妥協案
部屋に帰った時、また亜里沙の様子を気にしてくれたのか、翔がちょうど隣の部屋から顔を出した。
「……あ……おかえり、亜里沙ちゃん」
遠慮がちだが、亜里沙を気遣うような優しい口調に思わず目が潤む。
「ごめん、明日話そう……今日はちょっとやばい」
「あ、分かった……俺のことは気にしないで、ゆっくり休んで」
亜里沙の涙に気付いたらしく、翔は焦ったようにそう言った。
翔への挨拶もそこそこに、部屋に逃げ込む。
待っていたソフィーに無言で駆け寄って抱きついた。
「なんか……なんか、腹が立ってきた……!」
ただでさえ頭も心もあの砦に置いてきてしまったのかというくらい、全然追いついていないのに。
せっかくここは安全地帯だと思って心を寄せていたのに。
無性に悔しくなった亜里沙は、ソフィー相手にロナンから言われた事を暴露した。
「まあ……旦那様ったら……そんな提案を!?」
ソフィーの顔が怒りに染まる。
ふたりで腰掛けていたベッドから、勢いよく立ち上がったソフィーを慌てて止める。
「待って! それはまずい!」
流石は騎士の家系というべきか、ソフィーにはこういう熱いところがある。
何をしようとしたのかは分からないが、止めなければ恐らくまずいだろう。
「もしロナンが私に危害を加えたり、私の安全を脅かしたら、その時はイザベラが思いっきりやってくれるはずだから!」
視線を投げかけると、ドアの近くに立つイザベラは「お任せください」と頼もしく言い切ってくれた。
「でも、アリサ様……私は悔しいです!」
「私もだよソフィー」
こういう時に発散する方法は、元の世界ならいくつも思い付いたのだが。
ここにある一番身近な物を使うことにする。
「ソフィー、ベッドにこう、顔を突っ込んで」
「……え」
流石にソフィーは躊躇した。だが亜里沙はベッドに上半身を預けて、枕や毛布やらをとにかく集めて塊を作ると、その中に頭をめり込ませる。
「わ、分かりました」
ソフィーも覚悟を決めて亜里沙に続いたようだ。
「そして、叫ぶんだよ」
亜里沙がもやもやを全てぶつけるように腹から叫ぶと、少ししてソフィーも続いた。
「アリサ様? どうかなさいましたか?」
ドアの外から驚いたような護衛の声がする。
ハッと頭を上げた亜里沙はイザベラを振り向いた。
イザベラは拳を口元に当てており、どう見ても笑いを堪えている。
不自然に咳き込むと、イザベラが答えた。
「大丈夫です。遊んでおられるだけですので」
「そ、そうですか」
護衛はすぐに引き下がってくれた。
「……うるさかった?」
この屋敷のベッドはかなり質が良いとはいえ、やはり元の世界のベッドには敵わないのだろう。
「いえ、そこまでは。響いても部屋の前の廊下くらいでしょう」
「でも護衛の人にちょっと悪いね……」
「そうですね……」
「……よしっ、じゃあ殴ろう!」
「え? ええ、殴りましょう!」
亜里沙が集めた枕やら寝具を両の拳で上から打ちつけ始めると、ソフィーもそれに続いた。これでもかなり騒音だが、叫びよりはましなはずだ。
亜里沙は大声にならないように、悔しさを滲ませた罵詈雑言をその拳と共に吐き出す。と言っても、内容は控えめではあったが。
そして、とうとうイザベラは吹き出していた。
ひとしきり騒いで、寝る準備を整えた後、亜里沙はひとり、暗い部屋の中で先ほど当たり散らかしたベッドに収まっていた。
ぼんやりと天蓋を眺める。
右手に持っている物をかざして、顔に近付ける。ソルサニアのブローチだ。
「エドワード……」
ひっそりと名前を呼ぶと、一瞬で感情が波となって亜里沙を襲った。
目の前がぼやける。目尻から冷たい雫が次々と伝って、耳を濡らした。
亜里沙はブローチを握りしめて声を押し殺すように、その拳を口に当てた。
ブローチの円形から少し飛び出たピンの先が手のひらに食い込んで、一瞬鋭い痛みが走る。
それでもなお、強く握りしめる。亜里沙を刺してくる痛みがエドワードのものなら構わないと思った。
自分の正気を疑う冷静な部分もまだ残っているが、それもしばらくすると、とめどなく溢れる感情に呑まれてどこかへ行ってしまった。
ソフィーの申し出を断ってひとりで寝ることを選んだ理由はこれだ。
亜里沙は泣いた。
ただひたすら、顔がぐちゃぐちゃになって寝具を汚しても、泣き続けた。
翌朝、まだ朝とも呼べない薄明かりの中で亜里沙は目を覚ました。
「最悪……」
頭も痛ければ目も痛いし、喉も少し痛む。
見なくても目が腫れているのが分かった。
夜中、意識を失った頃にニーズに抱きしめられ、頭を撫でられながら「大丈夫だ」とあやされたような気がする。だがあの空間にいた記憶はないので、気のせいかも知れない。
『気のせいではない。お前は昨夜、眠った状態で我の意識の中に現れた。だから寝かせてやったのだ』
泣いたせいもあるだろうが、そのお陰だろうか。随分と気持ちが落ち着いている。
(そうなんだ……ありがとう、ニーズ)
『いや……』
ニーズはまだ途方に暮れているようで、それきり黙ってしまった。
もう少しすればソフィーが起きるだろうが、ばつが悪い。
鏡を見て寝起きの顔を可能な範囲で整える。涙が落ちたせいなのか髪もぼさぼさだ。
そして寝巻きに上着を羽織ると、ひとりで顔を洗いに外へ出た。
護衛に顔を洗いたいと訴えていると、そこにロナンがやって来た。
「……アリサ」
驚いたように呼ばれて振り返る。
「おはよう、ロナン」
予想より落ち着いているからか、目が腫れているからか、ロナンはほんの少し目を見開いて亜里沙に見入った。
だがすぐに、小さくため息を吐くと、来た道を引き返し始めた。
「ついてきてください。目を冷やさないと」
ロナンについて廊下を歩く。
「昨夜騒がしかったと報告があって、様子を見に来たんです。先ほどやっと手が空いたので」
「え? まさか寝てないの?」
「ええ。ライアンに仕事を押し付けられましてね」
「大丈夫?」
「貴女よりはましです」
確かに、と亜里沙は口をつぐんだ。
連れて来られたのは厨房だった。
石壁に囲まれていても暖かく、厨房付きの人々が忙しく働く片隅で控えめな歓迎を受けながら小さな椅子に座る。
「ここなら人も多いので安心でしょう」
戻って来たロナンが正面に立ち、冷たく湿った布をそっと亜里沙の目に当てる。
どことなく、爽やかなハーブのような香りがして、より気分が落ち着くようだ。
自分でやると言ったのだが、一言でばっさり却下されてしまった。
寝不足の人に世話をさせて不満を言うのは気が引けるが、距離感がおかしい事については言わねばならない。
「ちょっと近くない? こんなところ見られたら誤解されるよ」
「誤解されて噂になればいいと思っています」
本気とは思えない、亜里沙をからかうような声色にむっとする。
「次からはイザベラを起こさず部屋を出るのは控えてください」
亜里沙は分かった、と呟いた。
しばらくそうしていると、ここに来た最初の日に、ロナンが膝の治療をしてくれた事を思い出した。
あの時からロナンはずっと優しかった。
少しずつロナンという人が見えてきた今でも、やはり根本にあるのは、あの時の印象と変わらない気がする。だが。
「……もしかして、最初に出会った時から、私を利用するつもりだった?」
亜里沙は、ごく間近で目の腫れの状態を確認しているロナンを見つめて言った。
昨夜の提案は、亜里沙を元の世界に帰らせるためのものだ。だが、それだけが理由ではない気がしていた。
ロナンは視線を動かして亜里沙の目を見ると、眉を顰めた。
「……どういう意味ですか?」
ゆっくりと身を起こし、亜里沙を見下ろす。
迫ってくる割に、たまにこうして亜里沙を拒絶するような素振りを見せる。
やはり、心を許して信じた相手に置いて行かれたから、ヒューゴがグスタフから裏切られたと感じているように、ロナンも来訪者──異界から来た人間に対して何かしら思うところがあるのかも知れない。
「昨夜、自分を利用しないかって私に聞いたでしょ。ロナンも私を利用したいからそう聞いたんじゃないの? あれは、お互いを利用して寂しさを紛らわせようって意味でしょ?」
淡々と告げると、ロナンは目を見開いて亜里沙の顔を眺める。
「……それは、あくまで帰ることに集中してもらうためです」
亜里沙はその言葉に、首を横に振った。
「ただ帰らせたいなら他にももっと手段はあったんじゃない? それこそ、選ばなかったらいくらだって。だって私、ロナンには色々知られてるんだし」
「私がそれを利用する人間だと?」
「それにさ、そういう意図があるって、正直に私に教える必要もなかったよね。隠して信用させることだって、ロナンなら簡単でしょ」
「アリサさん……私のことをどういう人間だと思ってるんですか?」
亜里沙はその問いには答えず、訝しげなロナンを見つめた。
来訪者を憎んでいたとしても、ただそれでもキョウコを忘れられないから、亜里沙を利用したいのではないか。
心が耐えられないから、本当はそれこそが理由なのではないか。
亜里沙の言葉を待つことを諦めたのか、ややあって、ロナンはまた亜里沙の目の腫れを冷やす作業に戻った。
「そんな話であれば、別に貴女でなくても……そもそもそういう相手なら既にいますので」
「……ロナンは真実の愛の相手を待ってるってソフィーが誤解するくらいだから、それはないんじゃない?」
亜里沙がキョウコと同じ世界、それも同郷の人間だから、ロナンは亜里沙に惹かれたなどと言ったのだろう。
ふっと笑う気配がして目線を戻すと、まるで自嘲するような笑みが見えた。だが、ロナンが亜里沙の瞳を見つめ返した時、それがとても優しい眼差しで、言葉を失う。
「それで、考えてみてくれたんですか?」
あの一瞬の優しさはどこに消えたのか、もうこの調子だ。亜里沙は小さく息を吐いた。
「話し相手になるくらいなら、いい、かな……」
苦い想いを無視して呟く。
話し相手程度であってもロナンの提案を受け入れるということは、もうエドワードと結ばれない現実を自分で認めたということになるだろう。
(誰ともどうにもならない、って自分で言ったくせに)
自己嫌悪で胃がむかむかする。
「触れては駄目だということですか?」
「ダメに決まってるでしょ」
強めに言って睨むと、ロナンは「ええ?」と口では残念そうに言いながら、顔にはどことなく意地の悪い微笑みを浮かべる。
「貴女のそういう顔も好きなんですよね。思わず触りたくなります」
亜里沙は唇を引き結んだ。睨む顔が好きとか、正気だろうか。大変癪なので反対に笑ってみせようと思ったが、しかしそんな気は起きなかった。
不意に、ロナンの顔が鼻先まで迫る。亜里沙は目を見開いた。何を考えているのか分からない微笑の中から、緑色の瞳がこちらを探るように見てくる。
「駄目ですか?」
何の許可を求めているのか分かった亜里沙は、顔を硬くした。慌ててなどやるものか、と眉間を寄せる。
「ダメだってば」
「では、頬は? 軽くするくらい、許してくれませんか」
なぜそんなに触りたいのだろうか。近いせいで緊張が高まってきて、段々と頭が混乱してくる。
この世界のスキンシップについて、元の世界の西洋の文化に似たものがあるなら、頰へのキスはただの挨拶だろう。
亜里沙が来訪者だからか、そういう挨拶は一度も受けてこなかったが、それくらいなら許してもいいのではないだろうか。
というか、逆にこれを許さないと離れてくれない気がしてきた。
「頬に、一回だけなら」
まだ言い終えていないうちに、ほんの一瞬、柔らかいものが触れた。亜里沙が反応する前に、その感触は離れた。
「えっ、ちょっと!」
左頰、というより今のは、唇のぎりぎり端だった。
「頰って言ったじゃん!」
「頰ですよ」
ロナンは身を起こすと平然と言った。
「一日に一回、ということにしてください」
「もうダメ! 絶対ダメ!」
そもそも何で頰ならいいと思ったのか、自分に対する怒りで頭が痛んだ。こんなに流されやすい性格だったとは。
「これくらいは挨拶なんですけどね」
残念そうなため息を吐くと、ロナンは悪びれもせず微笑んだ。
「では、今日は私と過ごしてください。広場までなら出かけてもいいですし」
『この男……我に肉体があれば噛みついてやるところだ』
ニーズの唸るような低い声がして、ハッとする。
亜里沙が怒りすぎたせいか、人と会話中は大人しくするようになったニーズまで口を出してきた。
(大丈夫だよ、ニーズ。ロナンのペースに乗らなきゃいいんだから)
亜里沙は一度静かに深呼吸すると、ロナンを見上げた。
「じゃあ、私ラティファさんに会いに行きたい」
それを聞いたロナンの顔が若干曇って、亜里沙はやっと胸がすっきりするのを感じるのだった。




