表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

22/25

第22章 静かな変化

 めぐみを釈放した後、ヴェルナは執務室に戻った。

 部下たちが何かを言いかけた。廊下で、会議室で、すれ違う人間が全員、何かを言いかけて——やめた。ヴェルナの顔を見て、やめた。長年一緒に仕事をしてきた人間たちは、この女がどういうときに話しかけてはいけないかを、言葉より先に体で知っていた。

 執務室の扉を閉めた。

 鍵をかけた。

 それだけで、音が消えた。

 

 デスクに座らなかった。

 窓の前に立った。

 夜の街が広がっていた。整然とした街だった。ネオンのない夜は暗く、静かで、清潔だった。建物の窓に、それぞれの灯りが点っている。その一つ一つに、人間がいる。ヴェルナが作った世界の中で、人間が生きている。

 正しいことをした。

 そう思った。

 思いながら——窓の外を見続けた。

 

 デスクに戻った。

 椅子に座った。

 デスクの上に、一枚の紙がある。

 何日も前から、そこにある。片付けなかった。片付けようとして——しなかった。正確には、片付けることを考えるたびに、別のことをした。報告書を読んだ。電話をかけた。部下を呼んだ。気づけば一日が終わっていた。

 紙は、そこにあり続けた。

ただ、生きていると伝えるために。

 今夜も、そこにある。

 ヴェルナはその紙を見た。

 あの部屋で、あの女の子が言った言葉を思い出した。

あなたが守ろうとした世界で、本当に誰かが救われましたか。

 答えは持っていた。三十年分の、確固たる答えを。数字がある。データがある。規制後の社会的安定の指標が、規制前より改善されたという報告が、いくつもある。

 その答えが出てくるまでに、今夜は——時間がかかった。

 

それは、あなたが校庭裏で手紙を書いたときと、同じ気持ちじゃないですか。

 ヴェルナは目を閉じた。

 二十二歳の女の子が、尋問室であの言葉を言ったとき、ヴェルナは確かに動じた。動じたことを、顔に出さなかった。出せなかった、ではなく、出さなかった。それだけの訓練を、何十年もかけてやってきた。

 だが、内側で何かが来た。

 波のようなものが。

 あの校庭裏のことは、考えないようにしてきた。動機の燃料として使い続けてきたが、直視はしなかった。直視する必要がなかった。あれは復讐の出発点であって、分析するものではなかった。

 なのに、あの子の言葉が——別の角度でそれを照らした。

見てほしかっただけだった。

 あの手紙に、何を書いたか。

 好きだという言葉より先に、自分のことを書いた。本が好きなこと。雨の日の窓が好きなこと。誰にも言っていないことを。

 あの手紙は、告白ではなかったかもしれない。

 見てほしかっただけだったかもしれない。

 私はここにいる、ということを。

 ヴェルナは目を開けた。

 その考えを打ち消そうとした。

 打ち消せなかった。

 今夜は特に、打ち消せなかった。

 

 立ち上がった。

 執務室の奥の棚へ歩いた。

 一番下の引き出し。鍵のかかった引き出し。

 鍵を入れた。

 回した。

 開けた。

 古い封筒が、一つだけ入っていた。

 取り出した。

 中身を出した。

 一枚の写真。

 色が褪せていた。印画紙が黄ばんでいた。

 若い頃の自分が、そこにいた。

 整形の前だった。告白の前だった。何もかもが始まる前の——まだ何者でもなかった頃のヴェルナ・グロースが、そこにいた。

 笑っていた。

 ぎこちない笑顔だった。どこかの屋外で撮られたものだろうが、誰に撮ってもらったかを覚えていない。何かが嬉しかったのか、照れていたのか、それすらわからない。ただ、笑っていた。

 ヴェルナはその写真を、デスクランプの光に近づけた。

 細部を見た。

 自分の目を見た。

 笑っている口元と——その目が、少しだけ違っていた。口は笑っているが、目が何かを探していた。カメラの向こうの誰かを。見てくれている誰かを。

 ヴェルナは長い間、その目を見た。

この頃の私は——

 言葉が、頭の中で浮かんだ。

誰かに見てほしかっただけだった。

 それを認めることが、この五十年で最も難しいことだった。

 ただ見てほしかっただけだった。それが叶わなかった。そのことが——全部の始まりだった。

 美しい女を憎んだ、と思っていた。世界を正しくしようとした、と思っていた。女性の権利を守ろうとした、と思っていた。

 それは全部、嘘ではない。

 でも、最初にあったのは——もっと小さくて、もっと個人的な、それだけのことだった。

 ただ、見てほしかった。

 それだけだったのかもしれない。

 

 ヴェルナは写真を封筒に戻した。

 引き出しに入れた。

 扉を閉めた。

 鍵を持った手が、止まった。

 鍵穴に入れた。

 回そうとして——止まった。

 しばらく、そのままにした。

 やがて、鍵を引き出しから抜いた。

 デスクに戻った。

 鍵を、デスクの上に置いた。

 それだけだった。

 扉に鍵をかけなかった。それだけのことだった。何かを宣言したわけではない。何かを決意したわけでもない。ただ、今夜は——鍵をかけなかった。

 

 デスクに座った。

 デスクの上の紙を見た。

ただ、生きていると伝えるために。

 まだ、そこにある。

 ヴェルナはその紙を手に取った。

 読んだ。

 もう何度目かわからない。最初に読んだときから、この言葉は変わっていない。紙に書かれた文字は変わらない。変わったのは——読むたびに、少しずつ、何かが違って聞こえることだった。

 最初は、脅威として読んだ。

 次は、手口として読んだ。

 今夜は——

 ヴェルナは紙をデスクに戻した。

 言葉にしなかった。

 言葉にする必要はなかった。あるいは、言葉にできなかった。どちらかはわからない。

 窓の外を見た。

 夜の街が、静かに広がっていた。

 

 翌朝、ヴェルナは早く出勤した。

 いつも通りだった。秘書が驚かない時間に来て、コーヒーを一杯だけ飲んで、報告書を開く。それがヴェルナの朝の習慣だった。

 側近を呼んだのは、午前九時だった。

 長年の側近だった。ヴェルナがまだ若い頃から、一緒に仕事をしてきた男だ。余分なことを言わない。こちらが言ったことを正確に実行する。それだけの人間だった。それで十分だった。

「倫理基準の現代的再解釈を始める」

 ヴェルナは言った。

 側近の表情が変わった。長年、この女の顔を見てきた男が——珍しく、表情を変えた。

「それは……方針転換では——」

「秩序は」ヴェルナは遮った。「時代に合わせて最適化するものだ。それだけだ」

 側近は黙った。

 ヴェルナは窓の外を向いた。

「急がなくていい。ただし、確実に進めろ」

「……具体的には、どの範囲から——」

「追って指示する」

 側近はまだ、何かを言いたそうだった。三十年一緒に仕事をしてきた男だ。この命令が何を意味するか、わかっている。わかっているから、戸惑っている。

 ヴェルナはそれを見て、何も言わなかった。

 説明しない。謝罪しない。間違っていた、とは言わない。

 言う必要はない。

 命令は変わる。それだけでいい。

「下がれ」

「はい」

 側近が出ていった。

 ヴェルナは一人になった。

 窓の外を見た。

 朝の街だった。人が動き始めていた。会社へ向かう人間。学校へ向かう人間。どこかへ急いでいる人間。どこへも急いでいない人間。

 その全員が、ヴェルナの作った世界の中で生きている。

 何かが間違っていたとは——言わない。

 言えない、ではなく、言わない。

 この五十年に積み上げてきたものを、一言で否定することは——ヴェルナにはできなかった。それは、自分自身を否定することと同じだった。

 でも。

 命令は、変わる。

 静かに、少しずつ、確実に。

 それだけだ。

 

 ヴェルナはデスクに戻った。

 デスクの上に、あの紙がある。

 今日も、片付けなかった。

 報告書を開いた。

 仕事を始めた。

 いつものように——ただし、何かが少しだけ違う朝だった。

 引き出しに、鍵がかかっていなかった。

 その事実だけが、昨夜から変わらずに、そこにあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ