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死という言葉とお守りというイメージが結びつかず、思わず聞き返した。

「わたしの病気って、最期はたぶん、窒息で死ぬんです」

 わたしの病気、という言葉が胸を刺す。

「身体も動かなくなって、ずっとベッドの生活になって、最期は呼吸する筋力すらなくなって」

 できるだけ深く、声に出して相槌を打ちながら、ただ黙って彼女の言葉を受け止めた。


「いつかベッドの上で突然呼吸ができなくなって、一人で死んでいくことを考えたら怖くてたまらなくて」

 顔を伏せて、早口でまくしたてるように話す。前髪の隙間から表情を伺おうとしたが、じっと目を閉じてしまって、懸命に何かに耐えているようにしか見えなかった。

「想像すると、眠れないくらい怖いです。でも、安楽死があれば、そうなる前に苦しまずに死ねるって」

 だから、お守りなんですと、言葉を締め括った。


 返す言葉が見つからず、黙ってしまった。

 沈黙から逃げたくて、短い咳払いをしてから、続けた。

「一つ、お聞きしたいことがあるんです」

 慎重な前置きに、蛍さんは一瞬、身構えた様子だったが、すぐに頷いて僕に言葉の続きを促した。


「国内で安楽死の処置を行っている医師がいることをご存知ですか?」

 僕が質問すると、予想通り、蛍さんはすぐに返事が出来ず、黙って下を向いてしまった。

 返事を蛍さんに預けたまま、黙って蛍さんの答えを待ちながら、窓の外を見た。

 まだ雨は降り続いている。


 駅に着いた人々が、ほっと息をついたように傘を畳む。改札の向こうから出てきた人が、ため息と一緒に傘を広げる。

 そんな光景をいくつか眺めていると、蛍さんは質問の真意を探るように、慎重に言葉を選びながら答えた。


「ニュースでなら、聞いたことはありますけど」

 彼女の言う通り、寝たきりの患者に致死量の薬を投与し、安楽死の処置を行った医師の裁判が行われていた。


「いえ、その医師とは別の医師です。おそらく、現在も国内で秘密裏に安楽死の処置を行なっています」

 蛍さんは、僕が言いたいことを先回りして理解した様子で、考え込むように静かに目を閉じた。


「あなたはその医師のことを知っていますよね?」

 重ねて質問すると、蛍さんは、これ以上のやり取りをこばむように、固く口を結んでしまった。


 手で座席の横を探りながら、白杖を手に取った。立ちあがろうとする彼女をどうしても引き留めなければならない。

 彼女が妻と連絡を取り合っていた理由、そして新たに僕を頼った理由が、ずっと分からなかったが、今日会って確信した。

 安楽死の処置に必要なカルテの準備や、医師との連絡など、上手くいかないことを何度も投稿の中で歯痒そうに嘆いていた。

 海外で合法的に安楽死の処置を受ける場合でも、そのハードルの高さに諦めてしまう人も多いが、視覚障害者である彼女の絶望はいかほどだっただろうか。


「僕は・・・」

 自分で思っているよりも大きな声が出てしまった。

「その医師に会いたいんです」

 その言葉に、蛍さんは全てを悟ったように、力無くうなだれた。


「取材って言ったのに、利用するために、わたしを呼び出したんですか?」

 息苦しそうに、震えながら話す。誰かに怒りを向けるということに慣れていないのだろう。蛍さんは何か言おうとしている様子だが、引きつった笑顔と、真剣な顔を交互に浮かべながら、最後は覚悟を決めたように、僕への嫌悪感を露わにした。


「僕は・・・」

 言葉にしようとした途端、高所で足がすくむように、体が固まってしまった。

 コーヒーを口に含んで、目の前の蛍さんから目を逸らす。壁には、壺を持った天使の絵が描かれていた。昔、美術の教科書か何かで見た気もするが、題名は思い出せない。

 苦味に顔をしかめて、一口に飲み干す。


 妻が自殺未遂をした、安楽死を望んでいる、正直に話せば、蛍さんは僕にどんな言葉を投げかけるだろうか。


 僕が外出している、ほんのわずかな間に、妻は自宅のベランダから飛び降りた。7階の高さから、死んでいてもおかしくはない。だが、濡れた芝生と木がクッションになった。


 あの日、何度思い出しても、いつもと変わらず、妻は笑って僕を送り出してくれていた。

 その笑顔が優しさなのか、寂しさなのか、分からない。もっと、長く一緒にいれば、僕は妻の出すサインをすべて正しく受け取れていたのだろうか。それならば、叶うならば、もっと長く夫婦でいたかった。


「利用しようと思って、お呼びしたのは事実です。でもあなたも僕を利用してください」


 嘘は吐いていない、でも本当のことも言っていない。正直に答えたつもりなのに、飲み込んだ言葉の重みの方が、胸に残った。


 「蛍」さんとコンタクトを取り、何度かDMのやり取りを続けていくうちに、彼女は何度か自殺未遂をしたことを話してくれた。


 死のうと考え始めた頃、いつの間にか偶然に身を委ねるようになった、と言う。今日、星占いが悪ければ死のう、コンビニでお気に入りのスイーツが売っていたら生きよう、そう思いながら綱渡りのように生きていたと、まるで他人事のように、淡々と教えてくれた。


『でも、いつも逃げ道を残していたと思うんですよね』

 家を出る時には、今日死のうと考えていたはずなのに、サブスクは解約せずそのままにしていた。食べ残した食事は、夜に食べるつもりでラップをかけて冷蔵庫に入れた。

『全部、綺麗に整理してしまうことが怖かったんだと思うんです。思い残すことなく、身辺整理をしてから、線路の脇に立つと、きっと後戻りが出来なくなっちゃう気がして』


 妻もそうだったのだろうか。本当は死ぬ気などなかったのに、思いがけない何かが重なって、引き返せなくなってしまったのだろうか。それとも、すべて計画通りだったのだろうか。


「どういう意味ですか?」

 蛍さんは警戒心を解かず、棘のある声で聞き返す。


 もう一度、コーヒーを口に含んで、目の前の蛍さんから目を逸らす。壁の天使と目が合うが、ふりほどきたくて、長いまばたきをした。

「あなたが安楽死を望むなら、出来ることはすべて手助けします」

 そう言うと、蛍さんは一瞬、絶句するような顔を浮かべたが、すぐに僕がその言葉を発した真意を探るような顔になって、話の続きを促した。


「カルテの準備、医師との連絡やコミュニケーション、死後の手続き、すべて任せてください」


 その代わり、と続けた頃には、蛍さんの顔から剥き出した敵意は薄まって、わずかに、希望のようなものも見てとれた。

「その代わりに、あなたが知っている、医師の情報を全て教えてください」


 妻に安楽死を諦めさせるためでも。目の前の彼女を糾弾するためでもない。まして医師を告発するつもりもなかった。

 僕は妻の希望を叶えるために、妻に安楽死の処置を受けさせるために、ここに来たのだ。


「どうして・・・奥様に安楽死を受けさせたいんですか?」


 蛍さん自身、安楽死に賛成の立場だ。@咎めるような口調ではなく、僕を試すようなものに聞こえた。

 

「今とは違う現場で、記者として働いていた時に・・・」


 忘れられない現場があった。


 事件記者をしていた時に入った、ある若い母親が亡くなった現場だ。


 母親が6歳の息子を首を絞めて殺害した後、ドアノブに紐を括り付け、自らの命も断っていた。

 使用していた紐は、予め購入していたものではなく、家にあったスニーカーやリュックサックのものを何重にも繋ぎ合わせたものだった。

 狭いワンルームの部屋の隅に置かれた机の引き出しには、大小様々な紙の束が入っていた。大学ノートを千切ったようなものもあれば、近くのスーパーのチラシもあったが、その全てに太いマジックで角の尖った文字が書かれていた。


〈子供の声がうるさい〉


 子どもの声に抗議する、近所からの苦情の手紙だった。

 おそらくポストに投函された手紙で、時系列は分からないが、言葉は段々と短くなって、荒々しくなっていた。

 筆跡からすると、ほとんど同じ人物が書いたものだと思うが、障害児を差別するような言葉もあった。


 警察が遺体を回収したあと、記者として、遺品整理の現場に立ち会った。

 遺族となった祖母が、カラーボックス一杯に並んでいた障害児教育の書籍を見つけた。


 挿絵の入った入門書もあれば、学術書のような分厚い書籍もあるが、どれも頭から付箋が飛び出し、熱心に読み込んだ跡が残っていた。


 祖母が中をめくると、付箋のあるページのほとんどは障害児のパニックや発作的な大声の原因や対策が書かれた項目だった。


 母親も何度もその本を読み返し、また救いを求めるように新しい本を買ってきたのだろうか。


 胸騒ぎがして、祖母が玄関のポストを開けると、中から丸められたコピー用紙が出てきた。

 これまでと同じように、「うるさい」と書かれた手紙は、親子が心中した後に投函されたものかも知れない。


 母親は死んだ息子を抱きかかえながら、玄関のドアノブで首をくくっていた。想像することしか出来ないが、母親と息子が横たわる玄関の向こうから、この紙が投げ入れられたのだろうか。

 

 息子を抱いて死んでいった母親の側で、ステンレスの新聞受けが、カタンと閉じる音が冷たく響く。

 直接見たはずはないのに、ゾッとするほど生々しくその光景が浮かんだ。


 一人で命を断つということが、どれほど孤独で、凄惨なものなのか、その時胸に刻まれた。


 妻の最後が、そんなものであっていいはずはない。


「ベッドの上で、安らかに死なせてやりたいんです」


 蛍さんは、ゆっくりと、でもたしかに深く頷いた。


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