承久の乱①
平九郎は下野国足利荘にいた。
鎌倉での権力闘争に嫌気がさした平九郎は、故郷の奥州清川に帰ろうとしたが、下野国まで来たところで戦に巻き込まれた。戦があると聞き、見晴らしの良い丘をみつけ、そこで高みの見物を決め込んだ。周囲は戦見物なのか、戦から非難して来たのか百姓たちで溢れていた。
物知り顔の百姓が言うには、足利同士の戦だとのこと。一族内部の抗争かと思ったが、同じ足利でも違う一族らしい。
一方は藤原姓の足利だが、もう一方は源姓の足利だと言う。同じ足利荘を地盤としており、足利を名乗っている。
「おうっ! 源家の一族か⁉」と平九郎が聞くと、当主は武家の棟梁として名を馳せた八幡太郎義家の玄孫だと百姓は答えた。
「名は何という?」
――足利義氏殿。
と百姓が答えた。
源頼朝の一族は主、義経を滅ぼした憎き一族だが、旧主、義経も源氏の一族だ。主の親戚というだけで好感が持てた。
やがて戦が始まると、義氏軍の旗色が悪い。
平九郎の血が騒ぐ。
平九郎も武士だ。結局、戦を前に、高みの見物を決め込むことなど出来なかった。平九郎は馬を駆ると、戦場へと駆け入った。
「奥州清川が住人、斎藤平九郎と申す。訳あってお味方いたす。各々方、後に続かれよ~!」
平九郎はそう怒鳴りながら、先頭を駆けた。
雨の様に降り注ぐ矢を払いのけ、敵陣に駆け込むと、群がる敵をなぎ倒して行く。その武者振りに感動した足利義氏が声を上げる。「おおっ! 良き武者よ。あの者を死なせるな!」
義氏軍は盛り返し、藤原姓足利氏を散々に蹴散らした。
義氏軍の勝利を見届けると、平九郎は陣を去ろうとしたが、「暫し、暫しお待ちあれ。このまま去られては、足利一門の恥となりましょう」と一人の武者が、まるで通せんぼをするかのように両手を広げて立ち塞がった。
桃井義助と言う武者で、足利次郎と呼ばれていた。足利義氏の兄だった。
坂東武者は戦になれば親兄弟の死体を乗り越え、戦い続ける強靭さを見せるが、平素は気の良いものが多い。桃井義助は奥州武者の平九郎を珍しがり、「ここにいてくだされ。すきなだけいてもらって結構です」と引き留めた。
二、三日、厄介になったら、直ぐに出立するつもりだったが、「いやいや。も少し、いてくだされ」、「家のものたちが戦話を聞き違っております。もう少しだけ、お付き合いください」と袖を引かんばかりにして、引き留められ続けた。
結果、平九郎はずるずると足利家の家人のようにして暮らしていた。
やがて、義助から「我が家の娘をもらってはくれぬか?」と縁談まで持ち出された。嫁を取れば「うつりぎの術」が知られてしまう。「申し訳ありませぬが、いずれは奥州に戻らねばならぬ身」となんとかやり過ごしていた。
そんなある日、近々、大戦があるという噂が足利荘に聞こえて来た。
――朝廷と鎌倉で戦になるらしい。
足利家の家人たちは、大声でだが、ひそひそと噂し合った。丸聞こえだ。
後鳥羽上皇は意に沿わぬ大内守護の源頼茂の討伐を京の武士たちに命じた。頼茂は屋敷に火を放って自害したが、この火により大内裏が焼け落ちてしまった。
大内裏を再建する為に、後鳥羽上皇は賦役を命じようとしたが、鎌倉府はこれに反対した。もともと、地頭の任免に於いて朝廷と鎌倉は衝突を繰り返しており、実朝亡き後の将軍継嗣問題では、後鳥羽上皇の皇子を将軍として迎えたいという鎌倉の要望を後鳥羽上皇は一蹴してしまった。
朝廷と鎌倉との関係は悪化の一途を辿っていた。
朝廷の権威回復を目指す後鳥羽上皇は、鎌倉府を牛耳る北条義時の討伐を決意した。
不穏な情勢が続いていたが、鎌倉の武士たちは、まさか後鳥羽上皇が義時追討の院宣を出すとは思ってもいなかった。ここに於いて、武士たちは朝廷に着くのか、鎌倉につくのか、選ばねばならなくなった。
「当家にも院宣が届いているらしい。執権殿を討てとの仰せだ」
後鳥羽上皇は鎌倉府執権、北条義時追悼の院宣を全国に発していた。
「執権殿を⁉」
「殿は院と執権殿のどちらにお味方されるのであろう?」
「それは執権殿だろう。院に味方して何になる。院が所領を安堵してくださる訳でもなし」
「されど院宣を無視して良いものか」
「殿は執権殿の縁者だ」
足利義氏は北条義時の子、泰時の娘を正妻として迎えていた。
「鎌倉からは、何と言って来ている?」
「執権殿よりの御使者が当家に来ているようだ」
戦が近い。それも古今稀に見る大戦になりそうだ。平九郎の血が騒いだ。
上皇挙兵の報に接した鎌倉は、宣戦を布告し、軍を東海道軍十万騎、東山道軍五万騎、北陸道軍四万騎の三つに分け、進軍を開始した。
院宣を出しさえすれば、武士たちがこぞって北条義時を討つものと思っていた上皇軍は慌てて迎撃軍一万七千五百を派兵した。
こうして圧倒的戦力差の中、上皇軍と幕府軍が激突しようとしていた。
承久の乱の勃発だ。




