異国の少女
ナイグラードの門を通った時、その内側で誰かが揉めているのが、亜里沙が座る方の窓の端に見えた。
マントを着た女性と、地味な格好の小柄な中年男性と、門を守る兵士のひとりが言い争っている。
と言っても、兵士は仲裁をしようとしているようだが。
馬車の通行の妨げになるような位置ではなかったが、しかし、マントを着た女性が「あっ」と大きく声を上げてこちらを見た。
容姿の特徴から、この女性は恐らく、何度か話に聞いていたオルマの人だった。
女性が駆け寄った事で馬車は停止した。
髪は濃い茶色で、夕暮れの光に照らされた部分は燃えるような赤に染まり、肌は褐色だ。ここからでは見えにくいが、綺麗なアーモンド型でややつり目の、その瞳の色は薄い灰色のようだ。
一言でいうとものすごい美人だ。ベリーダンスの衣装が似合いそうな、妖艶という言葉がしっくり来る美人。
すぐに騎士が馬車と女性の間に割り込み、その声だけが車内に届く。
「どういうこと? 伯爵家の方が乗ってるんでしょ?」
「違う。乗っているのはお客人だ。あなたとは関係ない方だから下がりなさい」
「そんな! じゃああなたが助けてよ、騎士なんでしょ」
女性の声は澄んで柔らかで、大人びた中に少女の可憐さが残るような声だった。
「あら……もしかしたら、ラティファさんかも知れません」
ソフィーはその声に聞き覚えがあるようだ。亜里沙が振り向くと、声をかけてもいいか尋ねてきた。
向かいに座るキーランが窓に顔を寄せて、騎士の影からほんの少し見えている女性を見る。
「……助ける必要はなさそうだけど」
「ですが……」
こちらを見たソフィーに亜里沙は頷いた。
「ロナンの知り合いなんでしょ? 声かけてあげようよ」
ソフィーがはい、と言って、窓を叩いて騎士に知らせる。
イザベラたち騎士が、揉めていた三人と馬車を目立たない壁の近くに誘導し、ソフィーが馬車を降りる。そして興味津々な亜里沙はソフィーに頼んで馬車のドアをほんの少し開けてもらった。
ラティファと呼ばれた女性はドアの隙間から中を覗こうとしたが、イザベラが立ちはだかって叶わなかった。
「お久しぶりです、ラティファさん」
「ソフィー、良かった! この人じゃ全然話にならないの!」
この人、と言って指された兵士が、うぐ、と唸る。
そしてもうひとり、ただでさえ小柄なのに妙に縮こまった中年男性は、ソフィーから顔を背けるように下を見ている。
「あなた……」
ソフィーの声が訝しげだ。男性は上擦ったわざとらしい声で、愛想良く答えた。
「やあ、ソフィー嬢、奇遇ですね」
「……旦那様に報告が必要でしょうか?」
「や、やめてください……オレは、ただ……ただ、誤解があっただけなんですよ……」
男は突然、それでは失礼します、と口にすると、その場を走り去った。とんでもなく足が速い。
あっという間に見えなくなった男の、その消えた方角を唖然と見ていたラティファが、近くにいたエンリクを見上げた。
こうして見るとラティファは、この世界で目にしてきた女性の中では身長が高い。イザベラ程はないが、キーランくらいはあるだろう。
「ちょっと! 何で逃がしたの、騎士のくせに!」
エンリクが困ったようにソフィーを見る。
「落ち着いて、ラティファさん。もし悪い事をしていればあの方は逃げられません」
騎士が兵士を職務に戻す。兵士が去ると、ソフィーはラティファに説明した。
ソフィーの話によると、あの男は、ロナンの配下である商人の家に仕える人間らしい。
ラティファはそれを聞いて、ひとまず落ち着きを取り戻した。そして今度はラティファが、この騒動の経緯を説明した。
「あの男があたしの後を追って来たのよ」
「追って来た?」
「そ。王都からね。最初はあたしの芸が好きで声をかけたいのかと思ったけど、どうも様子がおかしくて……ああ、もしかしたら」
ラティファは片手で頭を抱えるようにした。
マントから持ち上げられた腕にいくつもの綺麗な腕輪が飾られている。マントの下の服はサテンやシルクに似た光沢の、高級感のある生地で、そのデザインはやはりこの辺りでは見かけない。
「……パパかも知れない……」
「イザーク様?」
「あたしを連れ戻したくて動向を調べてるのかも」
亜里沙にはあまり話が見えてこないが、ソフィーは少し考えて首を傾げた。
「そう言えば、今年はもうこちらにいらっしゃったのですね」
「うん。パパと喧嘩しちゃってねぇ」
「また……」
気遣わしげなソフィーに、また、とラティファが頷く。
「それで王都を見ていらしたのですか?」
「そうよ。ね、馬車に乗っていい?」
唐突なお願いに、騎士たちとソフィーが何やら話し合いを始めた。
その隙にラティファは再び馬車の中を覗こうとしたが、やはりイザベラに阻まれていた。
深刻な話し合いの結果、ラティファが宿泊予定の宿は屋敷から近いので、馬車で送ってあげる事になった。
亜里沙はてっきり、自分と翔が乗っているからこのまま別れる事になると思っていた。だがラティファはかなり信用があるようだ。
「騒がないこと」と、何度か強めに警告されながらではあったが、ラティファは馬車に乗り込んだ。
多少窮屈だが亜里沙とソフィーの間にラティファが体を割り込ませた。この狭い車内で、その長い脚を組んで座る。
「キーラン様、久しぶり」
「うん」
キーランが曖昧に答えても気にならないようで、ラティファは次に亜里沙を振り向く。
その動作でどこか甘めの、スパイシーな香りがして亜里沙は極度に緊張した。
「来訪者様ね。お名前は?」
同性さえ鼓動を高鳴らせるような笑みだ。どうも芸人らしいので、魅力に磨きがかかっているようだ。
こういうのを「色気がある」と言うのか、と亜里沙は気後れした。
「亜里沙、です」
「じゃあこちらは?」
ラティファは組まれた脚に、翔の方に身を乗り出すように肘をついて、その手に顎を乗せると頭を傾げた。蠱惑的なその笑みは横顔であっても威力が高い。
この仕草は危険だ、と亜里沙の頭の中で意味不明な警告が鳴り響いた。
翔を見ると、怯んだような表情を浮かべるその顔が紅潮しているのが分かる。
隣に座るキーランが色白で、対比すると更に分かりやすく赤面していた。
「……翔」
辛うじて名前だけを呟いた翔。するとソフィーが不自然に大きめの声を上げた。
「あの、では、ラティファさんは今回は長くご滞在なのですね?」
ラティファは脚は組んだままだが姿勢を戻した。
「そのつもりよ。良かったら宿に遊びに来て。あたしがロナンを訪ねるのでもいいし」
この世界でロナンを呼び捨てに出来る人は王族かイザベラくらいかと思っていた亜里沙は目を丸くした。
「ロナン……マクベルド伯爵と仲良いんですか?」
「そんなに畏まらないでよ、来訪者様でしょ。偉そうにしていても問題ないのよ」
ラティファは目を細めて美しい笑みを作る。
「あたしのパパが商人なの。その関係でね」
「なるほど……」
「で、宿に遊びに来てくれる?」
ラティファはどうもマイペースで少々強引な性格のようだ。
ロナンに聞かないと分からないと言うと引き下がってくれたが。
通りの周囲が緑の風景に変わる辺りに大きな宿があり、ラティファやその後やって来る芸人たちはここに寝泊まりするらしかった。
飲もうと誘われたが、ロナンに聞かないと分からないと言うとあっさり引き下がってくれる。
ラティファは人の話をあまり聞かないのだろうか?
ラティファを宿の中まで見送ると言って騎士がひとり離れ、馬車は屋敷へと向かった。ラティファに手を振られ、控えめに振り返す。
屋敷に帰って極度の疲労感を覚えた亜里沙と翔は部屋に直行した。夕食は軽めに部屋で食べることにする。
亜里沙の部屋にいつもの三人に加えてキーランが集まると、そこにロナンがやって来た。
ドアの近くに立つイザベラから事情を聞いたロナンは、険しい表情を浮かべる。
「どうして馬車に乗せたんだ」
イザベラは答えなかったが、ほんの少し頭を下げたようだった。
「ラティファだから良かったが、次からは勝手な判断をしないように」
「……はい」
短く答えるイザベラにため息を吐く。
「イザークがラティファの動向を調べるよう依頼したと、ラティファが言ったのか?」
イザベラがそれに答えると、ロナンは考え込んだ。
「あの、大丈夫?」
心配して声をかけた亜里沙を見て、ロナンは苦笑した。
「イザークとラティファの不仲に度々巻き込まれるので、面倒なんですよ。まあ、商人とは言え貴族に等しい家柄の娘が芸人なんてやっているんですから、仕方ないんでしょうけど」
「そうなんだ……でもお祭りには毎年呼んでるの?」
「ええ。それとこれとは話が別なので」
彼女は人気の芸人なのでとロナンは微笑んだ。
ロナンが巻き込まれるのは仕方がないのではないだろうか。
「それはそうと、殿下とのお話はどうでしたか?」
亜里沙はエドワードに三つの砦の視察を任された事を話した。
ロナンの顔が曇るが、キーランが同行すると付け加えると、ひとまず納得してくれた。
「日程については殿下が追って知らせてくるでしょう。私はしばらく身動きが取れないので、くれぐれも無茶をしないようにしてくださいね」
それから、とロナンは翔を振り向く。
「カケルくんは戦えないので、その間はここで手伝いをしてくれると助かります。私の心配もその分減りますし」
「亜里沙ちゃん……」
心配と申し訳なさが含まれた視線を受けて、亜里沙は首を横に振った。
「気にしないで。キーランもイザベラもいるし、私なら大丈夫だよ」
翔は小さく頷いて、ロナンに「分かりました」と返事をした。
ロナンも亜里沙の部屋で一緒に食事をする事になったのでラティファに誘われた事を話してみる。
ラティファの宿を訪ねるのは却下、そしてラティファが訪ねて来るのは保留となって、何故かソフィーがほんの少し安堵していた。
夕食の後、亜里沙たちは早々に解散した。
キーランは何か話したそうにしていたが、亜里沙の顔を見ると、ただ、おやすみ、とだけ言って部屋を出て行った。
寝る準備をした後、ベッドに腰掛け眠気に襲われながら、亜里沙はソフィーに頼み事をした。
「ソフィー、あのブローチ見せて」
屋敷に付いてすぐにマントを脱いでしまったので、ソフィーに預けていたのだ。
ソフィーから手渡されたそれを手のひらに乗せて眺める。自然と口角が上がって、胸の奥が温かくなった。
「……それを、お持ちになりたいのですか?」
「あ、うん。私が持っててもいい?」
見上げると、ソフィーは微笑んだ。何故か、その微笑みが悲しそうに見える。
「……ソフィー?」
「何でもございません。もちろん、アリサ様がお持ちになっていてください」
亜里沙はありがとうと言って、もう一度手の中のブローチに目を落とす。そして、花の彫刻が施された部分を親指でそっとなぞった。




