14
妻は、行きたい場所があると言った。今すぐ行きたいとも言って、もし疲れていなかったらと、返事を僕に委ねた。
僕は、妻が帰る前に急いで家に戻っていた。今日ずっと、部屋で仕事をしていたと偽って、家で妻を出迎えた。
だが、先回りして急いで帰る道中も、家に戻ってからも、胸の落ち着かなさは消えなかった。
電話が切れたあと、蛍さんが妻に何を伝えたのか。
どうしても、不安が消えなかった。
蛍さんに確認しようと、ショートメッセージを送ったが、返信はまだ来ていない。
「ちょっと話したいことがあるから、久しぶりに散歩でも行こっか」
奈々美は、家に帰ってきたばかりなのに、一息ついて休憩する間もなく言った。表情にも声音にも、裏があるようには思えない。
マンションを出て、街灯の少ない薄暗い道から、川沿いの道へと向かった。昼はジョギングやサイクリングをしている人も多い道だが、今の時間は歩く人も少ない。
奈々美が転ばないよう肩を支えながら、土手の坂道を登った。乾いた雑草を踏みしめる音だけが聞こえる、静かな夜だった。
短い坂を登り、遊歩道に入る。
そこからの景色を見て、妻がなぜ僕をここに連れてきたかったのか、思い出した。
「覚えてる?」
僕を振り返りながら、いたずらっぽい笑顔で言う。
無言で頷いたあと、それだけでは足りない気がして、「もちろん」と付け加えた。
奈々美も、嬉しそうに小さく何度も頷いた。
小学校の卒業式があった日、僕たちは二人でこの道を歩いていた。
まだ、お互いに好意も伝え合っていない幼い関係だったが、帰り道が同じ方向だったので、それまでも時々、二人で並んで帰ることがあった。
その日も、特別な話をした訳ではない。どちらかと言うと、黙ってしまうことの方が多かった気もする。
だが、いつもは別々になってしまう分かれ道の前で立ち止まると、示し合わせた訳ではないのに、来た道を引き返して、普段は歩かないこの川沿いまで歩いた。
ポツリポツリと言葉を交わし、しばらく歩いた所で引き返す。何を話したのか、細かいことは覚えていないのに、話せなかったことの後悔だけが、いつまでも胸に残っている。
「あの時、告白とか、しようとしてた?」
奈々美が、見透かしたように、からかって言う。
「さあ」
僕も、笑って誤魔化した。
あの日、何度、川沿いを往復したのかは覚えていない。じゃあまた、とそっけなく言い合って、それぞれの帰路に戻った。
どうせ、お互いに同じ中学に進むのだから、大袈裟で感傷めいたセリフは胸に仕舞って、ぶっきらぼうに別れを済ませた。
それでも、ひとりになると、やりきれない気持ちになって、家の近所を何周も歩いた。
家に帰りたくなかったのだと思う。
一家団欒の中にいる自分を想像すると、それが温かければ温かいほど、理由なく拒絶したくなった。
大人になった僕らは、あの頃歩いた川沿いの道を進む。
街灯と川沿いの家から漏れる明かりだけで、足元が見えるようになっていた。
「話したいことって?」
我慢できなくなって聞いた。
奈々美が僕のしてきたことに気付いてしまったか、早く確かめたかった。
「じゃあ」
奈々美は焦らすように笑って、正面に川を望むベンチに腰掛けた。
僕にも隣に座るよう促す。
示し合わせた訳ではないのに、お互いに、ほとんど同じタイミングで、空を見上げた。
曇っているのか、東京の空が明るすぎるのか、星はほとんど見えない。
「今日ね」
奈々美が話し出す。
「階段で転びそうになったんだけど」
その言葉に、胸をドンと押されたような、深い衝撃が走った。
普通の夫婦なら、危なっかしい日常の失敗談として、笑い飛ばせる程度の話だろう。だが僕らにとってそれはカウントダウンの一つでもあった。
ALSの確定診断が下された時から、この先妻に訪れるであろう変化を徹底的に調べた。
手に力が入りにくくなる、転びやすくなる、食事や飲み物を飲み込めなくなる、そしていつか呼吸筋が動きを止めてしまう。
「これから、もっと出来ないことが増えていくと思う」
奈々美は手放した何かを悔やむように言って、何も見えないはずの空を仰ぎ見た。晴れているといい、これまでそんなこと考えたこともなかったのに、なぜかそう願った。
「呼吸器がないと息が出来なくなって、声も出せなくなって、24時間ベッドの上で、少しも身体を動かせなくなって」
妻の一言一言に、胸が鈍く脈打つのを感じた。この気持ちはきっと僕だけではない、奈々美だって同じように感じているはずだ。
それなのに、自分の胸を突き刺す言葉を止めない。
「もちろん、怖いんだけど、でもね」
暗くなった空気を変えるように、声を一段高くして続けた。
「もし安楽死をいつでも受けられる権利が手に入って、もう十分生きたって思えた時に、いつでも死ねるなら」
スイッチを切るように、人生の最期を安らかに終えられるなら、安心して今を生きられると話した。
僕の隣で、空を見上げる人のために、雲一つない夜空を祈る。
奈々美は立ち上がると、川の方へと歩いた。一瞬、ふらつきかけたが、慌てて身体を支えようとすると、「大丈夫」と僕を振り返って、ニコリと笑った。
ゆっくりと、川沿いの砂利道を進む。
その後ろ姿を見ていると、そのまま川の中に消え入りそうな気がして、不安でたまらなくなった。
なぜだろう、無性に妻の名前を叫びくなった。
奈々美。
胸の中で、名前を口にした。
さっきまで子どもだった頃を思い出していたせいか、心の中で呼びかける声も、ずっと幼い響きになった。
彼女が、この世から消えていなくなってしまうことが、何よりも怖かった。
たとえ、寝たきりになって言葉が話せなくなっても、24時間側にいて、介護をすることに、何のためらいもなかった。
ALS当事者や介護者の手記を読み込んで、動けなくなってからの暮らしを具体的に調べた。
彼女の好きな音楽をかける。懐かしいドラマを観る。静かに小説のページをめくる。
病気を発症してから、何度もその姿を思い浮かべた。ベッドサイドで静かに流れる時間は、たしかに尊かった。
その全てがエゴなのだということも、分かっている。
食事の介助、排泄の世話、呼吸器の見守り、そのためには、仕事を辞めることも当然のように受け入れた。
だが、そうやって自分を犠牲にしながら、1秒でも長く一緒にいたいということが彼女を苦しめる。
いつもは穏やかなこの川だが、ここ数日は雨が重なって、水かさが増え、流れも早くなっている。
奈々美は水面を覗き込むようにその場にしゃがみ込んで、「なんでだろうなあ」とつぶやいて、深く長い息を吐く。
横顔から漏れ出るように、白い息が頬をつたうのが見えた。
彼女の方へと歩みよって、肩に腕を回した。
「幸せだった?」
奈々美はうめくような声で言って、僕の腕に寄りかかる。
幸せだった、過去形にした言葉の重みも一緒に、受け止めたかった。
耳元で「うん」と返事をすると、「じゃあ、よかった」と、僕の胸でこもらせた声で言った。
「生まれてきて良かったなって思いながら死にたいから」
腕に顔をうずめながら、湿った声で胸から耳に、振動と一緒に伝わる奈々美の声を聞き逃さないよう、必死に耳をすました。
「苦しくて、色んな人に迷惑をかけて、わたしなんか、生まれてこない方がよかったって思いながら、死にたくないの」
肩に雨が当たった。
奈々美のコートからも、雨を弾く音が聞こえた。
「もっと雨が降っちゃう前に、帰ろっか」
断ち切るように、きっぱりとした声で言う。
星は見えない。空を見上げるのを止めた。




