第24章 戻る——しかし
規制緩和の通知が各機関に届いたのは、秋の終わりだった。
ドウトク秩序連合からの公式文書だった。「倫理基準の現代的再解釈に基づく、段階的な表現規制の見直しについて」という長い題名がついていた。具体的な内容は、いくつかの表現カテゴリーについて、審査基準を緩める、というものだった。
革命的な宣言ではなかった。
ただの、行政文書だった。
それが、この変化の始まりだった。
◆
アミが表のステージに立つことが決まったのは、通知から三週間後だった。
地下クラブの常連だった客の一人が、小さな劇場を持っていた。定員五十人の、古いビルの二階にある場所だった。長い間、別の用途で使われていたが、規制緩和を受けて、再びステージとして使えることになった。
初日の公演。
アミは楽屋で準備をしながら、手が震えていることに気づいた。
地下でどれだけ踊ってきたか。何年、あのポールを握り続けてきたか。観客が五人でも十人でも、踊り続けてきた。それなのに——今夜は手が震えていた。
表のステージ、という意味が、今夜初めてアミには実感として届いていた。
隠れない。暗がりの中ではない。看板がある。チラシがある。入場料を払って来る人間がいる。
そういうことだ。
開演の時間になった。
袖からステージに出た。
照明が当たった。
客席を見た。
五十席のうち、半分ほどが埋まっていた。二十五人か、それより少し多いか。
アミは一瞬だけ、止まった。
止まったことを、顔に出さなかった。長年の習慣だった。ステージに出たら、何があっても止まらない。それがアミのやり方だった。
音楽が始まった。
アミは踊った。
ポールを握った。身体を預けた。回った。光の中で、影の中で、踊り続けた。
終演後、楽屋に一人で戻った。
タオルで汗を拭きながら、鏡を見た。
「思ったより、来ないのね」
独り言だった。
誰かを責めているわけではなかった。ただ、そうだった。
地下では十人でも「来てくれた」と思えた。でも今夜の二十数人は——なぜか、違う感触だった。
五十席の、空いた椅子が見えてしまった。
地下では椅子の数を数えなかった。数えなくてよかった。来た人間だけを見ていた。
表に出ると、来なかった人間が見える。
それが、アミには思っていたより——堪えた。
踊ることは変わらない。
でも、こんな感覚があるとは、知らなかった。
アミはタオルを置いて、また鏡を見た。
自分の顔を見た。
泣いていなかった。
泣かない、と決めたわけではない。ただ、涙が出なかった。
続けるしかない、という気持ちだけがあった。来週も来月も、続けるしかない。それだけだった。
◆
高山が表の出版社に連絡を取ったのは、規制緩和から一ヶ月後だった。
かつて取引があった編集部に、一通のメールを送った。旧時代の業界のことを知っている人間が残っていれば、話ができると思っていた。
返信が来た。
対応した編集者は、三十代だった。
会って話した。喫茶店で、向かい合った。
編集者は礼儀正しかった。話を聞く姿勢があった。悪意はなかった。
ただ——グラビアという文化を、知らなかった。
知識として知っていた。規制前に存在していたコンテンツの一形態として。教科書的な理解として。
でも、体験として知らなかった。
あの雑誌を手に取ったことがない。ページをめくったことがない。写真を見て何かを感じたことがない。それがどういう文化で、誰のためのものだったか、実感として持っていない。
高山は話した。
あの時代のことを。写真が何を伝えようとしていたかを。品川が何を撮ろうとしていたかを。
編集者は聞いた。
真剣に聞いた。メモも取った。
でも、話が終わった後、こう言った。
「参考になりました。ただ、今の読者層のニーズとどう合致するか、少し時間をいただけますか」
高山は頷いた。
「わかりました」
喫茶店を出て、一人で歩きながら、思った。
悪い編集者ではない。むしろ、誠実な方だ。
でも、あの男には届かなかった。
届かなかったのではなく——届く土台が、なかった。
種を蒔くべき土が、まだそこにない。
高山はポケットに手を入れた。
煙草を取り出した。
咥えた。
火はつけなかった。
それでも、捨てなかった。
◆
ひとみの店に、新しい客が来るようになったのは、年が明けた頃からだった。
規制緩和のことをネットで知って来た、という人間が増えた。「ここにそういう店がある」という情報が、どこかで流れたらしかった。
ひとみは断らなかった。来る人間を選ばない。それが、この店のやり方だった。
ただ——違いは、すぐにわかった。
かつての常連たちは、何かを失った人間たちだった。夜の世界で生きてきて、それを奪われた人間たちだった。あの頃の温もりを知っていて、それを恋しがっている人間たちだった。
新しい客たちは、違った。
悪い人間ではない。むしろ、好奇心旺盛で、礼儀正しい人間が多かった。
でも、「初めて来た」という顔をしていた。
あの頃を知らない。失ったものがない。ただ、規制が緩んだから、どんなものか見に来た——そういう顔だった。
ひとみはその顔を見て、何も言わなかった。
グラスを磨いた。酒を注いだ。話しかけられたら話した。
カウンターの向こうに座っている人間が誰であれ、ひとみのやることは変わらない。
ただ——閉店後、一人でグラスを磨きながら、思った。
戻ってきた。
でも、何が戻ってきたのか。
自分が守ろうとしてきたものは、戻ってきたのか。
答えが出なかった。
「椿」から持ち出してきた、古いグラスを手に取った。
磨いた。
傷がある。欠けていない。それだけの時間を一緒に生きてきた。
光にかざした。
曇りは、なかった。
それだけは、変わらなかった。
◆
品川が出版社に写真集の企画を持ち込んだのは、春になってからだった。
タイトルは『等身大』にした。めぐみとアミの写真を中心に、地下で表現を続けてきた人間たちの記録を一冊にまとめたものだった。
最初の出版社は、丁寧に断った。
「規制緩和されたとはいえ、現時点では書店への配架が難しく——」
次の出版社も、断った。
「コンテンツ自体は問題ないのですが、クレーム対応のコストが見えなくて——」
三軒目も、断った。
「うちの読者層には少し早いかもしれなくて——」
品川は断られるたびに、次の出版社に連絡した。感情を持たない声で、同じ説明をした。断られても、顔を変えなかった。
五軒目を断られた夜、高山に電話した。
「どこも、置けないと言う」
「そうか」
「規制が緩んでも、現場が動かない」
「わかってた」高山は言った。「法律が変わっても、人間の習慣はすぐには変わらない。クレームが怖い。前例がない。保守に回る方が楽だ。それだけのことだ」
「それだけのことか」
「そうだ」高山は続けた。「だから、続けるしかない。十軒断られたら、十一軒目に行く。それだけだ」
品川は電話を切った。
机の上に、写真集のダミー本が置いてあった。
自分で製本した、仮のものだ。表紙に『等身大』と書いてある。
手に取った。
ページを開いた。
めぐみがステージに立っていた。
アミとのツーショットがあった。
あの三枚目の写真があった。ステージの端で、少し俯いている。内側から何かが滲み出ている、あの一枚が。
品川はそのページを、しばらく見た。
本物だった。
この写真は、本物だった。
本物が、どこにも置けないと言われている。
品川はダミー本を閉じた。
また開いた。
また閉じた。
ページを捲る音だけが、静かな部屋に響いた。
◆
その夜、めぐみは一人でアパートにいた。
スマートフォンに、それぞれから連絡が来ていた。
アミから。「今日、表のステージに立った。半分しか来なかったけど、続けます」
高山から。「出版社の件、まだかかる。でも、書き続ける」
ひとみから。「新しい客が来るようになった。少し違う感じがするけど、続ける」
品川から。「書店が断り続けている。十一軒目を探す」
めぐみはそれぞれのメッセージを読んだ。
返信した。
全員に、同じ言葉ではなく、それぞれに違う言葉で。
アミには「来週も行きます」と。
高山には「読み続けます」と。
ひとみには「また降りていきます」と。
品川には「必ず出してください」と。
送信して、スマートフォンを置いた。
窓の外を見た。
春の夜だった。
規制が緩んでいる。
でも——戻っていない。
失われた時間は、戻らない。その時代を生きた人間の記憶は、規制が緩んでも戻らない。あの頃を知らずに育った世代は、知らないままだ。
溝がある。
深い溝が、残っている。
それは埋まらない。
めぐみにはわかっていた。取り戻せるものと、取り戻せないものがある。
自分が取り戻そうとしたのは——本当は、取り戻せないものだったかもしれない。
あの雑誌の写真を見て感じた衝撃。あれは、あの時代を生きた人間が感じていたものとは、きっと違うものだった。後から来た人間の、憧れと発見だった。
それは本物だったか。
本物だった、とめぐみは思う。
でも、あの時代を生きた人間が感じていたものと、同じではない。
そのことが——今夜は、静かに、確かに、わかった。
めぐみはノートを取り出した。
ペンを持った。
書き始めた。
取り戻せるものと、取り戻せないものについて。
溝について。
それでも、やる意味があることについて。
うまくはなかった。
でも、書いた。
書き続けた。
あの古書店で雑誌を見た夜から、ずっとそうしてきたように。
言葉が足りなくても、書きながら探す。
それしか、めぐみには知らない方法だった。




