第18話 それぞれの朝
スマートフォンの通知が、止まらなかった。
めぐみは布団の中で画面を見ていた。昨夜、送信ボタンを押してから、ほとんど眠れなかった。目を閉じても、数字が頭の中で動き続けた。
通知を開いた。
賛同がある。感動したという言葉がある。泣いたという言葉がある。シェアした、という報告がある。
そして——批判がある。罵倒がある。消えろという言葉がある。
めぐみは全部読もうとした。
三百件を過ぎたあたりで、やめた。
読み続けることが目的ではない。届いた。それで十分だ。そう思ったから——ではなく、そう思おうとしたから、やめた。本当のところ、批判の言葉は刺さっていた。刺さっていることを、認めたくなかった。
画面をスクロールしながら、一つのメッセージで指が止まった。
差出人は表示されていない。本文は一行だけだった。
我々は見ている。
めぐみは画面を閉じた。
スマートフォンを布団の上に置いた。
天井を見た。
手が、少し震えていた。気づいたのは、しばらく経ってからだった。震えていることに気づいてから、震えが止まるまで、少し時間がかかった。
窓の外で、朝が来ていた。
普通の朝だった。鳥の声がした。どこかで車が通った。昨日と同じ、何も変わらない朝だった。
でも、めぐみには——昨日とは違う朝だった。
◆
高山は朝からキーボードを叩いていた。
六畳一間。遮光カーテン。モニターの青白い光。何も変わっていない。昨日も、一年前も、五年前も、この部屋でこの姿勢だった。
地下ブログに、新しい記事を書いていた。
めぐみの写真についての記事ではない。それは書かない。直接繋げることはしない。書けば、めぐみへの道が短くなる。そういうことを、高山は長年やってこなかった。
旧時代のグラビア文化について書いた。
それが何だったか。誰のためのものだったか。なぜあの時代に存在していたか。写真を撮られることで、何かを得ていた人間がいたとしたら、それは何だったか。
書きながら思った。
今まで、三百人に向けて書いてきた。今日は何人が読むかわからない。昨夜の拡散で、ブログへのアクセスも増えるかもしれない。増えたとして、それで何かが変わるかといえば——変わらない。
書くことは、変わらない。
届いた先で何かが起きるとしたら、それは読んだ人間が決めることだ。高山が決めることではない。
記事を送信した。
煙草を一本取り出した。
指の間で転がした。
今日も、火はつけなかった。
◆
アミはステージを磨いていた。
開店前の、誰もいない地下クラブで、一人でモップをかけていた。習慣だった。開店前の一時間は、一人で掃除をする。床を拭いて、ポールを拭いて、ステージの端まで丁寧に。
モップを動かしながら、昨夜のことを考えていた。
品川のレンズの前で、めぐみと向かい合ったあの瞬間を。
ポールを二人で握って、顔を少し上げて、目線を落とした。スポットライトが上から落ちていた。めぐみの表情が、途中から変わった。作ったのではない。何かが解けたように変わった。アミはその瞬間を、隣で見ていた。
アミはこのステージで何年も踊ってきた。
観客が十人でも、五人でも、踊り続けてきた。誰かに見てほしかった。それだけで、ここに立ち続けてきた。
でも、昨夜の写真が世に出て、初めて——本当に見られた気がした。
踊っているときではなく、写真になって初めて。
奇妙な感覚だった。アミには少し、納得がいかなかった。踊ることの方が、ずっと直接的なはずなのに。
でも、そう感じた。
写真は、残る。
踊りは、消える。
残ることで、見られる、ということがある。
アミはモップを止めた。
ポールに歩み寄って、一度だけ握った。
冷たかった。いつも通り、金属の冷たさだった。
それが今朝は、ほんの少しだけ——違う温度に感じた。
気のせいかもしれない。
でも、気のせいでも、いいと思った。
◆
ひとみは朝の仕込みをしていた。
カウンターの奥で、グラスを磨いていた。右手から始めて、底から縁へ、一方向にだけ回す。逆に回さない。それが銀座で教わったやり方だった。
スマートフォンに、メッセージが届いていた。
かつてキャバクラで働いていた女から。ホストクラブにいた男から。サパークラブのママをやっていた女から。デリヘルで働いていたという女から。夜の世界で生きてきた、散り散りになった人間たちから。
全員、短い言葉を送ってきていた。
見た。
泣いた。
あれは私たちだ。
ありがとう。
ひとみはメッセージを読んで、返信しなかった。
返信する言葉が出てこなかった、というより——返信してしまったら、何かが崩れる気がした。
グラスを磨き続けた。
「椿」から持ち出してきた、古いグラスを。傷がついている。でも欠けていない。それだけの時間を、一緒に生きてきたグラスを。
磨きながら、思った。
あの子は知らなかったはずだ。夜の世界を。キャバクラを。スナックを。ホストクラブを。それを生きてきた人間の痛みを。
それでも——あの写真の中に、そういう人間たちが感じていたものと、同じものがあった。
見てほしい。ここにいる。それだけだ。
それだけのことが、今の世界では罪になる。
ひとみはグラスを光にかざした。
曇りは、なかった。
棚に戻した。
次のグラスを取った。
磨き続けた。
◆
品川は暗室にいた。
現像液の中で、像が浮かんでくる。
昨夜の撮影分だ。デジタルでも撮っていたが、フィルムでも撮っていた。誰にも言っていなかった。ただ、そうしたかった。デジタルとは違う質感で、あの夜を残したかった。理由を言葉にする気はなかった。ただ、そうしたかった。
ピンセットでフィルムを引き上げた。
像を確認した。
一枚目。めぐみがステージに立っている。スポットライトの下で、レンズを向いている。
二枚目。アミとのツーショット。ポールを二人で握って、向かい合っている。モノクロなのにもかかわらず、光の質が違った。暗室で見るそれは、モニターで見たものより——もっと静かで、もっと深かった。
三枚目。
品川は手を止めた。
めぐみがステージの端で、少し俯いている。カメラを意識していない。その瞬間に、内側から何かが滲み出ていた。
彩花を思い出した。
一st写真集の撮影中、ほんの一瞬だけ片鱗を感じたあの瞬間を。あの子も、カメラを意識していない瞬間に、内側から何かが出てきた。品川はあの瞬間のためにシャッターを切り続けていた。そして、撮れた。
彩花とめぐみは違う。
彩花は整えられた環境の中で輝いた。めぐみは何もないところから自分で立った。その違いは写真に出る。必ず出る。
でも、あの瞬間に滲み出るものは——同じ種類のものだった。
誰にも教わらなかったのに、最初から持っていた。
品川はフィルムをライトに当てた。
確認した。
(いた)
心の中で、昨夜と同じ言葉が出てきた。
(本物が)
暗室の赤い光の中で、品川は少し立ち止まった。
何年も、シャッターを切っていなかった。撮る意味がわからなかった。エネルギーを持った人間が、今の世界にいるかどうかが、わからなかった。
いた。
規制後に生まれて、誰にも教わらずに——いた。
品川はフィルムを乾燥させた。
丁寧に、時間をかけて。
暗室を出るとき、バッグを肩にかけた。
重かった。
久しぶりの重さだった。
◆
昼前、ヴェルナの執務室に部下が入ってきた。
「投稿の拡散は継続中です。削除対応を続けていますが、スクリーンショットの二次拡散は止められていません。現在の推定リーチは——」
数字を言った。
ヴェルナは聞いた。表情を変えなかった。
「発信者の特定状況は」
「相澤めぐみの特定は完了しています。現住所、大学、行動パターン——全て把握しました。接触している人間のうち、三名まで身元が割れています。残りは継続中です」
「動くな」
「はい」
「ただし」
ヴェルナは言った。
「相澤めぐみに、通知を送れ」
部下が少し顔を上げた。
「通知、ですか」
「逮捕でも、警告でもない。ただ——我々が見ているということを、知らせろ」
「文面は」
「一行でいい」
ヴェルナはデスクにあった紙を引き寄せた。
手書きで、一行書いた。
部下に渡した。
我々は見ている。
「以上だ」
「了解しました」
部下が下がった。
ヴェルナは一人になった。
デスクの上に、昨日から片付けていない紙がある。
ただ、生きていると伝えるために。
まだ、そこにあった。
ヴェルナはその紙を見た。
片付けようとしなかった。
窓の外、昼の街が動いていた。整然として、秩序があって、清潔だった。
ヴェルナが何十年もかけて作った世界だった。
間違っていない。
そう思った。
思いながら——デスクの上の紙から、目が離れなかった。
◆
夕方、めぐみは桐島に電話した。
「あのメッセージ、どこから来たかわかりますか」
桐島はしばらく間を置いてから答えた。
「ド連だ」
沈黙があった。
「本格的に動き始めた」圭介は続けた。「しばらく動きを止めた方がいい」
「止めません」
「危険だ」
「わかってます」
めぐみは窓の外を見た。
普通の街が、普通に動いていた。夕暮れが来て、街灯が点き始めていた。
「一つだけ、確認したいことがあります」
「なんだ」
「ヴェルナという人のことを、もっと知りたい」
桐島は少し黙った。
「なぜ今、それを」
「昨夜、写真を出した後、コメントを読みました。批判の言葉もありました。このままでいいという人たちの言葉もありました」
「それと、ヴェルナが何の関係がある」
めぐみは少し考えた。
「間違いだとは思えなかったんです。批判している人たちの言葉が。このままでいいという人たちの気持ちが」
「……うん」
「でも——」めぐみは続けた。「ヴェルナという人が、ただ憎くて世界を変えたとは、どうしても思えなくて」
「なぜ」
「あの写真の中の自分を見たとき」めぐみはゆっくりと言った。「何かを見てほしかった。それだけだと思った。その気持ちは、誰の中にでもある気がした。ヴェルナという人の中にも——きっとあった気がして」
桐島は答えなかった。
電話の向こうで、しばらく沈黙が続いた。
「根拠はないです」めぐみは言った。「ただ、そんな気がして」
桐島はもう少し黙ってから、言った。
「……調べてみる」
「お願いします」
電話を切った。
めぐみはスマートフォンを持ったまま、窓の外を見た。
街灯が、一つずつ点いていく。
暗くなっていく街の中で、灯りが増えていく。
一通のメッセージが届いた。
我々は見ている。
怖い。それは本当だ。
でも——見ているということは、こちらも見られているということだ。
見てほしかった。
それが始まりだった。
だとしたら、見られていることは——怖いだけではないかもしれない。
めぐみはそう思いながら、すぐに、甘いと思った。
それでも、思ったことは消えなかった。
夜が来た。
それぞれの部屋で、それぞれの灯りが点いていた。




