第20話 逮捕
その朝、めぐみはいつも通りに起きた。
目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。布団の中で天井を見た。カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいた。曇りの朝だった。
シャワーを浴びた。トーストを一枚食べた。コーヒーを飲んだ。
鞄に教科書を入れた。財布を確認した。スマートフォンをポケットに入れた。
ドアを開けて、外に出た。
いつも通りの朝だった。
何も変わっていない、と思いながら——何かが変わっていると、どこかで感じていた。「我々は見ている」というメッセージが届いてから、めぐみはずっとそういう感覚の中にいた。今日かもしれない。明日かもしれない。あるいは来週かもしれない。でも、いつかは来る。そのことだけは、わかっていた。
大学の正門をくぐったのは、午前九時少し前だった。
構内に入って、いつもの道を歩いた。図書館の前を過ぎて、講義棟に向かう。木が並んでいる道で、秋になると葉が黄色くなる。今はまだ緑だった。
足音が聞こえた。
後ろから、複数の。
めぐみは振り返らなかった。
振り返らなかったのは、気づいていなかったからではない。気づいていたから、だった。振り返ったら現実になる——そういう感覚があった。振り返らなければ、もう少しだけ普通の朝でいられる。
だから、振り返らなかった。
足音が近づいた。
左右から、人が並んだ。
スーツ姿の男が二人。それから、一歩後ろに女が一人。全員、胸にバッジをつけていた。
燦然と輝くバッジ。
《ドウトク秩序連合》
男が言った。
「相澤めぐみさんですね」
確認ではなかった。確信の言い方だった。
「はい」
自分の声が、思ったより落ち着いていた。
「任意同行をお願いします。倫理調整法第十七条に基づく——」
男が続きを言っている間、めぐみは前を見ていた。
講義棟への道が、まっすぐに続いていた。木が並んでいて、葉が揺れていた。その先に、建物の入り口が見えた。いつもあそこから入って、いつもの階段を上って、いつもの教室に座る。
今日は、そこまで行けない。
男の言葉が終わった。
「……わかりました」
めぐみは言った。
車に乗せられた。
黒い、窓に色のついた車だった。後部座席に座ると、左右を男に挟まれた。女は助手席に座った。ドアが閉まった。
車が動き始めた。
構内を出て、大通りに入った。
めぐみは窓の外を見た。
街が流れた。信号が変わった。人が歩いていた。誰も、この車を気にしていなかった。黒い車が一台、走っているだけだ。その中で何が起きているか、誰も知らない。知る方法もない。
震えていた。
手を膝の上に置いていたが、細かく震えていた。気づかれているかもしれない。気づかれていないかもしれない。どちらでもよかった。隠す気力が、なかった。
怖い。
それは本当だ。怖くないと言ったら嘘になる。
でも。
やるべきことをやった、という感覚があった。
あの古書店で雑誌を見た日から、全部が繋がっていた。警告ウィンドウが出た端末の画面。公園のベンチで高山に言った言葉。ひとみの店の十四段の階段。品川のシャッター音。あの夜、送信ボタンを押した指。
全部が、今日のこの車に繋がっていた。
わかっていた。こうなるとわかっていた。
それでも、やった。
恐怖より少しだけ大きいものが、胸の奥にあった。
名前のないものだった。誇り、という言葉は大げさな気がした。達成感、とも違う。ただ——やるべきことをやったという、静かな重みだった。
信号で車が止まった。
隣を、自転車が通り過ぎた。若い男が乗っていた。イヤホンをして、前を向いて、どこかへ急いでいた。
あの人は知らない。
この車の中で何が起きているか。めぐみが誰かということも、なぜここにいるかも。
当たり前のことだ。
めぐみだって、一ヶ月前まで知らなかった。古書店に入るまで、知らなかった。地下には地下の世界があって、そこで生きている人たちがいて、何かを取り戻そうとしている人たちがいることを。
信号が変わった。
車が動いた。
めぐみは膝の上の手を見た。
震えていた。
それでも、手を握った。
固く、静かに。
車が止まった。
高い建物の前だった。ガラス張りの、清潔な外観だった。入り口に人が立っていた。こちらを待っていたように、車が止まるのと同時に動き始めた。
ドアが開いた。
「降りてください」
めぐみは降りた。
外の空気が、車内より少し冷たかった。
空を見上げた。
曇りだった。どこまでも灰色が続いていた。
仲間たちの顔が浮かんだ。
高山。品川。ひとみ。アミ。圭介。
連絡できなかった。連行されたとき、スマートフォンはすぐに預けるように言われた。今頃、気づいているだろうか。心配しているだろうか。
心配しているだろう、と思った。
申し訳ない、とも思った。
でも——止められなかったことを、恨んでいない。止めてほしくなかった。これは、めぐみが自分で選んだことだった。最初から。送信ボタンを押した瞬間から。あるいは——あの古書店で、ページをめくった瞬間から。
「こちらへ」
男に促された。
めぐみは歩いた。
建物の入り口をくぐった。
自動ドアが、音もなく閉まった。
廊下を歩いた。
白い壁。白い天井。足音だけが響いた。男二人が前後に付いていた。女は別の方向へ消えた。
角を曲がった。
また廊下が続いた。
扉があった。
男が扉を開けた。
「中へ」
めぐみは入った。
白い部屋だった。
テーブルが一つ。椅子が二脚、向かい合っている。窓はない。灯りは天井の蛍光灯だけだった。
めぐみは椅子に座った。
男たちは部屋の外に出た。扉が閉まった。
一人になった。
静かだった。
廊下の足音も、外の音も、何も聞こえなかった。蛍光灯が低く唸っていた。
めぐみは手を膝の上に置いた。
震えていた。まだ、震えていた。
それでも、目を閉じなかった。
正面の、白い壁を見た。
何もない壁だった。
でも、めぐみにはその壁の向こうに、何かが見えた気がした。
高山が六畳の部屋でキーボードを叩いていた。品川が暗室でフィルムを現像していた。アミがポールを握っていた。ひとみがグラスを磨いていた。圭介が端末の前に座っていた。
全員、今もどこかで、それぞれのことをやっている。
めぐみがここにいることを、まだ知らないまま。
それでいい、と思った。
知ってから心配するのでいい。今はまだ、それぞれの場所で、それぞれのことをやっていてほしい。
どのくらい待っただろう。
時間の感覚がなかった。スマートフォンもない。時計もない。蛍光灯が同じ明るさで、同じように唸っている。
扉が開いた。
めぐみは顔を上げた。
入ってきたのは、一人だった。
黒いコートを着た女だった。
背筋が真っ直ぐだった。表情がなかった。いや、表情がないのではなく——表情を持たないことに慣れた顔だった。長年、感情を顔に出すことを、しなかった人間の顔だった。
白髪が多かった。七十代か、あるいはそれ以上か。
女は向かいの椅子を引いた。
音もなく、座った。
めぐみを見た。
目が、鋭かった。
めぐみは目を逸らさなかった。
逸らせなかった、というより——逸らしたくなかった。この瞬間を、ちゃんと見ていたかった。
女はしばらく、めぐみを見ていた。
品川が目を見たときと、少し似ていた。値踏みではなく、もっと深いところを見ようとしている。
やがて、女は口を開いた。
低い声だった。静かな声だった。
「相澤めぐみさん」
「はい」
「私がヴェルナ・グロースです」
めぐみは息を飲んだ。
報告を受けて部下が動く、と思っていた。担当者が来る、と思っていた。
まさか——本人が来るとは、思っていなかった。
ヴェルナはめぐみの反応を見て、何も言わなかった。
テーブルの上に手を置いた。組んだ。
静かに言った。
「なぜ、こんなことをしたのですか」
めぐみは少し間を置いた。
震えていた。手も、足も、細かく震えていた。
それでも、答えた。
「見てほしかったからです」
ヴェルナの目が、わずかに動いた。
めぐみは続けた。
「生きているということを、誰かに見てほしかった。それだけです」
白い部屋が、静かだった。
蛍光灯が、低く唸り続けていた。
ヴェルナは何も言わなかった。
ただ、めぐみを見ていた。
その目の奥に——何かがあった。
鋭さの奥に、もっと古いものが。
めぐみには、名前をつけられなかった。
でも、確かにそこにあった。




