第三話 元近衛中将は過保護
一年前。炎が、夜空を赤く染めていた。宮城のあちこちから怒号が上がり、鐘の音が絶え間なく響いている。
異変に気づき宮城へ戻った朝凪のもとへ、近衛が息を切らして駆け寄ってきた。
「中将! 八重御所に賊が侵入したとの報せが!」
「姫様は」
「いまだ確認できておりません!」
朝凪は眉を寄せた。
「三番隊との連絡は」
「途絶えております!」
三番隊なら、何かあれば桜桃を迷わず逃がすはずだ。
日向も宮中の異変を知れば、陛下と桜桃のもとへ向かうだろう。
「ここにいる者は八重御所へ向かえ。皇族方の安否を確認し、発見次第、安全な場所へ退避させろ。負傷者の救護も忘れるな」
「御意!」
「中将、桜桃様はいかがいたしますか」
「姫様は私が迎えに行く」
「ですが、まだ居場所も分かっておりません!」
朝凪は宮城の奥へと続く回廊を見据えた。
「姫様は西回廊へ来る」
「西回廊、ですか?」
「私は確実に落ち合えるように、西回廊から姫様の部屋へ向かう」
朝凪は懐へ手を入れた。指先に触れたのは、桜の花びらを象った鍵だった。
西回廊の奥。普段はただの壁にしか見えない場所に、宮城の外へ通じる古い隠し通路がある。
そして、その入口を開けられるのが、この花びらだった。
あの夜、朝凪はこの鍵を使って扉を開き、桜桃をその向こうへ押し込んだ。
◇
朝凪は掌の上にある花びらを見つめていた。
「これは、西回廊にある隠し通路を開く鍵です」
「……鍵?」
桜桃は朝凪の掌を覗き込んだ。どう見ても、小さな桜の花びらである。
「ええ。非常時に姫様を宮城の外へ逃がすようにと、星河帝からいただいたものです」
桜桃はしばらく花びらを見つめたあと、納得がいかないように眉を寄せた。
「でも私、そんなこと知らなかったわよ」
「お教えしておりませんでしたから」
「どうして?」
「……姫様がおひとりで鍵を使う場面はありませんので」
「私が逃げるための通路なのに?」
「何かあれば私が必ず姫様を見つけますので、私が知っていれば充分かと」
桜桃はじっと朝凪を見た。
「……何かおかしいですか?」
「全部よ」
朝凪は困ったように眉を下げた。
「ですが、あの夜も問題なくお逃がしできました」
「そういう問題じゃないでしょう」
実際にあの夜、朝凪は迷うことなく隠し通路を開いた。桜桃は何も知らないまま、その中へ押し込まれたのである。
父も朝凪も、最初から自分に説明するつもりなどなかったのだ。
「……過保護」
「何かおっしゃいましたか?」
「何も」
桜桃はそっぽを向いた。
二人が宮城を出る頃には、空が茜色に染まり始めていた。
並んで歩きながらも、朝凪の意識は桜桃の部屋が荒らされていたことへ戻っていた。
侵入者は金品には目もくれず、花びらの鍵だけを持ち去った。偶然とは思えない。
(隠し通路の存在が知られている?)
いや。それは考えにくい。あの通路の存在を知る者は、ごく限られていた。まして、どの花びらがどの入口を開くのかまで知る者となれば──。
「朝凪?」
隣から呼ばれ、朝凪は顔を上げた。
「どうしたの。さっきから難しい顔をして」
「……いえ。少し考え事を」
「鍵のこと?」
「はい」
桜桃が自分の筥迫へ触れる。そこにはもう、あの花びらはない。朝凪がそれを見て、再び考え込もうとしたとき。
「六花殿」
前方から声が飛んできて、桜桃は顔を上げた。向こうから歩いてきた男が、二人の姿を見て足を止めた。
「暁様」
「二人で帰るのか」
「ええ、まあ」
暁の視線が桜桃から朝凪へ移る。
「そういえば、同じ家で暮らしていると聞いたが」
桜桃が答えるより先に、朝凪が頷いた。
「女性の一人暮らしは危険ですから」
「なるほど」
暁は何やら一人で納得したように頷いた。そして二人を交互に見る。
「そうかそうか。まあ、仲良くな」
朝凪は意味が分からないという顔をしたが、桜桃には分かった。ものすごく分かった。
「暁様、今、何か誤解していません?」
「何がだ?」
「いえ……」
暁は再び二人を見比べ、満足そうに笑った。
「日向殿も安心するだろう」
嫌な予感がした。
「……日向が何を安心するのですか」
「何をって……許嫁が仲良くしているんだから、安心するだろう」
桜桃と朝凪は揃って黙った。夕暮れの道に、妙な沈黙が流れる。
「……その話、まだ続いているんですか」
桜桃が顔をしかめると、暁は不思議そうに首を傾げた。
「続くも何も、日向殿も否定していなかったぞ」
「…………」
否定できない。今の自分は六花なのだ。そして六花の父は、日向。
謀反以前、六花と朝凪に婚姻の話があったのだから、桜桃が勝手に「違います」と言うわけにもいかない。
暁は日向の従弟にあたる。つまり彼から見れば、目の前にいるのは親類の娘と、その許嫁である。その二人が同じ家から揃って宮城へ通い、帰りも並んで帰っている。誤解するなというほうが難しいのかもしれない。
「まあ、邪魔したな」
「暁様、待ってください」
「またな」
暁は片手を上げ、そのまま去っていった。桜桃は遠ざかる背中を見送った。
「……絶対、誤解してるわ」
「そうですね」
「朝凪も何か言ってよ」
「私が否定すると、かえって不自然かと」
「それはそうだけど……!」
いつも通り淡々と言う朝凪に、桜桃は諦めたようにため息をついた。
◇
その頃。宮城の外側、人通りの途絶えた古い路地に、日向が立っていた。日向は周囲に人影がないことを確かめると、懐から小さなものを取り出した。
桜の花びらを象った金具。
指先で摘まみ、壁の一角にあるわずかな窪みへ差し込む。かちり、と小さな音がした。石壁の一部が、音もなく奥へ沈む。現れた隙間へ身体を滑り込ませると、日向は慣れた様子で暗い通路を進んだ。
灯りは持たない。何度通ったか分からない道だった。やがて別の扉へ辿り着き、わずかに開いて外の様子を窺う。
人はいない。
日向は外へ出ると、何事もなかったように扉を閉じた。そこは八重御所の人通りが少ない南回廊。
かつて近衛大将だった頃なら、こんな真似をする必要はなかった。けれど、今の日向は、近衛でもなければ宮城に勤める官吏でもない。見つかれば、当然咎められる。
日向は花びらを懐へ戻し、近衛府へ向かった。
──あの夜。宮城が落ちた夜。
その少し前に、何が起きていたのか、日向は今もそれを追っている。
記憶は、謀反が始まる少し前へ遡る。
翌日に桜桃の成人の儀を控えたこの日、八重御所では皇族を招いた宴が催されることになっていた。宴に先立ち、桜桃と昊夜の初顔合わせも予定されている。
そのため、八重御所にはすでに三番隊と四番隊が配置され、皇族を迎える準備が進められていた。
『桂宮殿下の乗った輿が、帝都の三条通りで何者かに襲撃された』
報告を受けた日向は、広げられた帝都の図へ目を落とした。
そして、ほぼ同じ刻限に、別の報告も上がっていた。
皇居北門付近で火の手が上がっている。騒ぎはまだ小さいが、放置はできなかった。
『朝凪と一番隊は三条通りへ。桂宮殿下の救出を』
朝凪が頷く。
『御意』
『北門付近の火事は俺と二番隊が向かう。三番隊は桜桃様と昊夜の警護。四番隊は宴の会場を固めろ。その他の者も持ち場を離れるな』
『御意!』
近衛たちが一斉に動き始める。朝凪も三条通りへ向かおうとして、ふと足を止めた。
『三番隊隊長』
呼ばれた男が振り返る。
『はい』
朝凪は八重御所を一度見た。
『姫様を頼みます』
『承知しております』
『あの方は走れます。何かあれば、迷わず逃がしてください』
三番隊隊長が一瞬だけ目を瞬いた。
『……はい』
傍らで聞いていた日向は、呆れたように朝凪を見る。
『お前は過保護だな』
『何も起きなければ、それで結構です』
『それはそうだが』
朝凪は答えず、帝都の図へ視線を戻した。
三条通り。
北門。
『日向殿』
『なんだ』
『同時多発的な事件……妙ではありませんか』
日向も同じことを考えていた。偶然にしては、重なりすぎている。
『……ああ』
日向は八重御所を見上げた。
『桂宮殿下の無事が分かったら、すぐ戻ってこい』
『御意』
朝凪が走り出す。
それが、謀反が始まる前に日向が朝凪を見た最後だった。
嫌な予感はしていた。朝凪も気づいていた。
それでも、近衛である以上、皇族が襲われたという報せを無視することはできなかった。
日向は以前自分が使っていた近衛大将の執務室の中で目を開けた。
あの夜、自分は陛下を守れなかった。
謀反を率いたのは桂宮だった。それは疑いようがない。
自らの輿を襲わせ、近衛を三条通りへ誘い出した。その間に宮中では賊が蜂起し、星河帝は命を落とした。
そしてその後、桂宮は襲撃を生き延びた皇族として宮城へ戻ってきた。だが、その傍らには、いつの間にか武装した兵たちが従っていた。
『陛下は亡くなられた。ならば、次に帝位に就くべきは私だ』
あのときの桂宮の声を、日向は今も覚えている。
宮城は燃え、近衛たちは次々と倒れていた。星河帝の亡骸は、まだ冷たくなりきってもいなかった。そのような中で、桂宮は玉座を求めた。
『……貴様が、仕組んだのか』
日向が問うと、桂宮は答えなかった。ただ、傍らの兵へ目配せをした。
その瞬間、日向は刀を抜いた。兵たちが動き出すより早く間合いを詰め、桂宮の首を刎ねた。
それが近衛大将としての判断だったのか、主君を奪われた怒りだったのか、今となっては日向自身にも分からない。
ただ一つ確かなのは、桂宮が何を知っていたのか、何も聞き出せないまま終わったということだった。
首謀者は死に、謀反は終わった。本来なら、それで終わるはずだった。
日向は執務室の棚へ歩いていく。
埃を被った棚。
積み上げられた古い箱。
近衛大将の席は、あの謀反以来、空いたままだった。今は昊夜が中将として近衛を率いているが、大将の執務室は使われず、事件後に運び込まれた品々がそのまま残されている。
日向は一つの箱の前で足を止めた。
桂宮が首謀者だったことと、あの夜、宮城で起きたことのすべてを桂宮が仕組んだことは、同じではない。
日向は箱へ手を伸ばした。
一年近く経った今なお、日向が謀反を調べ続けている理由は一つだった。どうしても、謀反が終わったようには思えなかった。




