行き違う想い
あの後どうしたのか、よく思い出せない。
気付いたら部屋の前で、キーランが送ってくれたようだった。
「二日後から砦に行かないといけないから、ちゃんと休んで」
キーランの優しい声がして我に返る。
「ううん、大丈夫」
反射的に答えたが顔色が悪く見えているだろうか?
そう思って目線を下げる。
キーランがこちらに手を伸ばそうとしたのが見えて、心臓が不快な動きをした。
だが、その手は途中で再び下ろされた。
「……困らせたかったわけじゃない」
囁くような、弱々しい声が降ってくる。
「でも僕を見てくれないなら……他のやつのことも見ないで」
亜里沙は再び目を上げてキーランを見る。
その顔に今は表情はない。
「きみは帰ったら僕を忘れるんだろう。それでもいい。だから、ここにいる間は」
その続きはなかった。
ただ射抜くような視線が向けられる。
「……誰ともどうにもならないよ……」
泥のような感情が溢れて来そうだ。
「だってもう会えなくなるんだし」
無意識に、腰のベルトから下げた巾着を握る。
何故それを握るのかと思ったが、位置的にほんの少し手を上げるだけで届くから丁度いいのだ。
その時、部屋からソフィーが顔を出した。
「アリサ様、外出用のお召し物を準備しておきたいので中へお入りください」
「あ、うん。じゃあキーラン、後でね」
亜里沙はソフィーに感謝しながら、逃げるように部屋に入った。
ソルサニアは、聞けば強いのは物理的な意味で、環境によって萎れたり枯れたりするのは他の植物と変わらないそうだ。
一週間から、持って二週間と聞いて、少し残念に思う。この花は亜里沙の心を落ち着かせてくれる。
ソフィーが華奢な金色の花瓶を用意して、ソルサニアをテーブルに飾ってくれた。
「王太子殿下と第二王子殿下、そしてキーラン様が二番目のお名前をお持ちなのはご存知ですか?」
亜里沙はそれを思い出して頷いた。
パーシヴァルはレクス、エドワードはソリス、キーランはセレンだ。
「この二番目のお名前ですが、王太子殿下と第二王子殿下は花から、キーラン様はお母様のお名前から付けられたのだそうです」
ソフィーが花瓶を整えながら言った。
「第二王子殿下の二番目のお名前は、このソルサニアが由来だそうですよ」
ソフィーは優しい笑顔で亜里沙を振り向いた。
亜里沙が目を丸くしてソルサニアを見ると、ソフィーは静かに言葉を紡ぐ。
「……アリサ様は、誰を自由に想っても良いのですよ。たとえ二度と会えなくなるとしても……だって」
再びソフィーに目を向ける。ソフィーのその瞳が微笑みの中で潤んだ。
「私は、人を好きになれた事が嬉しいです。今、私は幸せだと思うから」
「……ソフィー? まさか……」
一粒の涙がソフィーの目から落ちて、ソフィーはそれを手の甲で拭うと、いつもの明るい笑顔を見せた。
「旦那様が動きやすい服をすぐに用意してくださいます。今はまだそれが手元にありませんので、夕食までここで私と言葉の勉強をいたしましょう」
亜里沙はそれ以上は聞かなかった。ただ、明かしてくれた大事な想いを見守りたいと思うのだった。
夕食の時間になって、亜里沙は緊張で胃の調子まで悪く思えたが、顔を合わせたキーランは特に変わった様子はなかった。いつものように、亜里沙に優しい笑みをむけてくれる。
ただ、今の亜里沙にとってそれは安心出来る事ではなかった。
夕食の後。
団欒などが出来るいわゆる居間に移って亜里沙はお茶を楽しんだ。
ここもまた雰囲気が亜里沙の好みで、居間だが、ビリヤード台を置けば似合いそうな娯楽室のようにも思える。暖炉があって、テーブルに椅子、ソファがいくつか並んで、好きな場所でくつろげそうだ。
亜里沙は小さなテーブルを選んで、亜里沙の隣ではキーランが本を読んでいる。
ここに来たのは、翔がボードゲームを見付けて亜里沙と遊びたいと言ってくれたからだった。
見付けたのは、チェスのような物と、囲碁のような物。将棋はなかった。
残念ながら亜里沙は正式なゲームはどちらもルールを知らない。
翔もかじった程度だからと、提案されたのは五目並べだ。縦、横、斜めに、先に五つの石を並べた方が勝ちという、シンプルなあのゲーム。
この世界に五目並べはなかったのか、誰もこれを知らなかったようだ。
まずはソフィーに教えるつもりで翔と遊んでいると、ロナンが興味を持った。
そしていつの間にかロナンと翔で対決という構図になっていた。
本当ならソフィーが翔と遊べるようにしてやりたかったのだが、こうなっては仕方ない。
次第にライアンも興味を持ってふたりの対決を覗き込む。
ロナンはずっと冷静で、翔が難しい表情で手が止まる事が多いが、勝負としてはほぼ互角だった。
亜里沙は三回に一回くらいは翔に勝てるので、ロナンともいい勝負になるかも知れない。
そのうち翔が疲れて、ライアンと交代となった。
先に寝る、と言って翔は退室する。
「僕も寝るよ。おやすみ、アリサ」
亜里沙は挨拶を返しながらキーランの顔色を窺ったが、本当にただ眠いだけのようだ。
キーランはソフィーに何かを言うと部屋を出て行った。
「……どうしたの?」
小声で聞いてみる。ソフィーが若干困った様子で小声で返した。
「旦那様とふたりきりにしないよう言われました」
それは当たり前ですが、と付け加える。わざわざそんな事を言い付けていくなんて、と亜里沙はため息が出る思いだった。
「メイブを連れて来いと、お前に言うのはこれで何度目かな」
パチ、と、磨かれた木に石がぶつかるいい音がする。
「だから、駄目ですってば」
ライアンの音は少し強めだ。
「今は些細な事もお腹の子に障るかも知れないんですから。何で兄さんはそんなに私の妻に会いたいんですか」
「人質にするんだよ」
穏やかな物言いでとんでもないセリフが聞こえた気がして亜里沙はロナンを見た。
だが表情も穏やかで、やはり聞き間違いだろう。
「そんな事をしたって無駄ですよ。兄さんはしばらく自由に出来ない運命です」
パチ、パチ、と音が重なっていく。
「私の勝ちですね! メイブは諦めてください」
「何だ、そういう勝負だったのか? 勝てばいいんだな?」
言って、ロナンはリラックスしていた体勢を直した。「じゃあ、もう一度」と微笑む。
「いいですけど、何度やったって……」
パチ、パチ、パチ──
「……あれ?」
「俺の勝ちだ」
気のせいか、ロナンの顔に意地悪な笑みが見える。
「い、いや、五回勝負してください。今から、五回。それも連続で勝ったら、勝ちという条件です」
ライアンの提案にロナンは特に異を唱えなかった。
その後、四回続けてあっという間に勝負がつき、ライアンが青ざめる。
五回勝負が始まるまでは互角だったように思えたのに、見る間もなくライアンが窮地に立たされた。
「こんなはずは……アリサ様」
こちらを振り向いたライアンの顔が切羽詰まっていて可哀想だ。少し焦り過ぎたのではないか。
亜里沙は何かアドバイス出来るかとライアンの隣に立って勝負を見守る事にした。すると、ロナンがため息を吐く。
「……これは卑怯だろう、ライアン」
次の勝負はライアンの勝ちで、特に助言も必要ない圧勝だった。
「ありがとうございます、アリサ様! 恩に着ます! 兄さんの負けですからね、諦めてくださいよ」
ライアンは喜んで言うと、ロナンに何か言われる前に「おやすみなさい」と言って出て行ってしまった。
「え? 私何もしてないけどな……」
「アリサさん、勝負しますか?」
振り向くと、微笑むロナンの顔がある。
「うーん……何も賭けないならね」
「もちろんです」
そして亜里沙はそれから少しロナンと遊んだ。
勝って負けてと、ほぼ互角だ。なかなか楽しい。
ライアンはやはり新婚の愛妻を賭けたせいで焦り過ぎたのだと、亜里沙は微笑ましかった。
夜も更けてきた。
今は亜里沙は北方の文字で書かれた簡単な童話を読み、ロナンは酒を飲んでいる。
ソフィーは亜里沙の向かいで日本語の勉強をしていた。
イザベラはずっとドアの辺りに立っているが、さすが彼女、一番元気に見える。
ある時ソフィーが手を止め、遅くなってきた事を教えてくれた。
今まで過ごしてきたどの建物内よりもこのお屋敷は明るい。暗ければ寝るというルールに慣れた亜里沙は、居間が明るいせいで気付かなかった。
居心地が良い部屋なので、もう寝ようか迷ってロナンを見ると、気付いたロナンは微笑んだ。
「良ければ少し話をしましょうか?」
「いいよ、何の話?」
「……キョウコについてです」
亜里沙は緊張した。つい、この部屋の中にいる顔ぶれが気になって見回す。
「貴女に話すとなると、イザベラにも、状況によってはソフィーにも聞かれてしまうので迷いましたが……話すと言ったのは私ですからね」
亜里沙は申し訳なさで眉尻が下がった。
「いいんですよ」と、ロナンは微笑んでいる。
ロナンが酒を飲むテーブルに移る。
椅子に横から座って、対面を避ける。何となく、正面からは見られないと思った。
「とは言え、私にも秘めたい部分はあるので、お話し出来る事もそう多くないのですが」
「うん、大丈夫だよ」
ロナンはもう一度酒を口にした。
もしかしたら酔わないと話せない程辛い事なのかも知れない。
そして、ロナンはそれを思い出すように遠い目をして、静かに告げた。
「キョウコは……私の、妻でした」
亜里沙は目を見開いた。思いのほか強い衝撃が胸を打つ。ニーズも亜里沙のようにショックを受けたのだろうか。
視界の端に、驚いて固まるソフィーが見える。
亜里沙を見たロナンが、いつものような笑みを浮かべる。
「陛下と宰相のフェレウス公爵、今となっては王太子殿下もご存知です。他に知る者はいません」
「でも……キョウコさんは……」
ここにいたのは一年。そして、キョウコは恐らくもう、生きてはいない。
亜里沙はぐっと唇を噛んだ。
「ええ。実際にキョウコが旅をしたのは半年です。記録では一年ですけど。その旅の途中で私たちは結ばれ、その後、半年は逃げていました」
「逃げた……?」
「はい。後で知りましたが、陛下が隠してくださっていたんですよ、私たちがまだ救世の旅を続けているという名目で。まあそんな言い訳ではヒューゴが怪しく思うのは当然でしょうね」
苦笑して、再び酒をあおる。
「キョウコは、いずれ元の世界に帰らなければならない事に怯えていました。帰らない選択肢はあるはずなのに、そう言って宥めても駄目だった。それに」
ロナンは気まずそうに亜里沙から目を逸らした。
「私が誰かに盗られる、と、しきりに警戒していたので……それは、あの当時恋人が複数いた私のせいでしょうけど。彼女たちとの関係はもちろん解消しましたが、円満にとはいかず……」
何も知らずに聞いていたなら、今の言葉で最低だと罵っただろう。だが、キョウコの結末を事実として知っている以上、とてもそんな気にはなれなかった。
ロナンは意外そうに亜里沙の顔を眺める。
「……怒らないんですね」
「だって……結婚までするくらい好きな人と別れたんでしょ……」
「なるほど、憐れんでくれたわけだ」
皮肉めいた声の響きにロナンを見つめる。ロナンはそんな亜里沙に「貴女らしいですね」と呟く。
「そう、ご存知の通り。あれだけ怯えていたのに、彼女はあっさり帰ってしまいました。元の世界で片付けるべき事があって、それを済ませたらすぐに戻って来ると、私に信じさせて……そして結末はご覧の通りです」
キョウコは戻れなかった。ニーズの記憶の一部を見た時、キョウコの悲痛な声も聞いた。
「……さて、話せるのはここまでです」
亜里沙が目を丸くすると、ロナンは苦笑して立ち上がった。
「これ以上は、ふたりきりの時でもないと話せません」
軽口で誤魔化しているが、その表情は、まだ痛みが残るのだと教えてくれているようだった。
ロナンは先に居間を出て行った。
酒の残るグラスを見つめる。
亜里沙の胸の内で、ニーズの強い後悔が渦巻くのをただ感じていた。




