承久の乱②
足利義氏の軍勢は東海道軍に合流、軍勢は十万余騎に膨れ上がった。
平九郎はその中にいた。
桃井義助が馬を寄せて来て、「平九郎殿。我が軍に加勢頂き、まことに心強く、そなたが居てくれるだけで、我が軍は負けぬと、そう思えます」と言って、「がはは」と豪快に笑った。
「これだけの軍勢が集まるなど、壇ノ浦以来ですな」と平九郎が言うと、義助は「面白いことを言う。壇ノ浦と言えば四十年も前の話。平九郎殿が生まれる前の戦でござろう」と言って、また「がはは」と豪快に笑った。
「大軍なれど油断めさるな。富士川の戦いでは、平家は七万騎を集めましたが、水鳥の羽音に驚き、干戈を交えることなく、敗走いたしました」
「見て来たように言われる。あれは、武田勢でしたな」
富士川の戦いで平家に攻め寄せたのは甲斐源氏の武田信義の軍だった。武田信義は東山道軍を率いる武田信光の父だ。武田信義の軍が後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れることから、水鳥が驚いて一斉に飛び立った。
「万が一、我が軍が負けるようなことがあれば――」
平九郎は自分が殿を勤めると言いたかったのだが、義助は「なあに。そうなれば、院にお味方いたし、鎌倉に攻め入るまで」と言った。
「裏切るのですか?」
「さにあらず、機を見て勝馬に乗ります」
「しかし・・・」
「我が軍に参加している武士どもは皆、同じ心構えでありましょう」と義助は平然と言った。
転んでもただでは起きない。坂東武者だ。
義氏の軍に混じって行軍していると、狩野宗茂軍の若い武者と轡を並べる形になった。
「奥州清川の住人、斎藤平九郎と申す。訳あって上総三郎(足利義氏)殿の陣を借りております」と挨拶をすると、若武者は「狩野介入道(宗茂)が家臣、深津三郎忠光ともうします」と礼儀正しくお辞儀をした。
若い。まだ戦には早い年に見えた。
「当主に代わって参陣いたしました」と忠光が甲高い声で言う。声変わりもまだの様子だ。
当主、深津信忠を病で亡くしたばかりで、年端も行かぬ忠光が当主に代わって参陣して来たようだった。
「左様か。戦では共に戦いましょう」と平九郎が言うと、忠光が「はい」と嬉しそうな顔をした。その笑顔は無邪気で、しかもどこか華やかだった。
平九郎が守ってやらねば、戦で生き残ることは出来ないような気がした。
上皇軍は尾張川に布陣した。
東海道軍、東山道軍は尾張国で合流した。尾張川には浅瀬が九か所あり、九瀬と呼ばれていた。軍議が開かれ、評議の上で軍を以下のように分けた。鵜沼渡には毛利季光、池瀬には足利義氏、板橋には狩野宗茂、摩免戸には北条泰時、墨俣には北条時房、そして東山道を進んで来た武田信光と小笠原長清が率いる軍が合流、大井戸渡から渡河を強行した。
上皇軍はただでさえ少ない軍を分散させるという愚策を取った。
平九郎は義氏軍を離れ、深津忠光に駆け寄せた。鎌倉方は川を渡ると、上皇方の朝日頼清ら千騎が陣を張る軍に襲い掛かった。
深津忠光が駆け出そうとするのを「三郎殿。暫し、お待ちあれ。矢が参るぞ」と平九郎は止めた。朝日頼清が放った矢が雨あられと降り注ぐ。平九郎は忠光の馬前に馬を進めると、降り注ぐ矢を刀で薙ぎ払った。
「さあ、三郎殿。参ろうか」と平九郎が忠光に声をかける。
忠光が強張った顔で「いざ参らん!」と応じた。
平九郎は忠光を引き連れ、敵陣に攻め入った。巧みに馬を操り、忠光へ繰り出される槍を払いながら、敵を討ち取って行く。その様は舞を舞っているかのように華麗だった。平九郎と忠光は敵を薙ぎ払いながら進んで行った。
「三郎殿。もそっとゆっくり進みましょう」と平九郎が言う。
血気に煽られ、忠光は前に前にと進もうとする。あまり前に出られると、平九郎の援護が追いつかなくなる。忠光の弓勢は弱く、太刀筋には力が足りなかった。体も細い。単騎で進めば、直ぐに敵の餌食となってしまうだろう。
案の定、敵の放った矢が忠光の肩辺りに突き立った。鎧を着ているので、致命傷にはならないだろうが、矢を受けて肝をつぶしたのか、忠光が落馬してしまった。
背中から地面に落ちたようで、忠光は気を失ってしまった。
「これはしたり」
平九郎は馬から飛び降りると、いち早く忠光のもとに駆けつけ、軽々と忠光を肩に担ぐと馬に載せ、相乗りすると鞭を打って、すたこらさっさと逃げ出した。
多勢に無勢だ。無理をする必要はない。それに、上皇方は既に敗走を始めていた。
落ち武者狩りに興味はない。
平九郎にとって戦とは、良き相手に恵まれることだった。




