけど」
そう言って、翔が手渡してきたものは手紙だった。
胸が軋んで、震える手で受け取る。
開封する時に力が入ってしまって、封蝋が思う以上に細かく砕けた。
「エドワード様……」
手紙を読んで、思わずその名を口にしてしまう。
亜里沙が書いた手紙への返事。
イドルのことも穢れのことも来訪者のことも書かれていない。
亜里沙が日常を書いたことでそれに応えてくれたような、短く些細な内容だが、涙が出るほど嬉しい手紙だった。
一瞬で、ロナンへの浮ついていた気持ちがどこかへ消えてしまった。
嬉しさの反面、一方的でしかないのにエドワードを裏切ってしまったような罪悪感が湧き上がる。
そしてもっと悪いことに、ロナンが危惧した事が現実となった。
亜里沙は今はっきりと、自覚してしまった。
どうして今更、と呆れるほど、恐らく以前から明確に答えは出ていたのだ。
それから、目を背けていただけで。
(私、エドワード様と会えなくなるのが嫌だ……どうしよう、私……帰りたくない)




