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20/25

第20話 逮捕

 その朝、めぐみはいつも通りに起きた。

 目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。布団の中で天井を見た。カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいた。曇りの朝だった。

 シャワーを浴びた。トーストを一枚食べた。コーヒーを飲んだ。

 鞄に教科書を入れた。財布を確認した。スマートフォンをポケットに入れた。

 ドアを開けて、外に出た。

 いつも通りの朝だった。

 何も変わっていない、と思いながら——何かが変わっていると、どこかで感じていた。「我々は見ている」というメッセージが届いてから、めぐみはずっとそういう感覚の中にいた。今日かもしれない。明日かもしれない。あるいは来週かもしれない。でも、いつかは来る。そのことだけは、わかっていた。

 

 大学の正門をくぐったのは、午前九時少し前だった。

 構内に入って、いつもの道を歩いた。図書館の前を過ぎて、講義棟に向かう。木が並んでいる道で、秋になると葉が黄色くなる。今はまだ緑だった。

 足音が聞こえた。

 後ろから、複数の。

 めぐみは振り返らなかった。

 振り返らなかったのは、気づいていなかったからではない。気づいていたから、だった。振り返ったら現実になる——そういう感覚があった。振り返らなければ、もう少しだけ普通の朝でいられる。

 だから、振り返らなかった。

 足音が近づいた。

 左右から、人が並んだ。

 スーツ姿の男が二人。それから、一歩後ろに女が一人。全員、胸にバッジをつけていた。

 燦然と輝くバッジ。

《ドウトク秩序連合》

 男が言った。

「相澤めぐみさんですね」

 確認ではなかった。確信の言い方だった。

「はい」

 自分の声が、思ったより落ち着いていた。

「任意同行をお願いします。倫理調整法第十七条に基づく——」

 男が続きを言っている間、めぐみは前を見ていた。

 講義棟への道が、まっすぐに続いていた。木が並んでいて、葉が揺れていた。その先に、建物の入り口が見えた。いつもあそこから入って、いつもの階段を上って、いつもの教室に座る。

 今日は、そこまで行けない。

 男の言葉が終わった。

「……わかりました」

 めぐみは言った。

 

 車に乗せられた。

 黒い、窓に色のついた車だった。後部座席に座ると、左右を男に挟まれた。女は助手席に座った。ドアが閉まった。

 車が動き始めた。

 構内を出て、大通りに入った。

 めぐみは窓の外を見た。

 街が流れた。信号が変わった。人が歩いていた。誰も、この車を気にしていなかった。黒い車が一台、走っているだけだ。その中で何が起きているか、誰も知らない。知る方法もない。

 震えていた。

 手を膝の上に置いていたが、細かく震えていた。気づかれているかもしれない。気づかれていないかもしれない。どちらでもよかった。隠す気力が、なかった。

 怖い。

 それは本当だ。怖くないと言ったら嘘になる。

 でも。

 やるべきことをやった、という感覚があった。

 あの古書店で雑誌を見た日から、全部が繋がっていた。警告ウィンドウが出た端末の画面。公園のベンチで高山に言った言葉。ひとみの店の十四段の階段。品川のシャッター音。あの夜、送信ボタンを押した指。

 全部が、今日のこの車に繋がっていた。

 わかっていた。こうなるとわかっていた。

 それでも、やった。

 恐怖より少しだけ大きいものが、胸の奥にあった。

 名前のないものだった。誇り、という言葉は大げさな気がした。達成感、とも違う。ただ——やるべきことをやったという、静かな重みだった。

 

 信号で車が止まった。

 隣を、自転車が通り過ぎた。若い男が乗っていた。イヤホンをして、前を向いて、どこかへ急いでいた。

 あの人は知らない。

 この車の中で何が起きているか。めぐみが誰かということも、なぜここにいるかも。

 当たり前のことだ。

 めぐみだって、一ヶ月前まで知らなかった。古書店に入るまで、知らなかった。地下には地下の世界があって、そこで生きている人たちがいて、何かを取り戻そうとしている人たちがいることを。

 信号が変わった。

 車が動いた。

 めぐみは膝の上の手を見た。

 震えていた。

 それでも、手を握った。

 固く、静かに。

 

 車が止まった。

 高い建物の前だった。ガラス張りの、清潔な外観だった。入り口に人が立っていた。こちらを待っていたように、車が止まるのと同時に動き始めた。

 ドアが開いた。

「降りてください」

 めぐみは降りた。

 外の空気が、車内より少し冷たかった。

 空を見上げた。

 曇りだった。どこまでも灰色が続いていた。

 仲間たちの顔が浮かんだ。

 高山。品川。ひとみ。アミ。圭介。

 連絡できなかった。連行されたとき、スマートフォンはすぐに預けるように言われた。今頃、気づいているだろうか。心配しているだろうか。

 心配しているだろう、と思った。

 申し訳ない、とも思った。

 でも——止められなかったことを、恨んでいない。止めてほしくなかった。これは、めぐみが自分で選んだことだった。最初から。送信ボタンを押した瞬間から。あるいは——あの古書店で、ページをめくった瞬間から。

「こちらへ」

 男に促された。

 めぐみは歩いた。

 建物の入り口をくぐった。

 自動ドアが、音もなく閉まった。

 

 廊下を歩いた。

 白い壁。白い天井。足音だけが響いた。男二人が前後に付いていた。女は別の方向へ消えた。

 角を曲がった。

 また廊下が続いた。

 扉があった。

 男が扉を開けた。

「中へ」

 めぐみは入った。

 白い部屋だった。

 テーブルが一つ。椅子が二脚、向かい合っている。窓はない。灯りは天井の蛍光灯だけだった。

 めぐみは椅子に座った。

 男たちは部屋の外に出た。扉が閉まった。

 一人になった。

 静かだった。

 廊下の足音も、外の音も、何も聞こえなかった。蛍光灯が低く唸っていた。

 めぐみは手を膝の上に置いた。

 震えていた。まだ、震えていた。

 それでも、目を閉じなかった。

 正面の、白い壁を見た。

 何もない壁だった。

 でも、めぐみにはその壁の向こうに、何かが見えた気がした。

 高山が六畳の部屋でキーボードを叩いていた。品川が暗室でフィルムを現像していた。アミがポールを握っていた。ひとみがグラスを磨いていた。圭介が端末の前に座っていた。

 全員、今もどこかで、それぞれのことをやっている。

 めぐみがここにいることを、まだ知らないまま。

 それでいい、と思った。

 知ってから心配するのでいい。今はまだ、それぞれの場所で、それぞれのことをやっていてほしい。

 

 どのくらい待っただろう。

 時間の感覚がなかった。スマートフォンもない。時計もない。蛍光灯が同じ明るさで、同じように唸っている。

 扉が開いた。

 めぐみは顔を上げた。

 入ってきたのは、一人だった。

 黒いコートを着た女だった。

 背筋が真っ直ぐだった。表情がなかった。いや、表情がないのではなく——表情を持たないことに慣れた顔だった。長年、感情を顔に出すことを、しなかった人間の顔だった。

 白髪が多かった。七十代か、あるいはそれ以上か。

 女は向かいの椅子を引いた。

 音もなく、座った。

 めぐみを見た。

 目が、鋭かった。

 めぐみは目を逸らさなかった。

 逸らせなかった、というより——逸らしたくなかった。この瞬間を、ちゃんと見ていたかった。

 女はしばらく、めぐみを見ていた。

 品川が目を見たときと、少し似ていた。値踏みではなく、もっと深いところを見ようとしている。

 やがて、女は口を開いた。

 低い声だった。静かな声だった。

「相澤めぐみさん」

「はい」

「私がヴェルナ・グロースです」

 めぐみは息を飲んだ。

 報告を受けて部下が動く、と思っていた。担当者が来る、と思っていた。

 まさか——本人が来るとは、思っていなかった。

 ヴェルナはめぐみの反応を見て、何も言わなかった。

 テーブルの上に手を置いた。組んだ。

 静かに言った。

「なぜ、こんなことをしたのですか」

 めぐみは少し間を置いた。

 震えていた。手も、足も、細かく震えていた。

 それでも、答えた。

「見てほしかったからです」

 ヴェルナの目が、わずかに動いた。

 めぐみは続けた。

「生きているということを、誰かに見てほしかった。それだけです」

 白い部屋が、静かだった。

 蛍光灯が、低く唸り続けていた。

 ヴェルナは何も言わなかった。

 ただ、めぐみを見ていた。

 その目の奥に——何かがあった。

 鋭さの奥に、もっと古いものが。

 めぐみには、名前をつけられなかった。

 でも、確かにそこにあった。

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