水と油
ある程度目の腫れが落ち着いて厨房を出る時。
厨房付きの人々、特にメイドたちが頬を染めながらちらちらと見てきて、本当に噂になってしまうのではないかと亜里沙は不安になった。
こういう人々の守秘義務のようなものはどうなっているのだろう?
更に、死角になって見えなかった場所にソフィーとイザベラが立っていて亜里沙は悲鳴を上げるところだった。
「おはようございます」
挨拶の後、ロナンが言っていた事と全く同じ内容でイザベラからお叱りを受ける。
説教はイザベラに任せ、ソフィーはまだ若干残る亜里沙の目の腫れの心配をしてくれた。
厨房を出て廊下を少し歩く。
亜里沙から少し離れて後ろを歩くロナンを厳しい顔で振り返ると、ソフィーが足を止めた。
「旦那さ、いえ、マクベルド伯爵。アリサ様を傷つけるような事があったら、ヴァーロ家が全員敵に回ると覚えておいてください」
「えっ? ソ、ソフィー……!」
亜里沙は慌ててソフィーの袖を引く。
「いいんです。私の主人はアリサ様です」
たとえば亜里沙が帰った後のソフィーの立場だとか、身の安全、給料などといったものへの心配が脳裏に浮かんでロナンを見る。
だが意外にもロナンは穏やかな顔をしていた。
「……分かったよ、ソフィー。だが私はアリサさんを傷つけたりしない。お前もそれを知っているから、先ほども話が終わるまで待ってくれたんだろう?」
亜里沙は今度はソフィーを見た。
ソフィーは複雑な表情を浮かべて亜里沙と目を合わせる。
ロナンは「ではまた後で」と亜里沙に言うと、先に廊下を歩いて行ってしまった。
ロナンが去った後、ソフィーはおもむろに口を開いた。
「アリサ様……もしかしたら伯爵は、本当にアリサ様を想っているかも知れないので……伯爵がアリサ様にその想いを伝えようとなさっているのを、私が止めることは出来ません……」
ソフィーの眉がハの字になって、潤んだような目が亜里沙を見つめる。
「それでも、私はアリサ様の味方です……ですから」
亜里沙は必死なソフィーを安心させるように頷いた。
「うん、ちゃんと分かってる。ありがとう、ソフィー」
未来を心配して旦那様呼びに戻すように言うとソフィーは渋ったが、それでも最後には頷いてくれた。
朝食の席でキーランとライアンがいない事を翔は気にしたようだった。忙しくて朝食に現れない事もあるライアンはともかく、キーランが亜里沙のそばを離れるのは珍しい。
だが昨夜のことから何かを感じ取っているのか、翔がそれを口にすることはなかった。
キーランが負傷して王城で治療中だとロナンから聞いた翔は、真っ先に亜里沙の心配をした。
「私は全然大丈夫だよ。後で話すね」
翔は頷くと、それ以上は聞いてこなかった。
「ラティファに会いたいということでしたが、突然訪ねても会えないかも知れません。それでも良ければ午後に出かけましょうか」
朝食が終わる頃、ロナンがそう言った。
先ほどはああ言ったが、昨日あんな事があったので本当に出かけられると思わなかった亜里沙は目を丸くした。
「でも……いいの?」
「聖王訪問の御触れが出ていますから、ナイグラードを出なければ大丈夫ですよ。ですが念のため、広場までです」
亜里沙がこくこくと頷くのを見て、ロナンはふっと笑った。
「カケルくんと話すのであれば、執務室を使ってください。アリサさんが来てくれたらカケルくんも息抜き出来るでしょうから」
そうして、朝食後、午前中は執務室で過ごすこととなった。
昨夜あんな事があった場所だ。亜里沙は何となく気が重かったが、ロナンが平然としていて悔しいので平気な振りをした。
ロナンが使う机から程よく離れた場所、壁際の本棚の近くにまた別の机がある。翔はそこに座ってロナンの手伝いをしているようだった。
主に帳簿の書き換えだが、他にも雑務の一部をこなしているようだ。
話を聞いただけでも息つく暇もなさそうだ。だから呼ばれたのか、と亜里沙は納得した。
実際翔は亜里沙が来ると、ゆっくりとしたペースで帳簿に向かい合った。
「昨日はあまり眠れなかったみたいだけど、体調は大丈夫?」
何となく目蓋を見られている気がする。亜里沙は決まり悪く笑ってみせる。
「うん、ちょっとね……嫌な事があったから」
詳細を語るのが憚られて適当に言ったが、泣いたのは嫌な事ではない。それがエドワードに関係する事なら、悲しくても何も嫌ではないと思った。
そしてそんな自分の思考に怯むと同時に恥ずかしくなって、頭を抱える。
「……昨日、砦で何があったの?」
亜里沙は悩んだ末、エドワードへの想いについては伏せて、話した。
以前世話になった女性から刃物を向けられた事。キーランが亜里沙を庇って手に大怪我を負った事。聖王が話をするまではナイグラードから出ない方がいい事。
そして、エドワードが、元々パーシヴァルの物だったことを気にして新しいブローチをくれた事を。
ブローチのくだりでは、翔に何か言われるかと身構えたが、翔はそれについては触れなかった。
「聖王が自分の死を予知して何もしなくなったせいで、主にトランティア周辺の集落の人や、防衛のために雇われた傭兵たちが沢山犠牲になったんだよな。そして、その予知の件が司祭の口から漏れて、噂になってしまった……」
整理するように口にして、翔はため息を吐いた。
「聖王自身を心配する人々を黙らせる事が出来ても、そういう、犠牲になった人々の身内とか関係者の感情は、本当に聖王が何か言ったところで収まるものかな……」
深刻に呟いた後、翔はハッとして亜里沙を見た。
「ごめん、変なこと言って」
亜里沙は首を横に振る。
あの女性から刃を向けられなければ、翔のことを心配し過ぎだと嗜めていたかも知れない。
だが今は、翔の言う通りだと思った。
「私もそう思ってたところだから。もっと気を付けないと……もう、あんな事が起こらないように」
あの刃に纏わりつく血を思い出して僅かに吐き気を覚える。
翔の気遣わしげな視線を感じたが、何でもないふりは出来そうになかった。
しばらくしてソフィーがお茶を差し入れてくれた頃、亜里沙に手紙が届いた。
一瞬エドワードかと思った亜里沙の心臓は強く痛んだが、差出人はアストリドだった。
「アストリド様からだ!」
一時的に痛みを忘れるほど嬉しさが込み上げる。
翔とソフィーに目を向けると一緒に喜んでくれた。
亜里沙は翔の隣に座ったまま手紙を開封した。
中身は実にアストリドらしいものだった。
筆不精な彼女は手紙を自筆した経験がなく、もしかしたらこれが初めてかも知れない、とあった。
冒頭からアストリドだと分かる文章で自然と口角が上がる。
亜里沙は、はやる気持ちを抑えて手紙に書かれた続きの文字を目で追った。
エドワード様から、アリサは北方の字の勉強をしていると手紙でうかがった。
読めないとは思わず、すまないことをした。
それでもやはり、アマリアが残していった想いを、アリサに見て欲しいと思う。
本来なら私以外が読むべきではないものだが、あいにく私はそういったことを読み取るのが得意ではない。
アリサの負担にならなければいいのだが。
そして、アリサがトランティアを発つ日、見送らずにすまなかった。色々と事情があったのだ。だが大したことではないから心配はいらない。
私はあの後、国に帰った。本当ならパーシヴァル様についてそちらに行きたかったのだが。
そもそもそのつもりでトランティアまで出て来ていたのだ。早々に断られてしまっていたがな。
それから、この手紙を書いたのは、エドワード様にそうしてやってくれと頼まれたからだ。
あの方は来訪者を嫌っているようだったが、アリサやカケルとは良い関係を築かれたのだな。
遠く離れた地でも、私の友人に心強い味方がいてくれることを嬉しく思う。
祝祭の日、そしてナイグラードの春祭りで、アリサと再会できることを楽しみにしているぞ。
元気でいてくれ。私は元気だから心配はいらない。
読み終えた亜里沙は思わず泣きそうになって目頭を押さえた。せっかく引いてきている腫れがぶり返しそうだ。
亜里沙の顔を見たソフィーが、中身も知らないのに目を潤ませて同じように目頭を押さえていて、亜里沙は何だかおかしくて笑ってしまった。
ふと視線を感じて振り向くとロナンと目が合う。
亜里沙を見て微笑んだその目はとても優しくて、思わず鼓動が高鳴り、緊張した。
(いや、これは慣れないから、だから)
自分が節操なく思えた亜里沙は内心で言い訳した。
『お前は不思議な事を気にするのだな。愛情は特定の対象にだけ抱くものではないだろう。多くのものを愛することが出来る、それが人というものではないのか』
(うーん……愛情にも種類があるというか)
落ち着いて自分の胸に問いかけてみると、エドワードを想う時の苦しい高鳴りは、やはり彼以外には感じない。
自覚したのも昨日だというのに、こんなに好きだと思うなんて。もしかしたらこの気持ちに気付くのが随分と遅かったのだろうか。
ニーズは小さく唸って考え込んだ。そして亜里沙は翔がいた事を思い出して勢いよく隣を見る。
亜里沙と目が合った翔は、ばつが悪そうに手元に目線を落とした。
(もう喋らないで! 後でまた話そう!)
亜里沙の慌てた様子に、ニーズが素直に引いてくれるのが分かった。
ロナンの執務室は日当たりが良く、居心地もいい。
思いがけず落ち着いた時間を過ごした後。昼食が済むと宣言通りロナンは亜里沙を誘って外に出た。
ロナンはイザベラの同行は許してもソフィーは留守番だと言って、ソフィーの食い下がりに応じなかった。
こうして、戻って来たライアンと一緒に執務室に残る翔を、ソフィーが手伝うこととなった。
ラティファの宿までは近いので、散歩がてら向かう。
エスコートは嫌だと言うと、隣を歩くという条件でロナンは引き下がってくれた。
イザベラは一歩遅れるようについて来ていて、その他の護衛数人は、亜里沙たちの前後を離れた位置で守りながら歩いている。
「そういえば、何でソフィーに残るよう言ったの?」
ロナンがソフィーを留守番させた理由が気になった亜里沙は何気ない質問を装って尋ねた。
もしかしたら、ソフィーの気持ちに気付いたロナンが気を利かせたのかと思ったのだ。
隣を見上げると、ロナンは小さく笑った。
「アリサさんは本当に分かりやすいですね」
「……な、何よ、どういう意味」
「ご想像通り、気を利かせました」
「ロナンも知ってたんだ……」
「ええ。ソフィーの気持ちに気付いていないのはライアンくらいですからね」
「えっ……待って、それ」
「そう、カケルくんも気付いていますよ。ソフィー自身は、まさか本人に知られているとは思っていないでしょうけど」
彼は色々と勘が鋭いので、と呟く。そこに何か不穏な響きがあったが、次に亜里沙を見た時、ロナンの表情には不穏さは微塵もなかった。
「広場までの間にいくつか、店がありますよ。少し道を逸れると聖堂があります。もうご覧になったでしょうけど広場には既にいくつか露店が出ています。アリサさんが行きたい所に案内しましょう」
「うーん……魅力的だけど、でもラティファさんに会いに行くんだってば」
「……いないと思いますけどね」
何の根拠があって言うのだろう。亜里沙は無視して景色に集中した。
そうして宿に着いた。
結局ラティファはいて、ロナンは残念な表情を隠さなかった。
「何だ、いたのか……」
「ええ? ロナンったら、それどういう事なの?」
ラティファは亜里沙が見ていてもお構いなしに、しなだれかかるようにロナンに抱きついた。
「やっとあたしの誘いに応じてくれる気になった? ん?」
「やめてくれ、ラティファ。せっかくお前に会いたいとわざわざ来てくれたんだ」
「あら」
ロナンの少し後ろで固まる亜里沙に、今気付いたかのようにラティファは笑みを浮かべた。
だが、亜里沙はラティファが降りて来た時に、しっかり彼女と目が合っている。
「何だぁ、じゃあアリサにあたしたちの関係を見せつけるつもりだったってことぉ?」
亜里沙は信じられない気持ちでロナンを見上げる。
ラティファを見下ろして眉を顰めるロナンの目にははっきりとした怒りが浮かんでいるが、ラティファを引き剥がした動作は流石に紳士的だった。
「……アリサさん。どうやら私は邪魔なようなので、先に屋敷に帰っていますね。夕刻までには帰って来てください」
イザベラに後を頼むと言うと、ロナンは去ってしまった。
「……あーあ。ざーんねん」
ロナンを見送りながらそう呟いたラティファの口の端に、うっすらと不敵な笑みが浮かんだのを亜里沙は見てしまった。




