第8話「船上の晩餐と伝説の海竜」
数日後。タクミとセレンを乗せた大型帆船は、港町の人々の見送りを受け、真っ青な外海へと漕ぎ出していた。
甲板には、かつて黒鯱商会でゴロツキとして働いていた男たちの姿もある。
彼らは今や、タクミの提示した正当な給与と待遇によって、再び船乗りとして働いていた。
船の甲板は広く、積み込まれた樽や木箱が整然とロープで固定されている。
港町で手に入れた独自の流通ルートは、いまやこの船という巨大な移動倉庫によって、世界中どこへでも価値を運べる力となった。
「帆を上げろ! 風を読め! 俺たちの新しいボスのために、気合を入れて働くんだ!」
元ゴロツキの船長の威勢の良い号令が響く中、タクミとセレンは船長室に隣接した豪華な食堂で、昼食をとっていた。
「すごいわ、タクミ。揺れる船の上でこんなに美味しいご飯が食べられるなんて」
セレンが目を輝かせながら、テーブルに並んだ料理を口に運ぶ。
航海中の食事といえば、石のように硬い干し肉と塩漬けの魚、虫の湧いたビスケットが相場だ。
しかし彼らのテーブルには、港町で仕込んだ新鮮な野菜のピクルスと、表面を香ばしく焼き上げた分厚いベーコン、そしてふっくらと温かい白粒麦が並んでいる。
タクミの『エンジェル投資』によって保存性を限界まで高められた食材たちは、時間が経ってもその鮮度を一切落とすことがないのだ。
「君の仕込みが見事だからな。塩加減と香草の使い方が絶妙だ。これなら、何ヶ月海の上にいても飽きることはない」
タクミがベーコンの脂の甘みに舌鼓を打っていると、不意に船全体が大きくグラリと揺れた。
「きゃっ!?」
セレンがバランスを崩し、タクミが咄嗟にその細い腕を掴んで支える。
直後、甲板から船乗りの悲痛な絶叫が響き渡った。
「て、敵だァァッ!! 巨大な魔物が出たぞォッ!!」
タクミがセレンを庇いながら甲板へと飛び出すと、そこには身の毛もよだつような光景が広がっていた。
船の真横の海面が不気味に大きく盛り上がり、巨大な水柱と共に、うねるような長い首が姿を現したのだ。
青黒い強靭な鱗に覆われた表面、船の帆柱よりも太い胴体、そして獲物を丸飲みにできそうな巨大な顎。
伝説に名高い海の魔物『シー・サーペント』だった。
「だ、駄目だボス! 大砲を撃ち込んでも、あの硬い鱗には傷一つ付かねぇ! 船を沈められちまう!」
船長が顔面を蒼白にして叫ぶ。
シー・サーペントが大きく口を開け、鼓膜を破るような耳障りな咆哮を上げた。
その口の奥には、鋭く尖った無数の牙がびっしりと並んでいる。
船乗りたちが恐慌状態に陥り、セレンも恐怖で顔をこわばらせてタクミの背中にしがみつく。
ただ一方的に蹂躙されるだけの、逃げ場のない危機。
しかし、タクミの瞳に恐怖の色はなかった。
彼は甲板の最前線に立ち、見上げるほど巨大な魔物に向けて、冷静に『真贋鑑定』のスキルを発動させていた。
「……おいおい。嘘だろ」
浮かび上がった鑑定結果の文字を読み取り、タクミの口角がにやりと吊り上がる。
『深海竜の幼体』
『素材価値:規格外(王都の貴族すら口にできない至高の珍味)』
『特徴:非常に凶暴だが、大量の強い辛味成分をエラから吸収すると全身が麻痺する特性を持つ。肉質は極上の霜降り肉に匹敵する』
「ただのバケモノかと思ったら……とんでもない『泳ぐ高級食材』じゃないか」
タクミの瞳が、かつてないビジネスチャンスを見つけた投資家のように鋭く光った。
「船長! 大砲は止めろ! 倉庫にある『炎魔の涙』を袋に詰め、甲板の投石機で奴のエラに向かって撃ち込め!」
タクミの突拍子もない指示に、船長は一瞬目を丸くしたが、すぐさま我に返って怒鳴った。
「お、おう! 野郎ども、ボスの言う通りにしろ! 香辛料の粉を袋に詰めて投石機に載せろ!」
『炎魔の涙』――かつて二人が最初の街で大金を生み出した、あの強烈な辛味と酸味を持つ激辛スパイスである。
タクミは買い集めたスパイスを乾燥させ、粉にして、新たな事業の種として船倉に積んでいたのだ。
船員たちは粉を布袋に詰めて甲板へと運び、投石機に次々と載せていく。
魔物が再び巨大な顎を開き、船そのものを噛み砕こうと首を振りかぶった。
その瞬間、投石機が続けざまに放たれた。
空中で布袋が破れ、赤い粉末が煙幕のように海面を覆い尽くし、巨大な魔物の顔面とエラ周辺へ降り注いだ。
「ギャァァァァッ!!」
粉末をエラから吸い込んだシー・サーペントは、予想外の苦しみに巨大な体を激しくのたうち回らせる。
海面が荒れ狂い、大量の海水が甲板に降り注いだ。船が木の軋む音を立てて大きく傾いた。
しかし、数秒もしないうちにその暴れ狂う動きは嘘のようにピタリと止まり、やがて白目を剥いてプカプカと波間に浮かび上がった。
見事な全身麻痺だった。
「……す、すげぇ。あの伝説のバケモノを、香辛料だけで仕留めちまった……」
船員たちが呆然と海面を見下ろしていると、タクミがすかさず次の指示を飛ばした。
「仕留めたんじゃない、動けなくしただけだ。鮮度が落ちる前に、急いでクレーンで甲板に引き上げろ! 氷の魔石をかき集めて冷やすんだ!」
ただの魔物討伐ではない。
これは極めて価値の高い食材の仕入れなのだ。
巨大な獲物が甲板に引き上げられると、タクミはセレンを振り返り、悪戯っぽく笑いかけた。
「さあ、セレン。君の包丁で、あの巨大な肉の塊を最高級のステーキに変えてくれ。今夜は船上パーティーだ」
安全を確保して海竜を仕留め、解体と下処理を終えたその日の夜。
甲板には、船乗りたちが大急ぎで設置した大きな焼き台と、冷やされたエールをたっぷり注いだ大きな木樽がずらりと並べられていた。
満天の星空の下、波の音に混じって男たちの笑い声が響き渡る。
焼き台の中央では、セレンがさばいた巨大なシー・サーペントの肉厚なステーキが、ジュワジュワと香ばしい音を立てて焼かれていた。
「ほら、みんな! 焦げないうちにどんどん食べてね!」
セレンの手際よく切り分けられた肉の塊が、次々と船乗りたちの木の皿に配られていく。
タクミも自分の皿を受け取り、金属のフォークを突き刺した。
ナイフを入れると、分厚い肉は驚くほど柔らかく、断面から溢れ出した透明な肉汁が皿の上でキラキラと輝く。
一口かじると、口内いっぱいに爆発的な旨味が広がった。
「……美味い。最高級の霜降り肉のようなとろける脂の甘みと、野性味あふれる赤身の力強さが同居している。これなら、王都の貴族たちが金貨を山積みにしてでも食べたがるはずだ」
タクミが感嘆の声を漏らすと、船乗りたちからも次々と歓声が上がった。
「うめぇ! 何だこの肉、噛む前に口の中で溶けちまったぞ!」
「伝説のバケモノの肉が、こんなに美味ぇなんてよ! さすがは俺たちのボスと、天才料理人のお嬢ちゃんだぜ!」
次々と肉を頬張る男たちを見て、セレンも誇らしげな笑顔を浮かべる。
タクミは美しい星空を見上げながら、手元のグラスに入った冷たいエールを喉の奥へ流し込んだ。
まだ見ぬ新大陸での新たなビジネスに向けて、彼らの士気はかつてないほどに高まっていた。
◆ ◆ ◆
宴が一段落し、船乗りたちが甲板のあちこちで酔い潰れて眠り始めた頃。
タクミは船首の舳先にもたれかかり、夜風に吹かれながら海図を眺めていた。
背後から、温かいお茶の入ったカップを持ったセレンが近づいてくる。
「タクミ、あまり無理しないでね。今日は急な魔物の襲撃で、疲れたでしょう?」
「いや。むしろ最高の気分だ。あの規格外の魔物すら、俺たちのビジネスの糧になる。この先どんな困難が待っていようと、すべて利益に変えてやるさ」
タクミがカップを受け取りながら不敵に笑うと、セレンもつられるように小さく笑い声をこぼした。
船は順調に風を切り、新大陸への航路をまっすぐに進んでいく。




