第四話 皇子、舞姫を訪ねる
「神祇官の執務室に、賊が入った?」
近衛の執務室で書状に目を通していた昊夜は、部下の報告に顔を上げた。
机を挟んだ向こうには、近衛の一人が膝をついている。
「はい。神祇官の六花殿が執務室へ戻ったところ、室内に何者かが侵入していたとのことです」
昊夜の脳裏に浮かんだのは、昼間の花宴だった。
舞姫として舞っていた娘。自分と目が合った途端、ひどく気まずそうに視線を逸らした顔。
そして、衣の間から覗いた、小さな金属の花びら。
「本人は」
「怪我はありません。侵入者は六花殿と鉢合わせたのち逃走。朝凪殿が追跡しましたが、捕らえるには至らなかったとのことです」
「朝凪が?」
「はい」
「賊の目的は」
「分かっておりません。室内はかなり荒らされていたようですが、金品にはほとんど手をつけていなかったと」
「盗まれた物は」
「それが……本人から、正式な届け出が出ておりません」
「何も盗られていないのか」
「いえ。何かがなくなっている可能性はあるようですが、六花殿からは私物の紛失とだけ」
「何を失くした」
「そこまでは」
昊夜は書状を机へ置いた。
「神祇官の記録に被害は」
「現在確認中です。ただ、荒らされたのは六花殿個人の執務室が中心だったとのことです」
「皇統に関する記録は?」
「保管庫は別にございます。今のところ、侵入された形跡はないと」
神祇官。皇統を記録し、その正統性を守る官。その一人が、宮城の中で狙われた。単なる盗人として片づけていい話ではない。
「警備を増やせ」
「御意」
「神祇官周辺だけではない。門を通った者、荷を運び込んだ者、今日一日の出入りをすべて洗え。侵入した者がまだ宮城内にいる可能性も考えろ」
「はい」
「それと」
立ち上がりかけた男が止まった。昊夜は机上の報告書へ目を落とした。
「六花には、私が話を聞く」
「昊夜様が直々に、ですか?」
「ああ」
近衛は一瞬だけ意外そうな顔をしたが、すぐに頭を下げた。
「御意」
扉が閉まる。一人になった室内で、昊夜はしばらく動かなかった。
(六花は、何を盗られた?)
そして、なぜそれを近衛に言わない。
「……本人に聞けば分かるか」
昊夜は立ち上がり、刀を取った。
彼女が襲われたということだけなら、近衛として調べるべき事件に過ぎない。
昊夜の脳裏に昼間見たあの花びらが浮かぶ。
『父に貰いました』
『日向に?』
『え、ええ……まあ……』
目を逸らした桜桃の顔が、なぜかどうしても頭から離れなかった。
◇
翌朝、宮城へ続く大路を歩きながら、朝凪は少し前を歩く桜桃へ何度目か分からない視線を向けた。
昨夜から、ずっとこの調子だった。
「姫様、私が傍にいないときは、絶対に一人で出歩かないでください」
桜桃は歩きながら朝凪を見上げた。
「無理よ」
間髪入れずに返され、朝凪が黙る。
「……姫様」
「だって、ずっと傍にいることはできないでしょう。朝凪にも仕事があるんだから」
「それはそうですが」
「私にも仕事があるのよ。厠までついてくるつもり?」
「そこまでは申しません」
「なら、一人になるときはあるでしょう」
「人のいるところを歩いてください」
「歩いてるわよ」
「昨日はお一人でした」
「あれは自分の執務室に戻っただけよ」
「その執務室に賊がいたんです」
言い返せなかった。桜桃は口を閉じ、少しだけ歩みを速めた。朝凪も同じだけ速める。
「それに、昨日はあなたが来てくれたでしょう」
「昨日は、です」
「今日もいるじゃない」
「ですから、姫様がお許しになるならいつでもお傍にいます」
「きりがないわ」
朝凪は答えなかった。桜桃は横目でその顔を見る。
冗談で言っているわけではないらしい。
昨日、侵入者を取り逃がしてからというもの、朝凪の警戒は明らかに強くなっていた。
花びらの鍵だけが狙われたのだとすれば、次に何を狙われるのか分からない。あるいは、鍵を持っていた桜桃自身が目的だった可能性さえある。
朝凪が心配する理由も分かる。
「じゃあ、あなたがいないときは舞姫と一緒にいる。それでいい?」
朝凪がようやく桜桃を見る。
「できれば、もう一人」
「増えたわね」
「昨日の今日ですから」
「舞姫ともう一人ね。分かった」
「知らない者についていかないでください」
「子供じゃないのよ」
「怪しい人に呼び止められても立ち止まらない」
「朝凪」
「食べ物を渡されても――」
「朝凪!」
思わず声を上げると、朝凪はようやく口を閉じた。桜桃は大きく息を吐く。
「私、十七になったのよ」
「存じております」
「なら、もう少し信用して」
「信用しております」
即答だった。
「信用しているからこそ心配なんです」
「……どういう理屈よ」
朝凪はそれには答えなかった。
宮城の門が近づいてくる。朝の光を受けた瓦屋根の向こうには、いくつもの殿舎が重なって見えた。
桜桃はそこへ目を向けながら、ふと筥迫に手を触れた。
昨日まで、そこには父から貰った小さな花びらがあった。ただのお守りだと思っていたものが隠し通路を開く鍵だったと知った今では、なくなった重みが妙に大きく感じられる。
誰が盗んだのか。なぜ、あれだけを持ち去ったのか。もし、朝凪の言う通り、あれが隠し通路を開くものなら――。
「姫様」
朝凪の声に、桜桃は我に返った。
「ここからは六花です」
「あ……そうだった」
「お気をつけください」
「分かってる」
門をくぐる。その瞬間から、桜桃は皇女ではなくなる。神祇官、六花。日向の娘。そして、どういうわけか朝凪の許嫁ということになっている。
昨夜の暁の顔を思い出し、桜桃は小さくため息をついた。
「どうかなさいましたか」
「なんでもない」
今それを考えると、余計に疲れる。神祇官の建物へ着く頃には、すでに朝の務めが始まっていた。行き交う官吏に会釈を返しながら、桜桃は自室へ向かう。
昨日荒らされた部屋は、ひとまず片づけられていた。倒されていた棚も元に戻り、散らばっていた書物も積み直されている。それでも、昨日までと同じ部屋には見えなかった。
桜桃が中へ入ると、朝凪も当然のようについてきた。
「朝凪、ここまで来たら大丈夫よ」
「昨日、ここに賊がいたんですが」
「……そうだったわね」
朝凪が室内を見回す。
「本当にここにいるつもり?」
「少なくとも、人が増えるまでは」
「仕事は?」
「あとで行きます」
「怒られても知らないわよ」
「構いません」
「あなたね……」
そのとき、廊下の向こうがわずかに騒がしくなった。数人の足音と、神祇官の者が何かを言う声が聞こえ、すぐに静まる。朝凪が戸口へ目を向け、桜桃もつられて振り返る。
やがて、開いた戸の向こうに長身の男が現れた。桜桃の目が丸くなる。
「……昊夜様?」
昊夜は近衛の装束を身につけていた。その後ろには二人の近衛が控えている。
桜桃と目が合うと、昊夜は一度だけ室内へ視線を巡らせた。そして、朝凪を見る。
「なぜお前がいる」
開口一番、それだった。朝凪は表情を変えない。
「六花の護衛だ」
「誰が命じた」
「誰にも」
「……そうか」
短い返事だったが、何か言いたげな間があった。桜桃は二人を交互に見た。
「昊夜様。何か御用でしょうか」
「昨日の件だ」
昊夜が室内へ入ってくる。
「宮城内で神祇官の部屋に賊が入った。近衛で調べる」
「あ……」
そこまで大事になっているとは思わなかった。昊夜は桜桃の前で足を止める。
「怪我は」
「ありません」
「本当か?」
「はい。朝凪が来てくれましたから」
昊夜の視線が、一瞬だけ朝凪へ向いた。
「そうか」
それだけ言うと、再び桜桃を見る。
「室内を確認してもいいか」
「どうぞ」
昊夜は荒らされた痕跡を一つずつ見ていった。
「書類は」
「すべて確認しました。神祇官の記録で、なくなっているものはありません」
「なら、ここへ入った目的は記録ではない可能性が高いな」
昊夜の視線が文机の上を滑る。
「金は」
「残っています」
「装飾品」
「それも」
「他に盗られたものは」
桜桃の返事が、一拍遅れた。
「……私物を、一つ」
昊夜が振り返る。
「何だ」
「大したものではありません」
「大したものではない?」
「はい」
「大したものでもない物を盗るために、わざわざ忍び込んだのか」
桜桃は言葉に詰まった。隣にいた朝凪が口を開く。
「六花にとっては大切な私物だ。金銭的な価値はない」
昊夜の目が朝凪へ向く。
「お前には聞いていない」
「……」
昊夜はしばらく朝凪を見ていたが、やがて桜桃へ視線を戻した。その目が、ふと桜桃の胸元に下がる。
筥迫。昨日の花宴でも身につけていたものだった。
桜桃は気づかなかったが、朝凪だけが、その視線の先に気づいた。
「六花」
「はい?」
昊夜が静かに尋ねた。
「昨日、そこについていた花びらはどうした」
桜桃の顔から、表情が消えた。朝凪も動かない。昊夜は二人を見た。
「……それを盗られたのか」
桜桃は朝凪に助けを求めるように視線を動かした。朝凪も桜桃に視線を向ける。
それだけで、昊夜には答えとして充分だった。
「そうか。……なら、話が変わる」
「……何がですか」
昊夜はゆっくりと桜桃を見る。
「六花。その花びらについて、知っていることをすべて話せ」




