過去
どのくらい経ったのか、今亜里沙は砦の中、ベッドが置いてある部屋にいる。
亜里沙のショック状態を重く見てか、休めるようにと通されたのだ。
正直に言うと早くナイグラードに帰りたかった。
だがキーランの手の治療が終わっていない。
そして、あの小さな違和感が、まだ漠然と脳内を漂っている。
「王子殿下がこちらに来られるとのことです」
そっとドアを開けて誰かと話していたソフィーが、ベッドに座る亜里沙の隣に腰掛けた。
「……エドワード様が?」
ソフィーが頷いたのを見て、混乱が少しずつ落ち着いていく。
それから少ししてイザベラが部屋に入って来た。
ソフィーに頼んで部屋を退室してもらう。すぐ隣の部屋にいる、と言うとソフィーは速やかに去った。
イザベラはキーランに剣を教えていたのだから、恐らく、キーランが人間を攻撃出来ない事を知っているだろう。
「イザベラは知ってるかな……キーランが……」
もしも、と頭をよぎって、それ以上言えずに口ごもる。
そもそも何故イザベラに話そうとしたのか。
この違和感は、ただの考え過ぎだと否定して欲しいのだと、亜里沙は気が付いた。
更に躊躇して黙り込む亜里沙に、察した様子のイザベラは、近くに膝をついて屈むと、声を落とした。
「……はい、存じております。短い間でしたがあの方の剣の師でしたから。ですがアリサ様、その事についてこれ以上口になさってはいけません」
亜里沙はじっとイザベラを見た。迷ったあげく、忠告を無視する事を申し訳なく思いながら、口を開く。
「じゃあ……もし、キーランが、さっきみたいに人から刃物を向けられて、駆け寄られた時に……急所を刺されるのって、考えられる?」
イザベラの目が見開かれる。
この反応で、答えが分かってしまった。
「それは、ティラ砦での事、ですよね……あのお怪我はそんな状況で負ったものだったのですか?」
イザベラの眉間に深い皺が寄る。
「キーラン様もアストラムの血を引くとは言え人間ですから、判断を間違う事もあれば、体が追いつかない事もあるでしょう」
「確かに、あの時、かなり消耗してた……だったら、そうなってもおかしくなかった?」
肯定して欲しかったのに、イザベラは、すぐにはそうだとは答えなかった。その顔に戸惑いが浮かんでいる。
「ですが……先ほどはきちんと止めておられました」
迷いながらの言葉。
「怪我は深刻ですが、急所でなければキーラン様の回復力は常人を凌ぐので……。ですから、その時は判断力が鈍っておられたのでしょう」
それは、亜里沙を安心させるものではなかった。
『アリサ、もう思い悩むな。お前が抱えるべき事ではない』
ニーズの心配の声も今は響かない。
キーランは自分に無頓着だと思っていた。
だがきっとそれは、亜里沙が感じたよりももっと根深いものなのだ。
あの庭園で、汚れを知らないような純粋な瞳の奥に、闇のように暗い何かが見えた事を思い出す。
亜里沙は心臓が震えるような寒気を感じて、頭の中を渦巻く考えを締め出すように、目を閉じた。
それからまた長い時間が経ったように思う。窓の外はまだ明るいが、体感では一日経過したかのようだった。
急ぎで届けられた報告を受けてエドワードが砦に到着した。
やって来たエドワードが部屋に通された時、亜里沙は再びソフィーに支えられてベッドに腰掛けていた。
イザベラはドアの外でこの部屋を守っている。
「怪我はないか?」
若干焦ったようなエドワードの問いかけに、顔を上げた亜里沙は小さく頷いた。
「でも……キーランが」
「ああ、聞いた」
亜里沙の隣から立ち上がったソフィーが離れた位置に下がると、エドワードはもう少し亜里沙の近くに寄った。
「僕がもっと慎重になるべきだった」
後悔が滲む声に亜里沙は首を横に振る。だが何を言えばいいのか分からず、出来たのはせいぜいそれだけだった。
「……怖い思いをさせたな」
エドワードがそう呟くと、亜里沙は堪えていたものが溢れそうで慌てて下を向いた。
唇を噛み締めて耐える。
「明日以降の視察は中止としよう。まだしばらくはナイグラードから出ない方がいい」
「えっ」
驚いた亜里沙は顔を上げて立ち上がった。
「でも……!」
「急いでいるのは分かっている。だが身の安全を疎かにしては本末転倒だろう。無事に元の世界に帰るためにも、時期を待つべきだ」
亜里沙は目を見開いた。
「帰る為に……私が急いでいるって、キーランに聞いたんですか……?」
「いいや。これまでの来訪者が皆、穢れが落ち着くと元の世界に帰還しているからそうかと思ったが、違うのか?」
逆に聞き返されて、亜里沙はひどく動揺した。
その通りだと言えばいいのに言葉が出て来ない。エドワードが平然としているのがなぜか気になって仕方ない。
「……いずれにしても、優先すべき事柄を取り違えてはならない。ここは僕に従ってくれ」
亜里沙は力なく頷いた。
キーランの様子を見てくる、と言ったエドワードに、亜里沙はハッとした。
「あの、キーランの事で話が」
エドワードは足を止めて亜里沙を見た。てっきり先にキーランの方に行くと思っていたので、亜里沙は慌てた。
ひとまずソフィーに目で訴える。ソフィーはすぐに察して先程のように退室した。
それを見たエドワードが、ほんの少し困ったように亜里沙を振り向いた。
「どうしたんだ?」
「あの……ティラ砦で、キーランがどうやって……」
一度小さく息を整える。
「……刺されたのか、ヒューゴから聞きましたか?」
エドワードの顔色が変わった。
一瞬苦いものを噛むように歪んで、小さくため息を吐く。
「ああ……聞いている。今回はちゃんと自分の命を優先したようだな」
エドワードの言葉で、あの違和感が形になって、亜里沙の背筋を寒くする。
「それ……どういう……」
エドワードは少し迷うようにした後、静かに言葉を続けた。
「キーランには、幼い頃からそういう兆候があった。僕も幼かったから、当時はただ、何にも心を動かさない兄を不思議に思っただけだったが」
今思うと、と呟く。当時の事を思い返しているのだろうか、エドワードの顔が曇る。
「見てきた限りでは、自らそれを望む事はないだろうが……命の危険に晒されても、それに抗う意思が他者と比べて明らかに足りていない」
エドワードは亜里沙の顔を見ると、口調を和らげた。
「それでも、今のキーランは少しずつだが変わってきているように思う」
「本当に……?」
「ああ、だからそう心配するな。怪我もすぐに癒えるはずだ。見てくるから少し待っていてくれ」
エドワードが退室し、ソフィーが戻って来る。
亜里沙は再び呆然と宙を見ながらベッドに腰掛けて待った。
その間ニーズが亜里沙を心配して声をかけようとする気配を感じたが、かける言葉が見つからなかったのか、そうしてはこなかった。
しばらく待っていると、エドワードが再び亜里沙を訪ねて部屋に来た。
エドワードは今度は最初からソフィーを退室させると、ドアの近くに立ったまま亜里沙に問いかけた。
「……少し、話をするか?」
心臓が飛び跳ねるように鼓動して息が詰まる。
気付かれないように息を吐き出して緊張を逃がしながら、亜里沙は頷いた。
エドワードはそれを見て、程よい距離に椅子を置くと、そこに腰掛けた。
「キーランは今は眠っている」
「え……まさか」
「違う。怪我の回復の為だ。以前から、深刻な怪我を負うとキーランはああして眠っていた」
(以前から……)
胃に沈み込むようなものを感じる。
「さっきの話……キーランが、少しずつ変わってきているって話を、聞きたいです」
「キーランの事情までお前が背負う必要はない」
亜里沙は目を丸くした。エドワードは淡々と続ける。
「このまま穢れは落ち着くだろうし、あとは無事に帰ることを考えていればいい……僕はそう思うが」
だが、と言って、エドワードは表情を和らげて亜里沙を見た。
「アリサがそこまで兄のために心を砕いてくれるのなら、知っている範囲で話そう」
エドワードが話して聞かせてくれたのは、キーランが王城に住んでいた頃の話だった。
「僕が最初に変化を感じたのは九年前だ」
九年前。キーランにとってはセレネが死んだ頃だ。
「セレネ様が亡くなる少し前に、アマリア王女が王都を訪れていた」
「アマリア様が?」
エドワードが頷く。
「アストリド王女に聞いたか? アマリア王女はもっと以前から度々王都を訪れていたが、キーランとは一度も、挨拶以上に接する事はなかったと記憶している。だが、セレネ様が亡くなった後、陛下が別館に王女の部屋を移したんだ」
エドワードによると、人と接する事を好まなかったセレネに王は別館を一つ丸ごと与えており、セレネとキーランはそこでひっそりと暮らしていたそうだ。
「今では母親が亡くなったのだから慰めるためだったのだと理解出来るが。僕でさえ会いたくても会えない兄に、王女は頻繁に会えるようになったのだから、当時はそれが腹立たしくて……あ、いや」
亜里沙が目を瞬くと、エドワードは焦ったように言った。
「話を戻そう。一度だけ遠目に、キーランが王女と親しげに遊ぶ姿を見た。王女も、部屋から出ずに養生している時よりもお元気そうだった。何より、誰にも心を開かなかった兄のそんな姿を見て驚いたから、あの時のことはよく覚えている」
亜里沙とアマリアを会わせてあげたかったと言った時のキーランの優しい声が思い出された。
「だが一月程経った頃、突然王女の容体が悪くなり、アルデスペランに帰還することになった。キーランはしばらく気落ちしていたが、それからだと思う。何もしなかったキーランが少しずつ勉学や鍛錬に意欲を見せ始めたのは」
「キーランはいつ城から出て行ったんですか?」
「10歳の時だ」
「そんなに早く? じゃあ傭兵になったのもその頃?」
エドワードが頷く。
「剣の腕は卓越していたからな。勉学は……苦手だったようだが」
「でもそんな子供が傭兵になんて、認められるの……?」
「キーランはその存在自体が特権を与えられているようなものだ。父がキーランを引き止められなかったのも、そのせいではないかと思っている」
アストラムの血を引くという事はそれだけ特別な事なのだろう。そう言われればキーランはかなり自由に振る舞っており、周囲もそれを許しているようだ。
素直なので、王やパーシヴァルから命じられれば、ある程度は聞いてきたのだろうが。
少しの間の後、エドワードはそして、と静かに続けた。
「僕が次にキーランの変化を感じたのは、お前が来てからだ」
亜里沙と目を合わせたエドワードは、それを言うかどうか迷っているような表情だった。
「正確には、城で初めてアリサと会った時に。あの時はお前に対するキーランの態度に、正直かなり驚いた。他人に、家族にさえほとんど心を動かさないのに、随分気にかけているようだったから」
そう言われれば、そうだ。キーランは、最初からそうだった。
エドワードの話を聞いた今なら、それはどこか奇妙に感じる。
「アリサはどことなくアストリド王女やアマリア王女に似た雰囲気がある。そのせいかも知れないな」
だが、本当にそうだろうか?
亜里沙自身も最初からキーランを気にかけていて、今もこうして放っておけないでいるから、キーランもそういうものなのだと考える事は出来るが。
何かが引っかかる。
そしてそれが何なのかは、亜里沙にはまだ見えてこなかった。




