第六話 元近衛中将、許嫁の遺品を調べる
治部に残されていた記録は、思っていたよりも簡素なものだった。
清明が取り出した一冊の帳面を、朝凪は黙って見下ろしていた。
謀反の夜に死亡した者。
身元が確認された者。
引き取り手のあった遺体。
その中に、桜桃皇女の名もある。
正確には──桜桃皇女として収容された、六花の記録だった。
「遺品は、これですべてですか」
朝凪が尋ねると、清明は帳面へ目を落とした。
「治部へ引き渡されたものについては」
「筥迫は」
「あります」
清明の指が、一つの記載を示し、それをひとつずつ目で追っていく。
だが、花びらはない。
「……花びらの形をした金具は?」
清明が朝凪を見る。
「花びら?」
「金属で作られた、小さなものです。筥迫の根付としてつけられていた可能性があります」
清明はもう一度帳面を確認したが、しばらくして、静かに首を振る。
「記録にはありません」
「そうですか」
「重要なものですか」
朝凪はすぐには答えなかった。
「……分かりません」
少なくとも、六花にとっては、ただの守りだったのかもしれない。桜桃がそう思っていたように。
けれど、もし六花が持っていたものも、自分のものと同じ役割を持つのなら。
「この遺品が治部へ届くまでに、誰かが触れていますか」
「当然、何人かは。謀反の最中ですから、通常の手順ではありませんでした」
「収容された時点で、すでになかった可能性は」
「否定はできません」
朝凪は帳面から目を離した。やはり、六花の花びらは、ない。
では、いつ消えた。
目を伏せると、朝凪の脳裏に、再び炎に染まった回廊が蘇った。
六花を抱え、西回廊へ辿り着いた。煙の向こうに、隠し扉が見える。六花を抱いたまま、朝凪は隠し扉へ近づいた。
「朝凪……!早く……」
桜桃が扉を押している。
「早く、開けて……!」
けれど、開けることはできなかった。背後から人の気配が近づいてきて、朝凪は足を止め、振り返った。
炎の向こうから、一人の男が歩いてくる。顔の下半分を布で覆った、黒い姿。飛燕。
横合いから六花を狙う刃が振り下ろされる。朝凪は咄嗟に右肩で庇う。軍装が裂け、血が飛んだ。
朝凪が腕の中の六花を抱き直し男を斬り伏せると、飛燕が一歩近づいた。
「皇女を渡せ」
「断る」
飛燕の目が、六花へ向いた。
「いくら守っても、もう死んでいるんだろう? 近衛中将」
扉の向こうで、桜桃が息を呑む気配がした。朝凪の中から、すっと温度が消えた。
「……その口を閉じろ」
「六花……?」
鍵穴の向こうから、震える声がする。
「ねえ、朝凪。六花は……」
朝凪は一度だけ扉を見た。扉の向こうの桜桃に向けて、その唇だけを動かす。
「真っ直ぐ──」
それだけ伝えて、隠し扉の前へ膝をついた。これ以上、彼女に何も見せたくはない。
六花の死も、自分が傷つく様も。
六花を下ろし、鍵穴を塞ぐようにその背をそっと扉へ預けた。
朝凪が立ち上がると、飛燕が口を開いた。
「退け。お前まで死ぬぞ」
朝凪は刀を構えた。
「桜桃皇女には、指一本触れさせない」
次の瞬間、刃がぶつかった。
一人。二人。追ってきた者を斬り伏せ、朝凪は飛燕と刃を交えた。
傷ついた腕が軋む。呼吸をするたび、胸の奥が焼けるように痛んだ。それでも退けない。背後の隠し扉の向こうに、桜桃がいる。
やがて朝凪の刃が、飛燕を捉えた。あと一太刀急所へ入れれば終わる。
その瞬間、朝凪の手が止まった。
──飛燕は、六花を桜桃皇女だと思っている。
朝凪は隠し扉の前に横たわる六花を見た。
「……すまない、六花」
飛燕を生かす。
生き延びた飛燕が皇女は死んだと証言すれば、桜桃へ向けられる目を逸らせる。
朝凪は刃の軌道を変えた。
致命傷を避け、それでも立ち上がれないだけの一撃を入れる。
飛燕が崩れ落ちる。
その意識が失われたことを確かめ、朝凪は隠し扉を開くと、中へ滑り込んだ。
「姫様……」
返事はなかった。桜桃はもう、そこにはいなかった。
言いつけ通り、真っ直ぐ進んだのだ。
そのことに安堵した途端、張りつめていたものが切れた。
「……っ」
ごぽり、と口から血が溢れた。朝凪は壁へ背を預け、その場に座り込んだ。
息ができない。身体から急速に力が抜けていく。薄れていく意識の中で、どういうわけか昔のことを思い出した。
『元気を出して、朝凪』
六花が笑っていた。
『昊夜様と姫様が結婚しても、私たちも侍女や従者としてついていけばいいのよ』
あの頃の自分は、何と答えただろう。
また別の日。桜桃が何かしでかしたあと、六花と二人で顔を見合わせた。
『姫様、本当に困った方ね』
そう言いながら、六花は笑っていた。朝凪も笑った。ずっと続くと思っていた。桜桃がいて。六花がいて。自分がその傍にいる。
形が変わっても、それだけは変わらないのだと、どこかで思っていた。
「……六花」
声になったかも分からない。どれほど大切な人だったのか、失ってから初めて気づいた。
一筋だけ、涙が頬を伝う。
(──姫様は)
無事に外へ出られただろうか。
そこで意識が途切れかけた。
血の匂いに満ちた暗闇の中、ふと、白檀と梅の香りがした。ほんの微かに。血の匂いの奥で、その香りだけが不思議なほど優しく残っていた。
視線を落とすと、すぐ傍の石畳に、小さな布切れが落ちていた。見覚えのある、淡い色の絹。
朝凪は震える手を伸ばした。
指先が触れた途端、懐かしい香りが、もう一度ふわりと立ちのぼった。
「……姫様」
朝凪はそれを拾い上げ、血に濡れた手の中へ、そっと握り込んだ。
◇
朝凪は目を開けた。
治部の部屋。目の前には、清明が出した遺品の記録がある。
一年近く前の記憶が、急速に現在へ戻ってくる。
六花の花びらは、遺品にはなく、あの夜、倒れた近衛の身体を探っていた者がいた。そして飛燕たちは、皇女を追って西回廊まで来た。
朝凪の指が、ゆっくりと帳面の端を押さえる。
──もしかして。
「あのとき……飛燕たちは、花びらを探していたのか……?」
だが、確かめる術は、もうない。飛燕はその後死んでいる。
朝凪はしばらく、何も記されていない遺品欄を見つめていた。
***
日向は薄い帳面を棚から抜き取った。
謀反当日の記録は、すでに何度も見ている。どこで最初の戦闘が起き、どの門が破られたのか。
それでも、何かを見落としている気がしてならなかった。
桂宮が兵を挙げたのは間違いない。だが、あの夜の宮城は、あまりにも早く崩れた。
門を通過した人と物を記した帳面を、謀反当日の朝から順に指で押さえながら目を通していく。やがて、日向の指が止まった。
「……ん?」
八重御所へ荷台が五台搬入されている。修繕用の木材、布、油だ。修繕の話など、一度も聞いていなかった。
日向は帳面を持ったまま、別の棚へ向かった。
八重御所の修繕記録の同じ日を開くが、その日には何も書かれていない。
「……修繕なんかしてない」
では、この荷は何だ。
入ったのは五台。その日のうちに外へ出たものを追う。
「二台?」
五台入っており、出たのは二台。残り三台は、記録がない。
謀反の混乱で記録されなかっただけかもしれない。だが、日向の中に引っかかるものがあった。
さらに頁をめくり、謀反後の宮城内の被害確認の項を見る。
焼けた荷車がある。──三台。
「…………」
一台は東回廊の近く。一台は八重御所の外郭。そしてもう一台は。
最初に近衛と反乱兵が交戦した場所より、内側だった。三台とも、謀反の夜、宮城の中で焼けている。
「……待て」
日向は搬入の刻限を見る。
桂宮襲撃の急報、そして北門の火事より前。まだ誰も、謀反が起こるなど知らなかった頃だ。
「最初から中にいたのか?」
もし、荷車に人を隠していたなら。あるいは、武具を運び込んでいたなら。外から門を破る必要などない。
騒ぎが起きる前に入り込み、朝凪が外へ出るのを待ち、日向が北へ動くのを待ち、宮城の警備が薄くなったところで、内側から動けばいい。
だから早かった。あまりにも早く、八重御所まで敵が届いた。
廊下から足音が聞こえた。日向は顔を上げた。
「……面白くなってきたな」
まったく面白そうではない顔で呟き、帳面を元の場所へ戻した。




