第5話「海辺の焚き火と幻の濃厚貝」
海鮮丼の屋台は、翌日から港町の市場で凄まじい売れ行きを見せた。
「大将、こっちにエビを多めで三つ頼む!」
「わかった、すぐに出すから順番に並んで待っててくれ!」
タクミが的確な指示で押し寄せる客をさばき、セレンが絶え間なく新鮮な魚を切り分け、温かい白粒麦に盛り付ける。
かつては閑古鳥が鳴いていたうらぶれた漁業ギルドの直売所前は、今や身動きが取れないほどの人だかりができていた。
頑固なギルド長の男も裏方として魚の下処理を手伝い、その顔には疲労よりも深い充実感が刻まれている。
怒涛のような昼時のピークが過ぎ去り、客足が途絶え始めたのは、空が鮮やかな茜色に染まり始めた頃だった。
「いやぁ、まさか本当にうちの魚が全部売り切れる日が来るとはな……。しかも、こんな高値でだ」
ギルド長は空っぽになった巨大な保冷用の木箱を見つめ、感慨深げに太い指で鼻をこすった。
「約束通り、利益はきっちり折半だ。これでギルドの負債も返せるし、網の修繕など立て直しも本格的に進むだろう」
タクミがずっしりと重くなった銀貨の袋を渡すと、ギルド長は無言で深く頭を下げた。
「あんたたちには一生恩に着る。……そうだ、待っててくれ。これは俺からの個人的な礼だ。数が少なすぎて市場には出回らねぇ、漁師だけがこっそり食ってる特別な貝だ。夜にでも二人で食べてくれ」
海水が滴る重い麻袋を押し付けられ、タクミとセレンは顔を見合わせて口角を上げた。
屋台の片付けを終えた二人は、熱気とざわめきに包まれた港町を離れ、町外れにある静かな入り江へと向かった。
昼間の喧騒は嘘のように引き、心地よい冷たさを含んだ夕暮れの海風が、二人の火照った頬を撫でる。
「わあ……きれい。波の音しか聞こえないわ」
革靴を脱ぎ、裸足になって白い砂浜に降り立ったセレンが、打ち寄せる波打ち際で駆け出す。
タクミは少し離れた乾いた砂の上に腰を下ろし、麻袋を横に置いて、その背中を視線で追った。
風に煽られた銀糸の髪が、夕日に透けてキラキラと輝いている。
はしゃぐ彼女の横顔には、出会った頃のすり減った少女の面影はない。
ただ年相応の、あどけない柔らかさがあった。
ふいに、胸の奥底でこれまで感じたことのない微かな熱がじんわりと広がる。
彼女の笑顔を、ただのビジネスパートナーとしてではなく、一人の女性として大切にしたいと思い始めていた。
(……これが、俺の本当に求めていたものか)
過酷なブラック企業の営業マン時代には、海を見に来るだけの余裕など一秒たりとも存在しなかった。
今、目の前に広がる穏やかな海面と、波と戯れる彼女の姿。
タクミは深く息を吸い込み、海潮の清冽な空気を胸いっぱいに満たした。
「タクミ、早く! ギルド長からもらったあの貝、ここで焼いて食べましょうよ!」
波打ち際から振り返り、セレンが大きく手を振る。
傾きかけた夕日を背に受けた彼女の笑顔は、市場で見かけたどんな宝石よりも眩しくタクミの目に映っていた。
砂浜に漂着していた手頃な流木を集め、小さな焚き火を熾す。
オレンジ色の炎がパチパチと音を立てて燃え上がり、薄暗くなり始めた砂浜で二人の顔を照らし出した。
ギルド長から貰った麻袋を開けると、中には大人の拳ほどもある巨大な二枚貝がごろごろと入っていた。
殻の表面は岩のようにごつごつとしているが、タクミの『真贋鑑定』には『素材価値:極大(幻の濃厚貝)』の文字がはっきりと浮かんでいる。
セレンが愛用のナイフで重い殻を開け、市場で買っておいた少しの酒と、特製ソイ・ソースを数滴だけ垂らして焚き火の網の上に乗せた。
グツグツと沸騰する小さな音と共に、ソイ・ソースの焦げる香ばしい匂いと、濃厚な磯の香りが辺り一面に広がり始める。
「……もういいわ。すごく熱いから気をつけてね」
貝殻ごと差し出されたそれを、タクミは慎重に受け取る。
中の身はプリプリと大きく膨れ上がり、琥珀色の透明なスープが殻の底にたっぷりと溜まっていた。
ふーふーと息を吹きかけ、まずはそのスープを一口すする。
タクミは思わず目を見開き、手元の貝殻を見つめ直した。
貝の持つ強烈な旨味と甘みが、焦げたソイ・ソースの塩気と見事な調和を生み出している。
海そのものを限界まで濃縮して飲んでいるかのような、深く奥ゆかしい味わいだ。
続いて分厚い身に直接かぶりつくと、心地よい弾力のある歯ごたえと共に、さらに濃厚な旨味のエキスが口内いっぱいにあふれ出した。
「……最高だ。これ以上の贅沢は、王都を探しても見つからないだろうな」
タクミが感嘆を漏らすと、隣で同じように貝を頬張っていたセレンも、熱さに目を細めながらコクコクと頷いた。
「うん、すっごく美味しい……。今日の疲れが全部飛んでいっちゃうくらい」
二人は次々と貝を網に乗せては、その極上の味を静かに堪能した。
やがて胃袋がすっかり満たされた頃には、空は深い夜の闇に包まれ、無数の星々が波の音に合わせて瞬き始めていた。
焚き火の赤みを帯びた小さな炎だけが、二人の間にある光源だ。
パチッ、と薪が小さくはぜる音が鳴る。
セレンは体操座りをして膝を抱え、炎を見つめたまま、夜風に溶けるような声で口を開いた。
「……ねえ、タクミ」
「ん?」
「私、タクミと出会えて本当によかった。あのまま街の裏通りで一人きりだったら、きっと今頃、心がすっかり折れてたと思う」
セレンがゆっくりと顔を向け、紫色の瞳でタクミをまっすぐに見つめる。
寄せては返す波の音が、二人の間に落ちた静寂を埋めていく。
タクミは言葉を返す代わりに、そっと右手を伸ばし、砂浜に置かれた彼女の小さな手に自分の手を重ねた。
セレンは少し驚いたように肩をビクッとさせたが、決してその手を離すことなく、タクミの大きな手の温もりを確かめるように、そっと指を絡めて握り返してきた。
(……この温もりは、絶対に手放さない)
タクミは彼女の柔らかな横顔を見つめながら、静かにそう決意する。
二人の手が重なり合ったまま、港町の夜は更けていく。
心地よい波の音と、焚き火のはぜる音が周囲を包み込んでいた。
明日はまた、新たなビジネスと忙しい日常が二人を待っている。
しかし今夜だけは、タクミは静かに燃える炎と、隣に座る彼女の存在だけをただ深く噛み締めていた。
やがて夜風が一段と冷たさを増し、タクミは静かに立ち上がって衣服についた砂を払った。
港町での大きな利益は、同時に新たな火種を生む。
閉鎖的な市場でこれだけ目立つ動きをすれば、既存の流通を牛耳る特権階級や悪徳商会が黙っているはずがない。
前世でも、新規参入者が既得権益層から受ける陰湿な洗礼は数え切れないほど見てきた。
(……来るなら来い。どんな手段で来ようと、俺たちが全て喰い破ってやる)
タクミは暗い夜の海を見据え、冷徹なビジネスマンとしての思考を密かに研ぎ澄ませていた。
その背中を、セレンが小さな手で優しく引く。
「タクミ、もう戻りましょう。明日に備えて、ゆっくり休まなくちゃ」
「……ああ、そうだな。帰ろう」
険しい表情をふと緩め、タクミは彼女の待つ馬車へと歩き出した。




