嫉み
王家の馬車に乗せられて、亜里沙はナイグラードに帰還した。
馬車の中には亜里沙の他にエドワード、ソフィー、イザベラが乗り、エドワードは以前とは違って亜里沙から一番遠い席に着いた。
車内は狭いので大した差などない。とはいえ、エドワードの選択は亜里沙を遠ざけるものに違いなく、亜里沙はそんな些細な事でも胸が裂けそうに悲しかった。
油断すると視線を送ってしまいそうで、亜里沙は窓の外の景色に齧りつく。
「あまり窓に近寄るな」
エドワードの静かな声がして、反射的に体がそれに従ったが、そのせいで気持ちが尚更落ち着かない。
祭りのために色付いていく街の景色は流れるように過ぎ、亜里沙の心には何も残さなかった。
屋敷に着くと、亜里沙はひとりで馬車を降り、逃げるように足早に部屋に戻った。
ちょうどホールにいて出迎えてくれたライアンを無視してしまったが、ソフィーとイザベラは亜里沙を咎めたりしなかった。
部屋に入り、どこかでエドワードが追って来て引き止めてくれるかと期待していた事に気が付いて、愕然とする。
自分ではどうしようもない、身勝手なこの感情を持て余し、力が抜けたようにベッドに座り込んだ。
亜里沙がいつもキーランを心配して気を揉むからか、ソフィーがイザベラにキーランの事を尋ねている。
そうして更に悪い事に気が付いた。今の亜里沙は、目の前にいなければキーランの心配を少しもしていないのだ。
その事実にキーランに対して積もる罪悪感が、増していくようだった。
窓の外は茜色に染まる。ソフィーに何度か声をかけられたし、一度翔も様子を見に来た。
翔には会いたかったが、今日起きた事を今はまだ話せそうにない。
ソフィーに反応は示したと思うが、それも定かではなかった。
ずっと亜里沙の胸の内で、ニーズが途方に暮れる気持ちが底の方に留まっている。
だがソフィーでさえ亜里沙にこれ以上何も言えないのだから、ニーズがそれを言葉にすることはなかった。
ぼんやりしながら軽い食事を口にする。
まだ辛うじて明るさの残る空だ。寝る支度もそこそこにもう眠ってしまおうかとしたところで、そうはいかなかった。
ロナンに執務室に呼ばれたのだ。
「大事な話をするから外にいてくれ。その代わりドアは開けたままでいい」
エドワードは帰ったのか、何を話したのだろう、とそんな事を考えている間に、ロナンがイザベラにそう指示した。
イザベラが渋々従う。
ロナンは亜里沙を促してソファに座らせると、自分はその隣に腰掛けた。
「まず、謝らせてください」
深刻な様子に、ハッとしてロナンを見る。ロナンは気遣わしげに亜里沙を見ていた。
「あの集落に、トランティアの件で雇われた傭兵の家族がいることを把握できなかった。絶縁状態だったとはいえ、徹底して調べれば分かっただろうに……申し訳ありません」
「……ロナンは悪くないし、謝らないで」
食事をしたからか、先ほどよりは頭の中が少しずつ整理されていく感覚がある。
まともに受け答えできた事でほっとした。
ロナンは一度、亜里沙の肩辺りに視線を落とした後、再び亜里沙を見た。心配一色だった表情に暗いものが混ざったように見えるのは、気のせいだろうか。
ロナンは少しの間を置いて、続けた。
「殿下から聞いているでしょうが、改めて。砦の視察は中止です。王都の祝祭の日に、トランティアの件とアリサさんについて、聖王が自身の意向を示すはずです。それが終わるまでは表立って動かない方がいいでしょう」
「うん……分かった」
「キーランはしばらく王城で治療を受けるそうです。ここでも同程度の事はできますが、気持ちが落ち着くまでは会いたくないでしょうから」
「え……」
それは違う、と否定しようとした。
亜里沙が口を開く前に「それから」とロナンは声を低くした。
「これについて、聞いても?」
伸ばされた手に驚いて体が跳ねる。
ロナンの手は一切の遠慮もなく亜里沙のマントの肩にあるブローチに触れていた。
まるでそこから引きちぎってしまいそうに。
(あれ……私、着替えてもいなかったの……?)
慌ててロナンに目で訴えた。
そこにはいつもの穏やかな表情はなく、亜里沙を見つめる目に咎めるような色がある。
ロナンの手に力が入った気がして、亜里沙はその手を払いのけた。思ったより簡単に手が外され、亜里沙は両手でブローチを庇うように包む。
精一杯睨むと、目を見開いたロナンは、亜里沙の嫌いな、暗い笑みを浮かべた。
「……そんな顔ができたんだな」
「えっ?」
「どうやら私が読み違えていたようです。てっきりキーランに絆されたかと思っていましたが」
馬鹿にされたような気がした。だがそれだけではなく、この全てが不快に感じる。
「何の話なの? キーランに絆されたとか……この留め具の事だって、関係ないんだから放っといてよ」
「関係ないはずないでしょう。今は私が貴女の身を預かっているんですよ」
亜里沙はその言葉に怯んだ。
王子であるエドワードからこれを貰ったことが、ロナンに何かの不利益をもたらすのだろうか。
「私の立場のことはひとまず置いてください。今はアリサさんの話です」
亜里沙の考えている事を察してか、ロナンはそう言った。
「私は貴女に協力すると言ったはずだ。放っておいたら貴女は時々おかしな考えに走るようだから、それを止めるのも私の役目だろう」
自然と亜里沙の眉が寄る。
「お、おかしな考えって何?」
エドワードへの気持ちの事を言われていると思ったが、返ってきたのは相変わらずの言葉だった。
「まさか、この世界に残りたいなんて馬鹿げた事を考えていないよな?」
亜里沙は目を丸くした。そんなわけはない。
だが、その言葉は一瞬、喉につかえて出て来なかった。
「馬鹿げた、って、何よ……」
そしてやっと出した言葉がこれだった。
ロナンがため息を吐く。
「まさか、そうくるとは……口で言うだけでは駄目みたいだな……」
「え……何?」
心底から呆れたような物言いに眉根を寄せる。
ロナンは冷たさを感じる視線を亜里沙に投げかけた。
「……アリサさん。殿下とはどう足掻いても結ばれる事はありません。頭を冷やしてください」
馬鹿にされたと思ったら、今度はその声に哀れみのような響きがあって、亜里沙はカッとした。
主に羞恥心だが、言われた事への怒りも大いにあっただろう。
「別に、どうにかなりたいなんて思ってないよ! それに、何でロナンはそんなに私が帰る事にこだわってるの?」
言ってしまった後、それを撤回したい気持ちに駆られるくらいには、沈黙が続いた。
ロナンはやはりどこか咎めるように亜里沙を見ているが、意外にも亜里沙の問いに対して答えを考えているような素振りがある。
そして、ロナンがこの沈黙を破った。
「……そうですね……一番は、異界から来た者がこの世界に残ると、不都合があるから、でしょうか」
考えながら紡がれた言葉に、緊張する。
「不都合……?」
それは、翔がこの世界について話してくれた事と何か関係しているだろうか。
それともまさか、ロナンは来訪者の真実を知っているのだろうか。
どうやって知ったのか、もしかしたらキョウコの末路を知っているのかもしれない、と亜里沙が心を痛めた時、ロナンは意地の悪い笑みを見せた。
「異界の者がこの世界に残るなんて、そんな事は前例がない。前例がないからこそようやくキョウコが去った事を受け入れられたのに、その“前例”を作られると困るんですよ」
「……えっ?」
思ってもみなかった利己的な理由に、亜里沙はぽかんと口が開いた。
「あとは、そうだな。異界の者が残ることになった場合、理由なんて十中八九、この世界の人間との色恋が原因だろうし。そんなもの、見ていて面白いわけがないでしょう」
「え……、えっ? そういう理由? そんな……それって、自分が幸せじゃないからってこと?」
「まあ、そうなりますね」
ますます、開いた口が塞がらない。
「そ、そんなの……それは、ひどくない?」
「ひどいとしても、私が望むのは本来あるべき正しい姿なので、問題ありません」
そんな事、と言いかけて口を閉じる。
確かに、言われてみるとそうかも知れない。
ロナンは正しい事に手を貸そうとしているだけだ。その腹の中に何を抱えていようと。
「……ですが、心配しているというのは本心だったんですよ」
ロナンを見る。傷ついているように見えるのは気のせいだろうか。
「アリサさんに惹かれているのも事実です。貴女はとても可愛らしいので」
また軽口で誤魔化すのかと思えば、ロナンは亜里沙の腰に手を回すと上半身を抱き寄せるように顔を寄せてきた。
反応も逃げるのも一瞬遅れる。
「えっ、な、何するの? やめて」
「普通に説得するだけでは聞いてくれないでしょう?」
だが、ロナンはそれ以上は何もしてこなかった。ただ、この体勢から逃げようとしても思ったより力が強くて阻まれる。
「ちょっと、ロナン!」
「何もしません。許可があれば別ですが」
そんなもの出すわけがない。
ロナンはこの状況からの脱出を試みる亜里沙の耳元に唇を寄せると低い声で言った。
「私を利用しませんか?」
「え、え!? なに、ちょっと近い、離して!」
パニックになりかけて動ける範囲で上半身を逃がし、ロナンを見上げる。思ったより真剣な目で見つめ返された。
「私なら、殿下と結ばれない貴女を慰める事が出来ます。貴女がこの世界に残る事を考えもしないような、適度な関係しか求めないので楽でいられますよ。それにキーランから言い寄られても私を盾にすればかわせるでしょう」
お互いの吐息が徐々に近くなっている気がして、亜里沙は頭が真っ白になりかけながら叫んだ。
「イザベラ!!」
ロナンはあっさり亜里沙を解放すると、イザベラが駆けつけた時には何事もなかったように涼しい顔をした。
その顔を張り倒してやりたい衝動に駆られたが、ロナンはそんな亜里沙に微笑んだ。
「アリサさんに対しての心配が減ると私も楽でいられるので、考えてみてください。貴女にとってもけして悪い提案ではないはずです」
「伯爵……アリサ様に何を言ったんですか」
イザベラの険しい顔に目をやるが、ロナンはそれには答えなかった。
ロナンの毒のような提案が亜里沙の頭の中を巡る。
ただ楽になるために利用する。そこにお互いの気持ちは必要ないと、ロナンはそう言っているような気がする。
分かるのは、そうまでして亜里沙を元の世界に帰そうとしている、という事だ。
その理由が本当に、先ほどロナンが述べた通りだとしたら、それはどれほど歪んでしまった想いなのだろう。
「ロナン……」
イザベラの隣に立って安心すると、気持ちが落ち着いていく代わりに、段々とロナンの痛みが伝わってくるような気がした。
ロナンはそんな亜里沙の顔を見て一瞬眉を顰めた。
「この状況でも私を心配するんですね……まったく、アリサさんらしいというか」
そして、ため息を吐いて立ち上がる。
「言った事は取り消しませんので、その気になったらいつでも私の部屋を訪ねてください」
そう言うと、ロナンは亜里沙とイザベラをドアへと促した。
亜里沙がイザベラに付き添われるようにドアを出ると、硬い顔でこちらを見るライアンがいて、飛び上がりそうなほど驚いた。
「……兄が、すみません……」
ライアンは亜里沙にだけ聞こえるような小さな声でそう言うと、会釈をして執務室へと入った。
「え……き、聞かれてたの……? いつから?」
「私が呼ばれる直前においでになりました。私にもほとんど聞こえなかったので、聞いていらっしゃらないと思いますよ……ただ自分の兄の事をよくご存知ですし、何かあったことは理解されたでしょう」
少しすると、閉まったドアの向こうで言い争う声が執務室の中から響いた。いつもの雰囲気とは明らかに違う。
主にライアンの荒らげた声しか聞こえなかったし、何を話しているのかまでは分からなかったが。
居た堪れなくなった亜里沙は足早に部屋へと向かった。




