第21話 尋問室
ヴェルナ・グロースは、めぐみの向かいに座ってから、しばらく何も言わなかった。
テーブルを挟んで、二人だけだった。
部下は廊下に出ていた。扉が閉まっている。蛍光灯が低く唸っている。窓はない。時間の感覚がない。外の世界が存在しているかどうか、この部屋にいると、わからなくなる。
ヴェルナはめぐみを見ていた。
めぐみもヴェルナを見ていた。
どちらも、目を逸らさなかった。
ヴェルナが先に口を開いた。
「なぜ、こんなことをしたのですか」
静かな声だった。責めていない。怒っていない。ただ、聞いている。それがかえって、めぐみには重かった。怒鳴られる方が、楽だったかもしれない。
めぐみは少し間を置いた。
震えていた。膝が、細かく震えていた。隠せていない気がした。でも、隠すことに使う力が、今のめぐみにはなかった。
「見てほしかったからです」
言った。
「生きているということを、誰かに見てほしかった。それだけです」
ヴェルナは何も言わなかった。
表情が動かなかった。眉も、口元も、目も。訓練されたように、動かなかった。
めぐみは続けた。
「あなたが守ろうとした世界で——本当に、誰かが救われましたか」
ヴェルナの眉が、わずかに動いた。
一ミリ、あるいはそれ以下だったかもしれない。でも、めぐみには見えた。
「規制されてから生まれた私には、失ったものがわかりません」
めぐみは言葉を選びながら、続けた。
「あの頃がどんな時代だったか、知りません。ネオンが並んでいた街を知りません。グラビア雑誌が本屋に置いてあった時代を、知りません」
ヴェルナはめぐみを見ていた。
「でも——規制されてから生まれた私が、古書店で偶然見つけた雑誌を見て、泣きそうになった」
めぐみは手を膝の上で握った。
「なぜだと思いますか」
白い部屋が、静かだった。
蛍光灯の唸りだけがあった。
ヴェルナは答えなかった。
めぐみは続けた。
「あれは搾取じゃなかったと思います。あの写真の女性は、誰かを傷つけようとしていなかった。誰かを支配しようとしていなかった。ただ——生きているということを、見てほしかっただけだと思う」
一拍置いた。
「それは——あなたが校庭裏で手紙を書いたときと、同じ気持ちじゃないですか」
ヴェルナの顔が、初めて歪んだ。
歪んだ、と言っても、大きな変化ではなかった。口元が、ほんの少し動いた。目の奥に、何かが来て——すぐに押し込められた。それだけだった。でも、めぐみには確かに見えた。
長い沈黙があった。
ヴェルナはテーブルの上の、自分の手を見た。組んでいた手が、わずかに動いた。ほどけかけて——また組まれた。
「……あなたは」
ヴェルナが言った。
声が、少しだけ変わっていた。低さは同じだ。でも、質が違った。
「私の何を知っている」
めぐみは答えた。
「何も知りません」
真っ直ぐに言った。
「校庭裏のことも、手紙のことも、ちゃんとは知りません。風の噂で聞いた程度です。でも——」
めぐみはヴェルナを見た。
「あなたも、誰かに見てほしかった人だと思って」
沈黙が来た。
今度は長かった。
ヴェルナは動かなかった。テーブルの上の手を見たまま、動かなかった。めぐみも動かなかった。何かを言おうとして、やめた。言葉が、今この部屋に必要かどうか、わからなかったから。
蛍光灯が唸っていた。
どこかで空調が動いていた。
それ以外は、何もなかった。
ヴェルナが、ゆっくりと立ち上がった。
椅子を引く音がした。
めぐみは見上げた。
ヴェルナは、背を向けた。
扉の方ではなかった。部屋の隅の、白い壁に向かって。窓のない、何もない壁に向かって、立った。
その背中を、めぐみは見た。
黒いコート。白髪。真っ直ぐな背筋——でも、今は少しだけ、その背筋が違って見えた。真っ直ぐなのは変わらない。でも、その真っ直ぐさを保つために、何かを使っているような。長年、何かを使い続けてきたような。
ヴェルナはしばらく、白い壁を見ていた。
めぐみには、ヴェルナが何を考えているかわからなかった。
でも、何かを考えていた。ただ沈黙しているのではなかった。あの背中の中で、何かが動いていた。何十年もかけて積み上げてきたものが、今この部屋で、何かと向き合っていた。
めぐみは待った。
急かさなかった。急かす気にもなれなかった。
この人は——長い時間をかけて、ここまで来た。
めぐみの言葉一つで、何かが変わるとは思っていない。変えようとして言ったわけでもない。ただ、聞いてほしかった。伝えたかった。あなたも、最初は同じ場所にいたんじゃないか、ということを。
それだけだった。
ヴェルナが振り返った。
めぐみを見た。
目が——少し違った。鋭さは同じだ。でも、その奥に、先ほどまではなかった何かがある。何と呼べばいいか、めぐみにはわからなかった。疲れ、ではない。痛み、とも違う。もっと古いもの。ずっとそこにあったのに、長年見ないようにしてきたもの——そういう何かが、少しだけ表に出ていた。
ヴェルナは扉に向かって歩いた。
扉の前で、立ち止まった。
背を向けたまま言った。
「下がれ」
扉が開いた。廊下に待機していた部下が入ってきた。
「釈放しろ」
部下の顔が変わった。
「ですが、証拠が——規定では七十二時間の——」
「釈放しろ」
ヴェルナは繰り返した。
声に感情はなかった。いつもの声だった。命令の声だった。
でも——めぐみには聞こえた。
その声の、一番奥の方に。
何かが、かすかに揺れていた。
ガラスひびが入る瞬間のような、ほとんど音のしない揺れだった。外からは見えない。でも、確かにそこにある。
部下が「了解しました」と言って、また出ていった。
ヴェルナはめぐみを振り返らなかった。
扉のそばに立ったまま、どこか遠い場所を見ていた。この部屋の外の、廊下の先の、もっと遠い何かを。
めぐみは立ち上がった。
ヴェルナの横を通って、扉に向かった。
すれ違う瞬間、ヴェルナが口を開いた。
「一つだけ聞く」
めぐみは止まった。
ヴェルナはめぐみを見なかった。前を向いたまま言った。
「あなたは——届いたと思っているか」
めぐみは少し考えた。
「わかりません」
正直に言った。
「届いた人もいると思います。届かなかった人もいると思います。このままでいいと思っている人には、届かなかったかもしれない」
ヴェルナは何も言わなかった。
「でも」めぐみは続けた。「一人でも届けばいい、と教えてくれた人がいます。私は、それを信じています」
また、沈黙があった。
ヴェルナは動かなかった。
めぐみは扉に手をかけた。
「一つだけ、言わせてください」
ヴェルナは答えなかった。でも、拒否もしなかった。
「あなたがあの校庭裏で書いた手紙は——間違っていなかったと思います。見てほしかったこと自体は、間違いじゃなかった」
ヴェルナの肩が、わずかに動いた。
ほんの少し。
気のせいかもしれない。
でも、めぐみには見えた。
「失礼します」
扉を開けた。
廊下に出た。
白い廊下が、まっすぐに続いていた。
部下が横に来て、出口へ案内した。めぐみは歩いた。
自動ドアをくぐった。
外の空気が、冷たかった。
曇っていた。朝と同じ空だった。どのくらい時間が経ったか、わからない。街は普通に動いていた。人が歩いていた。車が通った。
めぐみは立ち止まって、空を見上げた。
震えていた。ここへ来てからずっと、震えが止まらなかった。
でも、今は——震えの種類が、少し変わった気がした。
怖さからの震えだけではなかった。
スマートフォンが返却された。
電源を入れると、通知が溢れた。圭介から。高山から。ひとみから。アミから。品川から。
全員から。
めぐみは圭介への電話をかけた。
一コールで出た。
「めぐみさん——」
「大丈夫です」
めぐみは言った。
「釈放されました。今、外にいます」
電話の向こうで、圭介が息を吐く音がした。
「よかった。今どこだ、迎えに——」
「一人で帰れます」
めぐみは空を見上げたまま言った。
「少しだけ、一人で歩きたいので」
圭介はしばらく黙った。
「……わかった。着いたら連絡してくれ」
「はい」
電話を切った。
めぐみは歩き始めた。
どの方向へ向かえばいいか、最初はわからなかった。でも、足が動いた。
歩きながら、あの部屋のことを考えた。
白い壁に向かって立っていたヴェルナの背中を。
釈放しろと言ったときの、声の奥の揺れを。
すれ違う瞬間に聞かれた一言を。
あなたは——届いたと思っているか。
その問いを、ヴェルナは誰に向けて発したのだろう。
めぐみに向けて、だったかもしれない。
でも——自分自身に向けて、でもあったかもしれない。
長年、秩序を守ると言い続けてきた。女性の権利を守ると言い続けてきた。世界を正しくすると言い続けてきた。
それは——届いたのか。
誰かに。
本当に、誰かに。
めぐみには答えがわからなかった。
ヴェルナにも——答えがわからないのかもしれない。
商店街に入った。
昼間の、人通りのある通りだった。八百屋が野菜を並べていた。パン屋から匂いがした。子どもが母親の手を引いていた。
普通の、どこにでもある昼間だった。
めぐみはその中を歩いた。
震えは、いつの間にか止まっていた。
代わりに、胸の奥に——あの重みが残っていた。
やるべきことをやったという、静かな重み。
まだ終わっていない。これから何が起きるか、わからない。ヴェルナが気を変えるかもしれない。また連行されるかもしれない。仲間たちに何かが起きるかもしれない。
でも——今日、あの部屋で言えた。
言いたかったことを、言えた。
届いたかどうかは、わからない。
でも、言えた。
それで——今は、十分だった。
めぐみは歩き続けた。
曇り空の下、普通の街を、一人で歩いた。




