第一話 舞姫、怪しまれる
春。宮城の庭は、薄紅に染まっていた。
幾重にも枝を広げた桜は今まさに盛りを迎え、風が渡るたび、枝先からこぼれた花びらが空を埋める。
庭の中央にはこの日のために舞台が設けられ、その周囲を色鮮やかな衣をまとった女官や官吏たちが囲んでいた。
年に一度、春の訪れを寿ぐ花宴。
笛の音が高く澄み、琴の音がそれを追う。
舞台では、舞姫たちが長い袖を翻していた。
桜の花びらを踏まないように進む足取りに合わせ、薄衣がふわりと広がる。舞台の上へ降り積もった花びらまでが舞の一部であるかのように、踏み出すたびに淡い色が宙へ舞い上がる。一人の舞姫の髪に花びらが紛れ込んだ。
舞を終えた舞姫たちが回廊を歩く。
「六花」
後ろの舞姫から声をかけられて、六花と呼ばれた少女が振り向いた。
「はい?」
呼び止めた舞姫は頬を上気させたまま、横を見ている。
「見て。昊夜様よ」
「え?」
促されるまま視線を向ける。
回廊の向こうを、数人の近衛を従えて一人の男が歩いていた。
墨色の長い髪を背へ流し、近衛の装束をまとっている。
濃灰の長上衣の立ち襟には二輪の桜章がついていた。近衛中将だ。
彼は、花宴の華やぎなど自分には関係がないとでもいうように、舞台へ目を向けることもなく歩いていた。
──京極宮昊夜。帝の息子。
その名を知らない者は、この宮城にはほとんどいない。
「あ、こっち見た」
舞姫が小さく声を弾ませた。その言葉とほとんど同時に、昊夜がこちらを向いた。
漆黒の瞳と、ほんの一瞬目が合い、反射的に顔を逸らした。胸の奥が、妙にざわつく。
『京極宮昊夜を、お前の婚約者候補とする』
遠い声が、耳の奥に蘇った。まだ八重御所で暮らしていた頃。
先帝の星河帝に呼ばれ、何事かと思って座った自分へ、あまりにも平然と告げられた言葉だった。
『……昊夜様を?』
『不満か』
『いえ。そういうわけではありませんけれど……』
会ったことすらない相手だった。
知っているのは、星河帝が目をかけている皇族であること。若くして朝廷軍で武功を重ねていること。そして、いずれ自分の夫となるかもしれない人だということ。
だから少しだけ、会ってみたいと思っていた。
どんな人なのだろう。
どんな声で話すのだろう。
自分を見て、どんな顔をするのだろう。
かつてはそんな風に思っていたことを思い出し、少女は抱えていた神楽鈴へ視線を落とした。
(私には関係ない……)
あれは、過去のことなのだから。
「六花?」
「……あ、ごめんなさい。何でした?」
「もう。昊夜様に見惚れていた?」
「違います」
思わず返すと、舞姫が楽しそうに笑った。その名を呼ばれることには、もう慣れた。
──六花。
今では振り返るまでになった。けれど、一年前まで、その名は自分のものではなかった。
少女の名は桜桃。
この国の皇女だった。
『もし名前を聞かれたら――六花と』
侍女の六花が、真剣な瞳で桜桃を見つめていた。
炎が上がっていた。遠くで怒号が響き、廊下を駆ける無数の足音が、燃え落ちる柱の音と重なった。
六花は、自らの衣へ手をかけた。
『姫様、この衣を着てください』
『でも……』
『姫様のお姿ではすぐに見つかります』
差し出された衣を見て、桜桃は息を呑んだ。
六花は、急かすように桜桃の衣へ手を伸ばし、震える指で紐を解いていくと、互いの衣を交換した。
皇女の華やかな衣をまとった六花。
侍女の衣をまとった桜桃。
『私の名を使ってください。生きるために。あなたが生きることに、意味があります』
六花は笑った。いつもと同じ、穏やかな笑顔だった。
次の瞬間には身を翻し、燃える廊下の向こうへ走り出していた。
『六花!!』
伸ばした手は届かない。
兵たちが迫る。その向こうから、鋭い声が飛んだ。
『二名は六花を援護! 残りは姫様を連れて離脱!』
近衛の朝凪だった。抜き放った刀で敵兵を退けながら、こちらへ走ってくる。
『姫様、行きましょう!』
朝凪に手を引かれ、桜桃は何度も振り返った。
炎の向こう。自分の衣をまとった六花の姿が、小さくなっていく。
それが、生きている六花を見た最後だった。
後に、八重御所の変と呼ばれる謀反。
父、星河帝や多くの皇族、皇族に仕える者たちがその夜に亡くなった。
──そして、私は皇女・桜桃の名を失った。
◇
「六花、戻りましょう」
「ええ」
舞姫に呼ばれて、桜桃は神楽鈴を抱え直した。
先ほどより風が強くなったのか、桜の枝が大きく揺れ、舞台の上だけでなく回廊にまで花びらが吹き込んでいた。
桜桃が他の舞姫たちの間を縫うように歩きはじめた、そのときだった。
「あっ」
強い風が吹いた。
舞姫の長い袖が煽られ、桜桃の腕に絡む。抱えていた神楽鈴が傾き、慌てて支えようとした足が衣の裾を踏んだ。
身体がぐらりと傾く。
転ぶ、と思った瞬間、横から伸びてきた手が、桜桃の腕を掴んだ。
「危ない」
低い声だった。倒れかけた身体が引き戻される。
桜桃はほっと息を吐き、反射的に顔を上げた。
「ありがとうございます──」
言葉が止まった。墨色の長い髪。
間近にある、端正ながらも近寄りがたい顔。
先ほど回廊の向こうを歩いていたはずの男が、すぐ目の前に立っていた。
「……こ、昊夜様!!」
思わず声が裏返った。
周囲の舞姫たちがにわかに色めき立った。
「昊夜様……」
「六花を助けたわ」
「いいな……」
「ちょっと、聞こえるわよ」
ひそひそと交わされる声が、やけにはっきり耳に届く。
桜桃はますます落ち着かなくなった。
「も、申し訳ございません。ありがとうございます。もう大丈夫ですので」
「そうか」
昊夜が手を離す。
桜桃はすぐさま一歩下がった。
近い。先ほどまで遠くから見ていただけでも落ち着かなかったのに、こうして向かい合うと、どこへ目を置けばいいのか分からない。
かつて婚約者候補だった人。もうすぐ会えるのだと、あの日の自分がほんの少し楽しみにしていた人。
その本人を前にしているのに、今の自分は皇女ではない。ただの神祇官、六花である。
そして、昊夜は星河帝に代わり即位した虚空帝の息子だった。
「では、私はこれで――」
逃げるように頭を下げた拍子に、懐から筥迫がわずかに滑り出した。
その紐の先で、小さな金具が揺れる。桜の花びらを象った、古びた金具だった。
昊夜の視線が、そこへ止まった。
「……それは」
桜桃は慌てて筥迫を押さえた。
「これですか? 父に貰ったものです」
「日向に?」
「え」
桜桃の動きが、一瞬ぴたりと止まった。
けれど、昊夜の前でその一瞬はあまりにも長かった。
「……え、ええ。まあ……」
嘘ではない。とは到底言えない返事だった。
昊夜は何も言わない。ただ、桜桃の指の間にある花びらを見ている。
その沈黙が怖い。
「それでは、まだ仕事がありますので!」
「ああ」
「失礼いたします!」
今度こそ深く頭を下げると、桜桃は踵を返した。
早足になる。走ってはいけない。花宴の最中である。神祇官が回廊を全力で逃げれば、それこそ目立つ。
そう自分に言い聞かせながら、それでも普段より明らかに速い足取りでその場を離れた。
背中に昊夜の視線が突き刺さっているような気がしたが、振り返らなかった。
桜桃の姿が角の向こうへ消える。
途端、残された舞姫たちの声が弾けた。
「ねえ、やっぱり本当だったのね」
「何が?」
「六花が日向様の娘だって話よ。さっき昊夜様もそうおっしゃっていたでしょう?」
「ああ。私、噂だけだと思っていたわ」
「日向様って、先帝陛下の御代の近衛大将でしょう?」
「ええ。謀反のあと、宮廷を去ったそうだけど」
「そんな方の娘だったのね、六花って」
「どうりで妙に度胸があると思った」
少し離れたところまで来ても、そんな声が聞こえてくる。
桜桃は聞こえないふりをして歩き続けた。
六花の父、日向。
六花を名乗る以上、自分は今、その日向の娘ということになっている。
当の日向が否定する気配すらないため、今では宮中でも、六花は謀反のあと姿を消した元近衛・日向の娘として知られつつあった。
もっとも、その日向が今どこで何をしているのかと聞かれれば、桜桃にもよく分からない。
謀反について何かを調べているらしい。
時折、何の前触れもなく姿を現したかと思えば、聞きたいことだけ聞いて、またいつの間にかいなくなる。
次に会うのが明日なのか、一月後なのかさえ分からない。
(……日向、今どこにいるのかしら)
ふと考えてから、桜桃は首を振った。
今は花宴の最中である。余計なことを考えている場合ではない。
胸元から覗いていた花びらを、今度こそ衣の奥へしまい込む。
幼い頃、本当の父である星河帝から貰った花びら。それ以上の意味など、桜桃は知らなかった。
◇
花宴を終えた宮城には、まだ昼の名残が残っていた。
菖蒲殿へ戻った昊夜は、文机の前に腰を下ろしていた。積まれた書状へ手を伸ばしかけ、その手が止まる。
脳裏に浮かんだのは、昼間に見たものだった。
六花の胸元から、覗いた桜の花びらを象った小さな金具。
『父に貰ったものです』
『日向に?』
『え、ええ……まあ……』
あのときの、明らかに不自然な間。
昊夜はしばらく動かなかったが、やがて文机の引き出しへ手をかける。
奥にしまわれていた小さな包みを取り出し、静かに紐を解いた。
現れたものを見つめた瞬間、遠い声が蘇った。
『明日、お前に大事な話がある』
星河帝の声だった。
『私に、ですか』
『ああ、お前と桜桃に』
しかし、その話を聞くことはできなかった。
その夜に、宮廷は炎に包まれた。
怒号の響く中、血に濡れた手が伸びてくる。
『──昊夜』
何かを言おうとした星河の唇が、かすかに動く。その手が、昊夜の手を取った。掌へ、小さな何かが押し込まれる。
血に濡れた指が離れていく。
あのときの記憶はひどく曖昧で、昊夜自身あまり覚えていない。
ただ、気付いたときには何かを握っていた。
昊夜は回想から引き戻されたように、止まってい手を動かし、包みを解いた。中から出てきたのは、一枚の桜の花びらだった。
昼間、六花が持っていたものと、よく似た金具。
昊夜はそれを指先で摘まみ上げる。
「……あいつも同じものを……?」
答える者はいない。
開け放たれた窓から春の風が入り込み、文机の上へ、本物の桜の花びらが一枚落ちた。
昊夜の手の中には、散ることのない花びらが残っていた。




