第七話 皇子、妄想する
謀反のあと、星河帝に仕えていた近衛が、主を守れなかった責を負って宮廷を去った。
近衛大将、日向。近衛中将、朝凪。
とりわけ大きかったのは、その二人が抜けたことだった。
◇
「近衛大将の日向はどこへ行った」
謀反からひと月ほどが過ぎた頃、朝堂院では宮城の警備を立て直すための評議が開かれていた。
上座に座る公卿の問に、別の公卿が答えた。
「宮廷を去ったと聞いております。朝凪も同様です」
「ほかの近衛は?」
「……一人も残っておりません」
その答えに、広間が静まり返った。
「一人も、か」
「皇族が多く命を落とされたのです。主君をお守りできなかった以上、何食わぬ顔で戻れる者などおりますまい」
「しかし、これでは宮城の守りが成り立たぬ。いつまでも朝廷軍に任せておくわけにはいかんぞ」
「日向を呼び戻すことはできぬのか。あの男ほど近衛の内情を知る者もおるまい」
別の公卿が冷ややかに言った。
「戻ってきたとして、どうなさるおつもりです。日向が忠義を捧げていたのは星河帝です。新帝に同じ忠義を誓うとは思えませんな」
「では、朝凪はどうだ」
「朝凪とて同じことでしょう。あの者は桜桃皇女の護衛を務めていたのですぞ」
「……そうであったな」
公卿たちの間に、同意の声が広がった。
「……戻ってきてもらわねば困るのだがな」
それまで黙っていた如月が、ぽつりと言った。
「如月殿?」
「日向ほどの武人は、そういるものではありません。近衛の再建だけではない。各地ではいまだ暴動が続いております。あの男がいれば、救える命もあるでしょう」
「ですが、日向殿ご自身が戻ってこないのでしょう?」
「……承知しております」
如月はそれきり口を閉ざした。
「ともかく、辞した者をいつまでも待つわけにはいきますまい」
別の公卿が話を引き取った。
「新たに近衛を組織するほかありませんな」
「では、誰に率いさせる?」
しばしの沈黙のあと、一人の公卿が口を開いた。
「昊夜殿ではいかがでしょう」
昊夜は顔を上げた。
「……私ですか」
「朝廷軍でのご活躍は、誰もが存じております。何より、新帝のご子息であられる。新たな近衛を率いるには、ふさわしいお方かと」
「しかし、近衛大将に任じるには、いささかお若いのでは」
「では、まず中将に任じればよろしい。大将については、追って検討すればよいでしょう」
◇
こうして、昊夜は朝廷軍から近衛中将へ任じられた。
星河帝に仕えた近衛は、すでに一人も残っていない。
新たに即位した虚空帝のもと、昊夜は一から近衛を組織し直すことになった。
だが、一年が経った今も、近衛が以前と同じように機能しているかと問われれば、昊夜自身、肯定する気にはなれなかった。
人員は集め、隊も組み直した。宮城の警備も立て直した。
それでも、失われたものが一年ですべて戻るわけではない。
だからこそ、神祇官の部屋へ何者かが侵入したという報告を、昊夜は軽く見るつもりはなかった。
神祇官庁の門を通った者の記録は、その日のうちに近衛のもとへ届けさせた。
昊夜は執務机に帳面を広げ、上から順に名を追っていく。
六花の部屋へ何者かが侵入したのは、昨日の昼過ぎ。室内を荒らしていた者と六花が鉢合わせ、そのまま逃走。朝凪が追ったものの、途中で見失っている。
盗まれたのは、あの花びら。
神祇官庁の門を通った人物記録は、当然ながら、神祇官が大半を占めている。昊夜が探しているのは、それ以外の者だった。
指が、一つの名で止まった。
「……朝凪」
六花の部屋が荒らされる少し前に、神祇官庁へ入っている。
昊夜はしばらく、その名を見つめた。
朝凪は謀反のあと、近衛に正式に復帰はしていない。にもかかわらず、宮城の中で顔を見ない日はないのではないかと思うほど、六花の周囲に出没する。
許嫁なのだという話は聞いた。それならば傍にいること自体は分からなくもない。
──だが。
「……許嫁とは、あれほど一緒にいるものなのか?」
傍らにいた近衛が、ぎょっとしたように昊夜を見た。
「は?」
「いや。何でもない」
昊夜は帳面へ視線を戻した。
そもそも、許嫁というものがどれほど行動をともにするものなのか、昊夜にはよく分からない。
自分にも、婚約するはずだった娘がいた。
──星河帝の娘、桜桃皇女。
もし、あのまま何事もなく婚約が決まっていたなら、自分も朝凪と六花のように、桜桃と毎日のように顔を合わせていたのだろうか。
そこまで考えて、ふと、昔の光景が蘇った。
まだ謀反が起きる前。菖蒲殿のすぐ近くにある御殿で、多くの者が出入りしているのを見かけたことがある。
長く使われていなかったはずの御殿だった。庭木が整えられ、古くなった建具が運び出されている。
「誰か、そこの御殿に入るのか」
昊夜が尋ねると、作業を見ていた役人が振り返った。
「はい。桜桃様が成人されましたら、こちらへお移りになる予定です」
「桜桃様が?」
「左様でございます」
昊夜は菖蒲殿を振り返った。それから、整えられている御殿を見る。
「……近くないか」
「左様でございますね」
昊夜はしばらく二つの御殿を見比べたものの、結局それ以上は何も言わず、菖蒲殿へ戻った。
婚約すれば、あんなに近くにいるのが普通なのだろうか。
毎日のように顔を合わせ。用がなくとも訪ね。朝から晩まで一緒にいる。
『昊夜様!』
なぜか、まだ会ったこともない娘が嬉しそうに自分を呼ぶ姿が浮かんだ。
昊夜は眉を寄せた。
「……何を考えているんだ、私は」
「中将?」
「何でもない」
帳面へ目を戻し、記された朝凪の名を見る。
婚約者だからといって、一日中行動をともにする必要などない。そもそも朝凪と六花が一緒にいすぎるだけではないのか。
改めて考えれば、あの男は近衛ですらない。
元近衛中将というだけで宮城での信頼が厚く、誰も咎めないが、勝手に門に立っている。そして毎日のように神祇官庁へ現れ、六花の周囲をうろついている。
「……こいつも充分、不審者ではないか」
傍らの近衛は、今度こそ聞こえなかったふりをした。
もっとも、今回に限っては疑う理由もない。侵入者と遭遇した六花を助け、そのまま追跡したのが朝凪だ。
昊夜はその名を飛ばした。
次は中務省の文官の名があった。神祇官庁と中務省の間で書類の受け渡しがあったらしい。入った刻限と出た刻限も記されている。
宮内省の下役。
届け物をした女官。
近衛。
ひとつずつ確認していくが、どれも用向きが明らかだった。
「……いないな」
「そうですね。通った者は朝凪殿、中務省の文官が三名、宮内省から一名、女官が二名。それから我々近衛だけですね」
「身元は」
「すべて確認しております。中務省の三名は書類の受け渡し、宮内省の者も用向きが確認されています。女官二名も、神祇官から頼まれた品を届けた者です」
「……そうか」
怪しい者はいない。それ自体が、妙だった。
六花の部屋を狙って入ったのなら、偶然迷い込んだ者ではない。しかも見つかったあと、朝凪の追跡から逃げ切っている。
昊夜は神祇官庁の見取り図を引き寄せた。
「犯人がここにいるなら、門を通っても怪しまれない者」
昊夜の指が見取り図へ移った。門から塀へ、さらに建物の裏手へと滑っていく。
「あるいは、門を通っていない者」
「忍び込んだということでしょうか」
「その可能性もある」
昊夜は図面を見つめた。
堂々と入れる人間なのか。誰にも見られず忍び込んだ人間なのか。今のところ、それすら分からない。
「神祇官庁の周囲を調べろ。塀、使われていない戸、隣接する建物。人一人が通れる場所ならすべてだ」
「御意」
近衛が刀の柄に右手を添えた。
「それから、名簿にある者も外すな」
「全員ですか」
「ああ」
昊夜は再び帳面を見た。一瞬、朝凪の名が目に入る。
「……朝凪殿も?」
昊夜は黙った。少なくとも、今回の侵入については、疑っているわけではない。
「そいつはいい」
「御意」
近衛が去っていく。昊夜は一人になった執務室で、もう一度帳面を見下ろした。
──朝凪。
その横に記された入庁の刻限を見て、眉を寄せる。
「……なぜ毎日いるんだ、あいつは」
考えても仕方がない。昊夜は朝凪の名から無理やり視線を外し、神祇官庁の見取り図へ戻した。
***
日向の家を訪ねた朝凪は、門をくぐったところで妙な違和感に足を止めた。
庭の手入れがされている。縁側には使われた形跡があり、庭の隅には鍛錬に使うらしい太い木柱が立っている。
「訪ねてくるなんて、珍しいな」
家の中から現れた日向を見て、朝凪は一度瞬いた。
いつも前髪まできっちりと後ろに結っているのに、この日は無造作に額に髪がかかっていた。
「日向殿こそ、家にいるなんて珍しいですね」
「俺の家だぞ」
「知っています」
「なら何がおかしい」
「いえ」
朝凪は履物を脱いだ。日向が自宅にいるという、それだけのことなのに、どうにも見慣れない。
宮城か、どこかの州か、山の中か。この男はいつも、探してもいない場所に現れるくせに、探すとどこにもいない。
日向は座ると、朝凪を見た。
「それで? わざわざ俺の家まで来たんだ。何かあったんだろ」
朝凪も向かいへ腰を下ろした。
「姫様の花鍵が盗まれました」
日向の顔から、気の抜けた色が消えた。
「花鍵が?」
「神祇官庁の部屋を荒らされました。盗まれたのは、筥迫につけていた花びらです」
朝凪は懐へ手を入れ、自分の花鍵を取り出した。
「日向殿も、持っていますよね」
「ああ」
「六花も持っていたと聞きました」
日向の目が上がる。
「姫様も、六花も、星河帝から守りとして渡されていたそうです」
「そうか」
「鍵だとは知らなかったようですが」
「だろうな」
朝凪は日向を見た。
「全部で、いくつあるんですか」
日向はしばらく答えなかったが、やがて、指を折るように記憶を辿る。
「俺。お前。桜桃様。六花」
そこで一度止まった。
「星河様も持っていた」
「では」
「恐らく、五つだ」
──五つ。
朝凪は手の中の花びらへ目を落とした。
「星河帝の鍵は、今どこに?」
日向は答えなかった。その沈黙に、朝凪が顔を上げる。
「日向殿?」
「……なかった」
「え?」
「あの夜、星河様は持っていなかった」
「……六花の遺品記録にも、鍵はありませんでした」
しばらく、二人とも何も言わなかった。やがて日向が呟く。
「……二つか」
その声とともに、日向の脳裏に、一年前の夜が蘇った。
◇
長かった夜が、ようやく白み始めた頃。桂宮の身体が崩れ落ち、少し離れたところへ、その首が転がった。
日向は刀についた血を払い、鞘へ収めた。終わったのだと、そう思った。だが、何一つ終わってはいなかった。
焼けた宮城。倒れた近衛。逃げ惑った人々。そして。
「……星河様」
日向は膝をついた。
返事はない。当然だった。何度呼んでも、もう、あの男が面倒そうに振り返ることはない。
日向は目を閉じた。それでも、やらなければならないことが残っている。
星河の亡骸を改めるために手を伸ばすが、その途中で手が止まった。
「……ない」
星河が持っていたはずの、小さな花びらがない。どこかへ落としたのか。奪われたのか。考える暇はなかった。
桂宮の首と、星河帝の亡骸を治部へ引き渡した。
清明は、運ばれてきた亡骸を見たまま動かなかった。
「……陛下……が」
声が掠れていた。日向は何も言わなかった。いや、言えなかった。言えば、自分まで立っていられなくなる気がした。
「他に、死亡の報告は」
清明がゆっくりと顔を上げた。
「皇族は……二十二名です」
差し出された名簿を受け取る。上から順に追う。見知った名が並んでいる。そして、日向の目が止まった。
「桜桃様……」
呆然と呟く日向に、清明が硬い表情で声を掛ける。
「西回廊で倒れていたそうです。肩から上の火傷が酷く、顔の判別はつきませんでしたが、着ていた衣から、桜桃皇女として処理しました」
「……処理?」
日向が顔を上げると、清明は日向の視線から逃れるように目を伏せた。
「お会いになりますか」
八重御所の一角に、皇族の遺体が並んでいた。白い覆いの前に立った日向は、しばらく手を伸ばせなかった。
やがて、布をめくる。
焼けた顔。血に濡れた髪。そして、薄桜色の衣。
確かに、桜桃が着ていたものだった。──だが。
日向は亡骸の手を見た。
「…………」
その手を知っていた。幼い頃から、何度も見た手。桜桃の手ではない。
「……六花」
呟いた声は底冷えするかのように低かった。
清明が静かに日向へ目を向ける。日向は時が止まったかのように動かなかった。




