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第19話 調査と記憶

 桐島圭介が調査を始めたのは、めぐみからの電話を切った翌朝だった。

 大学の研究室。他の院生が来る前の、まだ誰もいない時間。端末を開いて、まず公式の資料から当たった。

 ヴェルナ・グロース。

 ドウトク秩序連合代表。就任から三十年。国際会議での発言録、倫理調整機構の設立経緯についての公式文書、各国政府との連携協定書——。表の世界に残っている記録は、大量にある。

 だが、それ以前がない。

 生まれた場所。育った環境。学歴。倫理調整機構に入る前の経歴。そういうものが、どこにも書かれていない。書かれていないのではなく——消されている、という感触があった。長年、資料を扱ってきた圭介の勘だった。残っている記録が綺麗すぎる。人間の履歴は、本来もっと雑然としているものだ。取りこぼしがあり、矛盾があり、空白がある。それがヴェルナの公式記録には、一切なかった。

 完璧に整えられた履歴というのは——何かを隠している人間の履歴だ。

 圭介は端末を閉じた。

 表の資料では、ここまでだ。

 

 アングラのネットワークを辿り始めたのは、その日の夜だった。

 直接「ヴェルナを知っている人間を探している」とは書けない。そういう問いかけが、どこかに記録される可能性がある。圭介は迂回した。旧時代の欧州圏の教育機関について調べている、という名目で、いくつかのアングラの研究者コミュニティに問いかけを流した。

 返信が来るまで、三日かかった。

 一通だけ。

 差出人は名前を名乗らなかった。

あなたが探している人物について、

心当たりがある人間を知っている。

高齢で、今は地方にいる。

直接会いに行けるか。

場所と名前は、返信をくれれば教える。

ただし、この話は一度きりだ。

 圭介は返信した。

 

 指定された場所は、新幹線で二時間ほどの、地方の小さな町だった。

 駅前に商店街があったが、シャッターが半分以上閉まっていた。圭介は徒歩で十分ほど歩いて、古い住宅街の中の一軒家の前に立った。

 表札がなかった。

 インターフォンを押した。

 しばらくして、扉が開いた。

 八十代だろう。小柄な男だった。白髪で、背中が少し丸くなっていた。目だけが、まだ鋭かった。

「桐島さんか」

「はい。連絡をいただいた——」

「入れ」

 それだけ言って、男は家の中に入っていった。

 

 居間に通された。

 古い家具が並んでいた。掃除は行き届いているが、生活感が薄かった。一人で長く暮らしている部屋の空気だった。

 男は茶を出した。それから向かいに座って、圭介をしばらく見た。

「なぜ、あの子のことを調べている」

 圭介は少し考えた。

「知りたい人間がいます。ヴェルナ・グロースという人間が、なぜああなったのかを」

「知ってどうする」

「わかりません」

 正直に言った。

「知ることで何かが変わるかもしれない。変わらないかもしれない。でも——知りたいと思っている人間がいる。その人間のために、来ました」

 男はしばらく黙った。

 茶を一口飲んだ。

「あなたは、あの子が今やっていることを、知っているんだろう」

「はい」

「それを変えようとしている」

「……そういうことになるかもしれません」

 男はまた黙った。

 窓の外で、風が来た。庭の木が揺れた。枯れ葉が一枚、窓の外を横切った。

「同じ学校にいた」

 男はやがて言った。

「あの子とは、同じ学校に通っていた。俺は彼女より三つ上だったが、小さな学校だったから、顔は知っていた」

 圭介は黙って聞いた。

「おとなしい子だった。目立たない子だった。成績はよかったが、友人が多いわけではなかった。休み時間に一人で本を読んでいるような——そういう子だった」

 男は茶を両手で包んだ。

「ただ」

 少し間を置いた。

「絵を描くのが好きだった。誰も知らないと思っていたかもしれないが、俺は知っていた。スケッチブックをいつも持っていた。見せることはなかったが——描いていた。ずっと描いていた」

 圭介はその言葉を、静かに受け取った。

「告白の話は」

「知っている」

 男は短く言った。

「あの後、学校中に知れ渡った。子どもというのは残酷だ。悪意がなくても、残酷なことをする。あの子は翌日から、変わった。目立たなかった子が——もっと見えなくなった」

「スケッチブックは」

「なくなった」

 圭介は、その一言の重さを感じた。

「見せることをやめたのではなく」

「持ち歩かなくなった。描くことをやめたのかもしれない。あるいは、隠した。どちらかはわからない」

 男は窓の外を見た。

「俺はあの頃、あの子に声をかけなかった。かけるべきだったかもしれない。でも、子どもというのはそういうものだ。見て見ぬふりをした。それが今でも、少しだけ引っかかっている」

 圭介は黙って待った。

 男がまだ、何かを言おうとしているのがわかったから。

「あの子は」

 男はゆっくりと言った。

「ただ見てほしかっただけだったと思う」

 窓の外で、また風が来た。

「絵を見てほしかった。自分を見てほしかった。あの告白だって——好きな相手に振り向いてほしかったというより、誰かに自分がいることを確かめてほしかっただけじゃないかと、今になって思う」

 男は視線を桐島に戻した。

「でも、世界は見てくれなかった」

 それ以上は言わなかった。

 茶が、静かに冷めていった。

 

 帰りの電車の中で、桐島はずっと窓の外を見ていた。

 田畑が続いて、山が続いて、トンネルに入って、また明るくなった。

 男の声が、頭の中で繰り返した。

ただ見てほしかっただけだったと思う。でも、世界は見てくれなかった。

 ヴェルナ・グロースが世界を変えた動機を、圭介は「復讐」として理解してきた。整形に失敗した女の、醜悪な復讐劇として。

 だが、今日の老人の話を聞いてから——少し違う景色が見えてきた。

 復讐の前に、あったものがある。

 ただ、見てほしかっただけだった。

 それが叶わなかったとき、人間は何をするのか。

 桐島には、答えがわからなかった。

 

 めぐみに連絡したのは、夜になってからだった。

「会えるか」

「はい。どこでも」

 ひとみの店は今、目立つ動きを避けている。圭介はいつもの大学近くの、人通りの少ない路地を選んだ。

 めぐみは先に来ていた。街灯の下に立って、少し寒そうにしていた。コートの前を合わせて、桐島が来るのを待っていた。

「寒かったか」

「大丈夫です」

 二人は路地を歩きながら、話した。

 桐島は順番に話した。公式記録には何もなかったこと。アングラのネットワークを辿ったこと。地方の小さな町で、老人に会ったこと。

 めぐみは黙って聞いた。

 スケッチブックの話を聞いたとき、少し顔が動いた。

 男の最後の言葉を、桐島は正確に繰り返した。

「『あの子は、ただ見てほしかっただけだったと思う。でも、世界は見てくれなかった』——そう言っていた」

 めぐみは足を止めた。

 桐島も止まった。

 路地の奥で、猫が一匹、塀の上から二人を見下ろしていた。しばらくして、興味を失ったように消えた。

 めぐみは動かなかった。

 街灯の光の中で、何かを考えている顔だった。考えているというより——受け取っている、という顔だった。

「めぐみさん」

 桐島が呼んだ。

 めぐみは返事をしなかった。

 しばらく経ってから、ゆっくりと言った。

「同じだ」

「何が」

「私が古書店で雑誌を見て、感じたこと」めぐみは静かに言った。「あの写真の女性は、ただ見てほしかっただけだと思った。それが、私がグラビアアイドルになりたいと思った理由の全部だった」

 桐島は何も言わなかった。

「ヴェルナという人も——同じ気持ちを、ずっと持っていた」

「ああ」

「でも、世界は見てくれなかった」

「そうだ」

 めぐみは顔を上げた。

「それで、世界を作り変えた」

「そういうことになる」

 二人の間に、しばらく沈黙があった。

 遠くで車が通った。その音が来て、また遠くなった。

「怖くないか」

 桐島が言った。

「何が」

「ヴェルナと、あなたの動機が同じだとしたら——」

 めぐみは桐島を見た。

「同じ場所から出発して、違う方向へ行ったということですか」

「そうだ」

 めぐみは少し考えた。

「怖くない、と言ったら嘘になります」

「正直だな」

「でも——」めぐみは続けた。「ヴェルナという人が道を間違えたとして、それは最初の気持ちが間違っていたからじゃないと思う。見てほしかったこと自体は、間違いじゃなかった。誰かに見てもらえなかったことが——ずっと、彼女の中に残ったんだと思う」

 桐島は頷かなかった。

 頷くことが正しいかどうか、判断がつかなかった。

「会いたいと思っています」

 めぐみが言った。

「誰に」

「ヴェルナに」

 桐島の表情が変わった。

「正気か」

「正気じゃないかもしれません。でも——」

 めぐみは街灯を見上げた。

「あの人に、直接聞きたいことがある」

「何を」

「あなたも、見てほしかっただけじゃなかったですか、って」

 桐島はしばらく、めぐみを見た。

 反論しようとした。危険すぎる、無謀だ、そんな話が通じる相手じゃない——言葉はいくつも浮かんだ。

 でも、言わなかった。

 この子は、公園のベンチで高山に「やらずにいられない」と言った子だ。ひとみの前で「怖くても、やります」と言った子だ。そういう子に、危険だという言葉は刺さらない。刺さったとしても、止まらない。

「いつかそうなるかもしれない」

 桐島はやがて言った。

「でも——今はまだ、その時じゃない。向こうが動いてくる前に、こちらから行くのは早すぎる」

「わかっています」

「本当に?」

「本当に」めぐみは桐島を見た。「今はまだ、待ちます。でも——その時が来たら、逃げません」

 桐島は一度だけ、頷いた。

 

 路地を出て、大通りに戻ったとき、めぐみが立ち止まった。

「一つだけ聞いていいですか」

「なんだ」

「その老人は——ヴェルナのことを、今でも気にかけていましたか」

 桐島は少し考えた。

「気にかけていた、と思う。声をかけなかったことを、今でも引っかかっていると言っていた」

「そうですか」

 めぐみはまた歩き始めた。

 少し先を歩きながら、前を向いたまま言った。

「見てくれなかった世界の中にも、見ようとしていた人間はいたんですね」

 桐島は答えなかった。

 そうだ、とも、違う、とも言えなかった。

 ただ、その言葉を——受け取った。

 夜の大通りを、二人は並んで歩いた。

 街灯が、一定の間隔で続いていた。

 光と影を、交互に通り抜けながら。

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