第二話 舞姫、盗まれる
桜桃が異変に気づいたのは、花宴を終えて神祇官の部屋へ戻ったときだった。
襖が少し開いている。出るときには確かに閉めたはずだった。
桜桃は足を止めた。
「……?」
そっと襖へ手をかける。開いた瞬間、息を呑んだ。
文机の引き出しはすべて開け放たれ、中に収めていた書物や紙が床へ散らばっている。棚の箱も蓋を外され、衣を入れていた長櫃まで荒らされていた。
風ではない。誰かが入った形跡が確かにある。
そのとき、部屋の奥で、物音がした。
「誰──」
人影が窓から飛び出した。
「待って!」
桜桃は反射的に追いかけた。庭へ出た人影が、桜の木々の間を走っていく。
「待ちなさい!」
追って庭へ踏み出した瞬間、別の影が桜桃の横を駆け抜けた。
「六花! 下がってください!」
聞き慣れた声に、桜桃の足が止まる。
「朝凪!」
朝凪は振り返らない。
赤褐色の髪を靡かせ、腰の刀へ手をかけたまま、逃げる人影を追っていく。
その背中を見た瞬間、燃え盛る炎が、桜桃の目の前に蘇った。
『ここから外へ出られます』
背後では、敵兵の声が迫っていた。見たこともない木の扉を前に、桜桃は息を切らして朝凪を見上げた。
朝凪は扉に手をかけたまま、動きを止めた。そして、桜桃の腕を引き、抱き寄せた。突然のことに息を呑む桜桃の耳元へ、低い声が落ちた。
『真っ直ぐ進んでください』
背中へ添えられた手に力がこもる。
次の瞬間、桜桃の身体は扉の向こうへ押し込まれていた。
扉が閉じる。最後に見えたのは、敵のほうへ向き直る朝凪の背中だった。
あの夜も、今もそうだった。朝凪はいつも、桜桃を先に逃がす。
幼い頃から桜桃の傍らに仕え続けてきた護衛であり、かつては近衛中将を務めていた男。
謀反の夜も身を挺して桜桃を逃がし、その後も、名を失った彼女の傍らに残った。近衛中将という地位を捨ててまでも。
◇
朝凪は足を止めた。黒い影は二つ先の回廊を抜けると、脇に建つ二棟の建物の間へ身を滑り込ませた。
「……そこを通るのか」
古い建物と、あとから増築された渡殿との間に残った、ごく狭い隙間だった。
朝凪は迷わずあとを追い、身体を横にして足を踏み入れる。だが、肩が両側の壁に当たった。
「……っ」
身体を捻るが、それでも入らない。朝凪は一度身を引くと、隙間の奥へ目を凝らした。黒い衣の裾が、一瞬だけ見えた。
小柄だ。
近衛の男たちと比べれば明らかに身体が小さい。黒装束に覆われていたため、顔も性別も分からなかったが、その細い身体だからこそ通れる場所なのだろう。
朝凪はすぐに隙間から離れ、建物を迂回した。反対側へ回り込むまで、それほど時間はかからなかったが、そこにはもう誰もいなかった。
「…………」
先にはいくつもの道が延び、人の姿もある。このまま闇雲に追えば、かえって桜桃から離れることになる。
朝凪は追跡を諦め、踵を返した。深追いするべきではない。
先ほど走ってきた道を戻りながら、朝凪は眉を寄せた。
また、姫様が狙われているのか。何のために。
謀反から一年。六花という名で生きるようになってからも、桜桃は何度となく厄介事へ首を突っ込んできた。
けれど、今回は違う。向こうから、桜桃のいる場所へ入り込んできた。それが、ひどく嫌なものを胸の奥に残した。
炎に染まった回廊が、一瞬だけ脳裏を過る。腕の中に抱き寄せた、小さな身体。
『真っ直ぐ進んでください』
あのとき、自分にできたのは、扉の向こうへ押し込み、一人で行かせることだけだった。
どうしても戻らなければならなかった。置いていきたくなかった。姫様も。六花も。あの場所に、たった一人で残したくなかった。
あんな別れ方は、もう二度としたくない。
朝凪は歩調を速めた。
回廊の先に、春の日差しが落ちている。風に運ばれてきた桜の花びらが一枚、足元を横切った。それを見た途端、今度は別の記憶が蘇った。
同じ春だった。
『そうだ。見て。どう? 今夜の衣装』
華やかな衣をまとった桜桃が、両袖を広げていた。まだ何も失われていなかった頃。
『この格好で昊夜様にお会いするの』
嬉しそうに自分の前でくるりと身体の向きを変え、これでいいだろうかと笑っていた。
『……とても、お綺麗です』
『よかった。昊夜様も、そう思ってくださるかしら』
あのときは、少しくらい複雑に思ったところで、どうということはなかった。桜桃が嬉しそうなら、それでいいと、そう思っていた。
その夜、桜桃は昊夜と会い、言葉を交わす。二人が互いを気に入れば、やがて婚姻の話も進むのだろう。それはごく当たり前に訪れる未来なのだと思っていた。
けれど、そんな未来は来なかった。
一年経った今、彼女は桜桃として昊夜の前に立つことさえできない。
朝凪は足を止め、ふと、先程耳にした話を思い出した。
花宴で六花が転びかけ、昊夜が助けたという話が、舞姫たちの間では、随分と話題になっていた。
「……」
──よりによって。
そんな言葉が浮かび、朝凪は眉間を押さえた。
何を考えているのだ、自分は。
転びかけた桜桃を助けたというのなら、礼を言うべきことである。そもそも、転びかけた桜桃にも問題がある。
──だが。
『昊夜様も、そう思ってくださるかしら』
あれほど楽しみにしていた相手である。六花として改めて出会った今、桜桃はどんな気持ちでいるのだろう。
そこまで考えたところで、朝凪は小さく息を吐いた。今、考えることではない。
回廊を曲がると、荒らされた部屋の前には、先ほどと同じ場所に桜桃が立っていた。
その姿を見た瞬間、胸の奥に残っていた硬いものが、ようやく少しだけ解けた。朝凪は彼女のもとへ歩み寄る。
「申し訳ございません。逃がしました」
「そう……」
桜桃がこちらを見る。朝凪はまず、その顔を見た。続いて肩、腕、足元へと視線を落とす。
「怪我は?」
「大丈夫。何もされてないわ」
「よかった」
それを聞いて、ようやく息をつく。朝凪の目元が和んだ。そして、彼の大きな手が桜桃の頭に伸びてくる。
「今日の花びらも姫様のことが好きみたいですね」
髪に紛れた花びらをそっと摘むと、桜桃はくすりと笑った。
「またそれ。一年前も同じことを言ってたわ」
「そうですね」
朝凪は花びらをふわりと風に逃しながら、可笑しそうに笑う桜桃を見つめた。
──今度は、ちゃんと戻ってこられた。
◇
二人で部屋へ戻る。改めて見ても、ひどい有様だった。
朝凪は床へ散らばった書物を踏まないように中へ入り、開け放たれた引き出しを一つずつ確かめていく。
「泥棒……?」
「そのようには見えますが」
朝凪はしゃがみ込み、床に落ちていた箱を拾い上げた。
「何か失くなったものはありますか」
「待って。確認するわ」
桜桃も部屋を見回した。
書物。筆。衣。祭祀に使う細かな道具。引き出しに入れていた金も――。
「あれ?」
「どうしました」
「金品が残ってる」
桜桃が小箱を開くと、中には銀がそのまま残されていた。
「……では、物盗りではありませんね」
「でも、こんなに荒らして……何かを探していたのかしら」
何気なくそう言ってから、桜桃は胸元へ手をやった。空だった。
そこで初めて思い出す。舞が終わったあと、一度部屋へ戻った際に筥迫を文机の小箱へしまったのだった。
桜桃は荒らされた小箱から筥迫を拾い上げた。中身も残っている。
「……あ」
紐の先を見て、動きが止まる。
「花びらがない」
「花びら?」
「ここにつけていた金具。父上からいただいた──」
そこまで言ったところで、朝凪の表情が険しくなった。
桜桃は気づかず、散らばった物の中を探し続ける。
「ずっと筥迫に付けていたのに……!」
「……姫様」
低くなった声に、ようやく桜桃が振り返った。朝凪は桜桃に目を向けた。
「その花びらを、どこで?」
「どこって……だから、父上にいただいたのよ。ずっと昔に」
「今まで、ずっとお持ちだったのですか」
「ええ。お守りだと言われて……」
朝凪が黙り込む。
「朝凪?」
しばらくして、朝凪は懐へ手を入れた。
「……このようなものでしたか」
差し出された掌を見て、桜桃は目を見開いた。そこには、なくなったものとよく似た、金属の花びらが載っていた。
「……どうして、朝凪が持っているの?」
朝凪は答えなかった。掌の花びらを見つめたまま、眉を寄せる。やがて、ぽつりと呟く。
「これは、ただの飾りではありません」
「え?」
「あの夜、姫様を逃がした隠し通路」
桜桃の顔から、表情が消えた。
朝凪は静かに告げた。
「その入口を開ける鍵です」




