表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

18/25

第18話 それぞれの朝

 スマートフォンの通知が、止まらなかった。

 めぐみは布団の中で画面を見ていた。昨夜、送信ボタンを押してから、ほとんど眠れなかった。目を閉じても、数字が頭の中で動き続けた。

 通知を開いた。

 賛同がある。感動したという言葉がある。泣いたという言葉がある。シェアした、という報告がある。

 そして——批判がある。罵倒がある。消えろという言葉がある。

 めぐみは全部読もうとした。

 三百件を過ぎたあたりで、やめた。

 読み続けることが目的ではない。届いた。それで十分だ。そう思ったから——ではなく、そう思おうとしたから、やめた。本当のところ、批判の言葉は刺さっていた。刺さっていることを、認めたくなかった。

 画面をスクロールしながら、一つのメッセージで指が止まった。

 差出人は表示されていない。本文は一行だけだった。

我々は見ている。

 めぐみは画面を閉じた。

 スマートフォンを布団の上に置いた。

 天井を見た。

 手が、少し震えていた。気づいたのは、しばらく経ってからだった。震えていることに気づいてから、震えが止まるまで、少し時間がかかった。

 窓の外で、朝が来ていた。

 普通の朝だった。鳥の声がした。どこかで車が通った。昨日と同じ、何も変わらない朝だった。

 でも、めぐみには——昨日とは違う朝だった。

 

 ◆

 

 高山は朝からキーボードを叩いていた。

 六畳一間。遮光カーテン。モニターの青白い光。何も変わっていない。昨日も、一年前も、五年前も、この部屋でこの姿勢だった。

 地下ブログに、新しい記事を書いていた。

 めぐみの写真についての記事ではない。それは書かない。直接繋げることはしない。書けば、めぐみへの道が短くなる。そういうことを、高山は長年やってこなかった。

 旧時代のグラビア文化について書いた。

 それが何だったか。誰のためのものだったか。なぜあの時代に存在していたか。写真を撮られることで、何かを得ていた人間がいたとしたら、それは何だったか。

 書きながら思った。

 今まで、三百人に向けて書いてきた。今日は何人が読むかわからない。昨夜の拡散で、ブログへのアクセスも増えるかもしれない。増えたとして、それで何かが変わるかといえば——変わらない。

 書くことは、変わらない。

 届いた先で何かが起きるとしたら、それは読んだ人間が決めることだ。高山が決めることではない。

 記事を送信した。

 煙草を一本取り出した。

 指の間で転がした。

 今日も、火はつけなかった。

 

 ◆

 

 アミはステージを磨いていた。

 開店前の、誰もいない地下クラブで、一人でモップをかけていた。習慣だった。開店前の一時間は、一人で掃除をする。床を拭いて、ポールを拭いて、ステージの端まで丁寧に。

 モップを動かしながら、昨夜のことを考えていた。

 品川のレンズの前で、めぐみと向かい合ったあの瞬間を。

 ポールを二人で握って、顔を少し上げて、目線を落とした。スポットライトが上から落ちていた。めぐみの表情が、途中から変わった。作ったのではない。何かが解けたように変わった。アミはその瞬間を、隣で見ていた。

 アミはこのステージで何年も踊ってきた。

 観客が十人でも、五人でも、踊り続けてきた。誰かに見てほしかった。それだけで、ここに立ち続けてきた。

 でも、昨夜の写真が世に出て、初めて——本当に見られた気がした。

 踊っているときではなく、写真になって初めて。

 奇妙な感覚だった。アミには少し、納得がいかなかった。踊ることの方が、ずっと直接的なはずなのに。

 でも、そう感じた。

 写真は、残る。

 踊りは、消える。

 残ることで、見られる、ということがある。

 アミはモップを止めた。

 ポールに歩み寄って、一度だけ握った。

 冷たかった。いつも通り、金属の冷たさだった。

 それが今朝は、ほんの少しだけ——違う温度に感じた。

 気のせいかもしれない。

 でも、気のせいでも、いいと思った。

 

 ◆

 

 ひとみは朝の仕込みをしていた。

 カウンターの奥で、グラスを磨いていた。右手から始めて、底から縁へ、一方向にだけ回す。逆に回さない。それが銀座で教わったやり方だった。

 スマートフォンに、メッセージが届いていた。

 かつてキャバクラで働いていた女から。ホストクラブにいた男から。サパークラブのママをやっていた女から。デリヘルで働いていたという女から。夜の世界で生きてきた、散り散りになった人間たちから。

 全員、短い言葉を送ってきていた。

見た。

泣いた。

あれは私たちだ。

ありがとう。

 ひとみはメッセージを読んで、返信しなかった。

 返信する言葉が出てこなかった、というより——返信してしまったら、何かが崩れる気がした。

 グラスを磨き続けた。

「椿」から持ち出してきた、古いグラスを。傷がついている。でも欠けていない。それだけの時間を、一緒に生きてきたグラスを。

 磨きながら、思った。

 あの子は知らなかったはずだ。夜の世界を。キャバクラを。スナックを。ホストクラブを。それを生きてきた人間の痛みを。

 それでも——あの写真の中に、そういう人間たちが感じていたものと、同じものがあった。

 見てほしい。ここにいる。それだけだ。

 それだけのことが、今の世界では罪になる。

 ひとみはグラスを光にかざした。

 曇りは、なかった。

 棚に戻した。

 次のグラスを取った。

 磨き続けた。

 

 ◆

 

 品川は暗室にいた。

 現像液の中で、像が浮かんでくる。

 昨夜の撮影分だ。デジタルでも撮っていたが、フィルムでも撮っていた。誰にも言っていなかった。ただ、そうしたかった。デジタルとは違う質感で、あの夜を残したかった。理由を言葉にする気はなかった。ただ、そうしたかった。

 ピンセットでフィルムを引き上げた。

 像を確認した。

 一枚目。めぐみがステージに立っている。スポットライトの下で、レンズを向いている。

 二枚目。アミとのツーショット。ポールを二人で握って、向かい合っている。モノクロなのにもかかわらず、光の質が違った。暗室で見るそれは、モニターで見たものより——もっと静かで、もっと深かった。

 三枚目。

 品川は手を止めた。

 めぐみがステージの端で、少し俯いている。カメラを意識していない。その瞬間に、内側から何かが滲み出ていた。

 彩花を思い出した。

 一st写真集の撮影中、ほんの一瞬だけ片鱗を感じたあの瞬間を。あの子も、カメラを意識していない瞬間に、内側から何かが出てきた。品川はあの瞬間のためにシャッターを切り続けていた。そして、撮れた。

 彩花とめぐみは違う。

 彩花は整えられた環境の中で輝いた。めぐみは何もないところから自分で立った。その違いは写真に出る。必ず出る。

 でも、あの瞬間に滲み出るものは——同じ種類のものだった。

 誰にも教わらなかったのに、最初から持っていた。

 品川はフィルムをライトに当てた。

 確認した。

(いた)

 心の中で、昨夜と同じ言葉が出てきた。

(本物が)

 暗室の赤い光の中で、品川は少し立ち止まった。

 何年も、シャッターを切っていなかった。撮る意味がわからなかった。エネルギーを持った人間が、今の世界にいるかどうかが、わからなかった。

 いた。

 規制後に生まれて、誰にも教わらずに——いた。

 品川はフィルムを乾燥させた。

 丁寧に、時間をかけて。

 暗室を出るとき、バッグを肩にかけた。

 重かった。

 久しぶりの重さだった。

 

 ◆

 

 昼前、ヴェルナの執務室に部下が入ってきた。

「投稿の拡散は継続中です。削除対応を続けていますが、スクリーンショットの二次拡散は止められていません。現在の推定リーチは——」

 数字を言った。

 ヴェルナは聞いた。表情を変えなかった。

「発信者の特定状況は」

「相澤めぐみの特定は完了しています。現住所、大学、行動パターン——全て把握しました。接触している人間のうち、三名まで身元が割れています。残りは継続中です」

「動くな」

「はい」

「ただし」

 ヴェルナは言った。

「相澤めぐみに、通知を送れ」

 部下が少し顔を上げた。

「通知、ですか」

「逮捕でも、警告でもない。ただ——我々が見ているということを、知らせろ」

「文面は」

「一行でいい」

 ヴェルナはデスクにあった紙を引き寄せた。

 手書きで、一行書いた。

 部下に渡した。

我々は見ている。

「以上だ」

「了解しました」

 部下が下がった。

 ヴェルナは一人になった。

 デスクの上に、昨日から片付けていない紙がある。

ただ、生きていると伝えるために。

 まだ、そこにあった。

 ヴェルナはその紙を見た。

 片付けようとしなかった。

 窓の外、昼の街が動いていた。整然として、秩序があって、清潔だった。

 ヴェルナが何十年もかけて作った世界だった。

 間違っていない。

 そう思った。

 思いながら——デスクの上の紙から、目が離れなかった。

 

 ◆

 

 夕方、めぐみは桐島に電話した。

「あのメッセージ、どこから来たかわかりますか」

 桐島はしばらく間を置いてから答えた。

「ド連だ」

 沈黙があった。

「本格的に動き始めた」圭介は続けた。「しばらく動きを止めた方がいい」

「止めません」

「危険だ」

「わかってます」

 めぐみは窓の外を見た。

 普通の街が、普通に動いていた。夕暮れが来て、街灯が点き始めていた。

「一つだけ、確認したいことがあります」

「なんだ」

「ヴェルナという人のことを、もっと知りたい」

 桐島は少し黙った。

「なぜ今、それを」

「昨夜、写真を出した後、コメントを読みました。批判の言葉もありました。このままでいいという人たちの言葉もありました」

「それと、ヴェルナが何の関係がある」

 めぐみは少し考えた。

「間違いだとは思えなかったんです。批判している人たちの言葉が。このままでいいという人たちの気持ちが」

「……うん」

「でも——」めぐみは続けた。「ヴェルナという人が、ただ憎くて世界を変えたとは、どうしても思えなくて」

「なぜ」

「あの写真の中の自分を見たとき」めぐみはゆっくりと言った。「何かを見てほしかった。それだけだと思った。その気持ちは、誰の中にでもある気がした。ヴェルナという人の中にも——きっとあった気がして」

 桐島は答えなかった。

 電話の向こうで、しばらく沈黙が続いた。

「根拠はないです」めぐみは言った。「ただ、そんな気がして」

 桐島はもう少し黙ってから、言った。

「……調べてみる」

「お願いします」

 電話を切った。

 めぐみはスマートフォンを持ったまま、窓の外を見た。

 街灯が、一つずつ点いていく。

 暗くなっていく街の中で、灯りが増えていく。


 一通のメッセージが届いた。


我々は見ている。


 怖い。それは本当だ。

 でも——見ているということは、こちらも見られているということだ。

 見てほしかった。

 それが始まりだった。

 だとしたら、見られていることは——怖いだけではないかもしれない。

 めぐみはそう思いながら、すぐに、甘いと思った。

 それでも、思ったことは消えなかった。

 夜が来た。

 それぞれの部屋で、それぞれの灯りが点いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ