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 電話が繋がったのは、妻と男が消えた少し後だった。

 通話ボタンを押すが、僕も相手も何も話さない。これは、事前に取り決めていた通りだ。


 喫茶店を出て、妻と男が消えた方へと進んだ。

 高校の生徒だろうか。部活終わりの野球部の集団が、ちょうど改札に向かっていた。雑然と歩くユニホーム姿の集団をかき分け、駅前の通りを抜ける。


 受話器を耳に当てると、バタンとドアが開くような音が聞こえた。

 立ち止まり、耳を澄ませる。


『お久しぶりです』

 電話口から、妻の声が聞こえた。

 緊張し、少し@声で、誰かに挨拶をしている。


『カエデさんですよね? ご無沙汰しています』

 妻の挨拶に、返事をする女性の声が聞こえる。妻がSNSで名乗っていた『カエデ』の名前を呼ぶ。

 その声にも覚えがあった。

 間違いなく、この声の主は蛍さんだ。


 今回、妻とDMでやり取りをする中で、安楽死の処置を行う医師と会う予定だと伝えられた。そして、蛍さんもその場に同行するということも、教えてくれた。

 その上で僕も同席しないかと、妻は提案していたのだ。


 蛍さんには、僕が『カエデ』名義のアカウントの人物の夫であるとは伝えてはいない。

どうやって医師のことを探るのか、いくつか方法を検討したが、通話状態のまま、カバンにスマートフォンを入れておくように頼んでおいた。


 言うまでもなく、不当に得た情報なので、警察に提供する資料としても、記事にして告発することにも使えはしないだろう。

 だが、そんなことはどうでもよかった。


 また、駅前の人の流れが増えてきた。電話の音が周囲の声にかき消されそうになって、人通りの無い狭い路地に入る。

 古い自動販売機の側に立ち、再び耳に神経を集中させた。側溝から不快なドブの臭いが漂う中、目を閉じて電話越しの言葉を追う。


『お二人は以前にも、直接どこかでお話しされたことはあるんでしょうか?』

 しわがれた、男の声。

 40代後半、いや50代の男を連想させる声だった。


 言葉遣いは丁寧だが、頭の中で組み立てた文章を淡々と読み上げたような、感情の起伏が読み取れない。


『はい、一度ですけど』

 蛍さんが答える。

 

 これまで、電話口から漏れ聞こえた音から想像すると、妻と蛍さん、そして『先生』と呼ばれる男が、車の中で話している様子だった、


『でしたら、自己紹介は省略しましょう』

 先生と呼ばれる男が早口にそう言うと、ガサガサと、カバンか何かを探るような音が聞こえた。

 少し離れた場所から、『ピー、ピー』という電子音が聞こえた。車種は分からないが、おそらく車のバック音だ。妻らがいるのは、近くの駐車場なのかもしれない。


『最初に、一つお聞きしてもよろしいですか』

 医師の男が強く念を押すように言う。

 少しの沈黙が流れ、ほとんど同じタイミングで『はい』と女性の声が重なった。


 地図アプリで近くを調べると、駅前にコインパーキングが一つ見つかった。駅からの移動時間を考えると、ここに車を停めていてもおかしくはない。


 スマートフォンを耳に当てながら、早足で駐車場に向かう。

 もし、妻の身になにかあったなら、僕は今日の自分の行動を生涯、呪い続けるだろう。


 電話口では、男の声が続いていた。

『今この場で、お二人の内、どちらかに安楽死の処置をさせて頂くことが可能です。死ぬ覚悟はできていますか?」


 その言葉を聞いた瞬間、足がピタリと止まった。

 立ち止まる僕のすぐ横を、若者が不機嫌そに舌打ちをして歩き去る。それでも、その場を動くことはできなかった。ただ、スマートフォンを耳に押し付けた。


『安楽死ができるなら、今すぐにでも、迷いはありません』

 少し低い女性の声、蛍さんの声だ。迷いを断ち切るように、語尾の一つ一つに力を込めて言った。


 一瞬、車内が静かになった。中の映像は見えてはいないが、医師を名乗る男と蛍さんの注目が、妻に向いている場面が頭に浮かんだ。うつむきながら、目を閉じる妻の姿も一緒に。


『私は』 

 妻の声が聞こえる。

 この期に及んで、期待してしまう。

 死にたくない、まだ生きたいと、妻が心変わりしてくれるのではないかと。

 だが、『私は』と言いかけた妻は、すぐに『私も』と切り替えた。


『私も、安楽死をしたいという思いは、絶対に変わりません』


 妻の声は震えていた。だが、それは決断を曖昧にしたり、揺らいでいるからではなかった。

 死を前に、震えて怯えていた。だからこそ、真剣なのだと分かった。


 僕はそれを聞いて、スマートフォンを握りしめたまま、呆然と立ち尽くすしかなかった。


 男の声で、小さく『分かりました』という相槌が聞こえた。


『試すようなことをして申し訳ありません。まず私の立場を明確にさせてください』


 さっきまでは、機械の音声じみた、冷たい語り口だったが、ほんのわずか、声に温かみが加わった。


『私は出来ることなら、お二人とも、国外の合法的な方法で、安楽死を遂げてほしいと思っています』


 嘘を言っているようには思えない。本心からそう願って、はるか頭上から、許しを与えるような言い方に聞こえた。


『事前にお伝えしていた通り、今この場で、国外で安楽死を受けるために必要な、メディカルレポートをお渡しします』


 男は一つ一つの単語に力を込めて、話を続ける。

 安楽死へと導く言葉なのに、うしろめたさを感じさせない。朗らかな医療ドラマの中で、親切な医者が、熱心に患者に向き合っているような、実際にそのようなことはしていないだろうが、患者の手を取って導く姿さえ、目に浮かんだ。


『ご存じの通り、国外で安楽死を受けるためには、いくつか超えなければならないステップがあります』

 発症から現在までの経過、治療歴、根治不可能な状態かなど、医師による英語でのメディカルレポートが絶対に必要になる。

 さらに、安楽死を希望する理由について、自らの考えた上での結論であることを示す嘆願書を、こちらも英語で準備する。


 この説明も、嘘は吐いてはいない。僕も仕事を通して、そして妻が安楽死を希望した夫として、国内外の情報をありとあらゆる方法で調べた。


 さらに、家族がいる場合には、報告も必要になる。必ずしも、同意は必要とはしないが、秘密裏に安楽死を行い、訴訟などのトラブルにならないために、安楽死を受けたいと告白した


 そして、仮にこれらを全て準備できたとしても、確実に安楽死の許可がでるかどうかは分からない。


 全て説明し終えると、医師の男は一度大きく深呼吸したあと、『それでも』と前置きして続けた。

 妻と蛍さんが息を呑む気配も伝わる。


『もし、海外で安楽死の処置を受けることが難しいなら、僕がお手伝いできることもあるので』


 お手伝い、という日常遣いの言葉が妙に生々しく、寒気が全身に走った。

 頭の中の映像が結びつく。カメラの前で紙コップの液体を飲み干し、命を断ち切った老人の姿だ。


『お二人も、関西で安楽死を行った医師が、嘱託殺人で起訴されている事件はご存じですよね?』

 ALSで寝たきりとなった患者に対して、自宅で致死量の鎮静剤を投与し、殺害した罪に問われている事件だ。

 妻と蛍さんが、無言で頷いたのだろう。医師の男は、それを確認すると話を続けた。

『警察や新聞も馬鹿ではないので、私もいつまでも、このように皆さんのお手伝いができるとは思っていません』


 医師の言葉に、心臓が縮む。通話中のスマートフォンを通して僕に協力をしている蛍さんも、同じ思いをしているはずだ。

 忙しなくカバンを持ち替えたり、足の置き場を整えたり、落ち着かない気配が伝わってきた。


『すみません、一つ、黙ってたことがあるんです』

 蛍さんが突然、口を開いた。

『なんでしょうか?』

 意思の男が応える。穏やかな口調のままだが、どこか警戒心のようなものが滲む。


 何を言い出そうとしているのか分からない。もし、通話中であることがバレたら、この男がどのような行動に出るのか、予想できなかった。


 電話を切るべきなのか、結論が出せず、時間だけが流れた。


『同居している父に、安楽死を受けることをまだ話せていないんです』

 全て言い終えると、蛍さんは弛緩したように、溜め込んだ息を吐き出した。


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