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二人が車から出たあとも、まだ電話は繋ったままだった。
二人が駐車場から駅まで歩く道中、バッタリすれ違ってしまわないように、駅前の雑居ビルに入った。スナックや安い居酒屋、風俗店が雑然と入るビルだから、二人がやって来ることもないだろう。
タバコの臭いが染み付いた、薄暗いビルの廊下に立ち、電話をするふりをしながら、二人が車から降りたあとのやり取りを、ずっと聞いていた。
一人で帰ろうとする蛍さんを、妻が送り届けているところだった。
いつも一人で移動しているから大丈夫だと遠慮する蛍さんだったが、妻は最寄り駅を聞き出すと、どうせ通り道だから一緒に帰ろうと提案した。
妻が真っ直ぐ家に帰るつもりなら、蛍さんの家の最寄駅は、反対方向になってしまう。だが、奈々美は面倒そうな素振りは微塵も見せず、まるで友達同士のように、自然な流れで、同じ方向に連れ立って歩き出した。
『一番線を電車が通過します』
駅のアナウンスが聞こえた。
さっき、自分も通ったばかりのプラットフォームを思い出す。『座りましょうか』という妻の声が聞こえたから、今二人は、オレンジ色のベンチに並んで座っているのかもしれない。
『今、電車に飛び込んだら』
蛍さんが投げやりに言う。
『スイスに行って安楽死なんて、そんな面倒臭いことしなくてもいいのにって、頭では分かってるんですけどね』
普通なら、どう返してよいのか迷ってしまうようなセリフだろう。だが、妻は『ですよね』と、心地良さそうに笑って相槌を打ったあと、『本当に』と、寂しそうに付け加えた。
『この話、知ってます? 自殺のスポットになってる大きな橋があるんですけど』
蛍さんは、遠くを見つめながら話すような、ゆったりとしたリズムで言った。
『橋の片側は真っ暗な谷底で、もう片側はブワッと街の光が見えるらしいんです。それで、どっちから飛び降りる人が多いかって言うと、圧倒的に最期は街の光を見ながら、の方が多いんですって』
蛍さんは、自分の中で言葉を落とし込むように、しばらく黙り込む。
「私は、見えないからその気持ち、本当の意味では分からないかもしれないんですけど。カエデさんはどう思います?』
答えを求められて考え込む妻は、きっと唇を強く結んで目を少し閉じている。僕の傍らでそう振る舞う彼女の姿が眼に浮かぶ。
『なんとなく、分かるかもしれないですね』
そう答えたあとも、『なんでだろう』と自問自答のように呟く。
『たぶん、最期まで誰かと繋がっていたいからなんですかね。真っ暗で一人きりって、どんな人生でも寂しいから』
『それって、安楽死も同じなんですかね』
蛍さんが言ったあと、遠くから踏切の音が聞こえた。
『カエデさんは、ご家族にはもう話したんですか?』
何か地雷を踏んでしまわないように、恐る恐るという聞き方で尋ねた。
『夫には、少し前に話したんですけど』
すぐに答えたが、そのあとの言葉は出ない。
蛍さんは、相槌も次の質問も送らず、ただ黙って、話の続きを待っているようだった。
僕もノイズ混じりの音声の中から、ほんのわずかでも声を聞き逃さないよう、耳が痛くなるほどスマホを耳に押し当てた。
『もちろん、驚いてはいましたけど』
スナックのドア越しに、聞き覚えのある演歌が漏れ聞こえてきた。距離を取るために、埃とカビの臭いが混じったカーペットの上を歩いた。
『ご主人は、何をされてる方なんですか?』
きっと、沈黙を埋めるための、何気ない質問だ。
『ニュース番組の記者をしているんです。最近だと、ドキュメンタリー番組の制作を手伝うことが多いらしいんですけど』
妻も、すっかり警戒心が解けて、澱みなく話す。
誇らしげに僕の仕事を語ってくれることは嬉しかったが、それを喜ぶ余裕はなかった。
『記者、さんですか?』
蛍さんが、怪訝そうに聞き返す。記者という仕事の内容がピンと来ないという反応ではなく、何かが胸の中で引っかかったような、含みのある言い方で聞き返した。
電車が凄まじい轟音を立てて、走り去る音が電話から聞こえてきた。
それと同時に、二人の会話も途切れた。音にかき消されて僕には聞こえないだけなのか、電車が通り過ぎるまで、お互いに黙っているだけなのか、分からない。
蛍さんには、今彼女の側にいる、『カエデ』の写真をアイコンにした女性が、僕の妻だとは伝えてはいなかった。
僕は妻の安楽死を止めさせたいと、蛍さんに告げていた。
そんな蛍さんが、妻と僕を結びつけたなら、何を思うのか。
たった今、安楽死がしたいと蛍さんの前で吐露した妻、そんな妻の思いを阻止しようとしている僕のことを、快くは思わないだろう。
『すみません、スマホちゃんと、カバンに入れたかな』
蛍さんがそう言ったあと、ガサガサとカバンをかき回す音が聞こえた。
『あった、あった。よかったです』
人懐っこい声で言う。
スマートフォンを握りしめているのか、靄がかっていた声が、さらに曇った。
次の瞬間、通話は途切れた。




