第3話「馬車の旅と星空の絆」
朝靄がまだ石畳の間に白く滞留しているうちに、タクミとセレンは街の出入り口に隣接する馬車留めへと向かっていた。
昨日のすさまじい売り上げは、彼らにかつてないほどの資金をもたらした。
タクミは手持ちの銀貨を惜しげもなく使い、荷台の広い頑丈な木張りの幌馬車と、毛並みの良い栗毛の馬を一頭丸ごと購入した。
馬具や長旅に耐えうる予備の車輪まで揃えても、木箱の底にはまだ十分な硬貨が鈍い輝きを放っている。
「本当に、こんなに立派な馬車を買っちゃってよかったの……?」
セレンは真新しい厚手の幌の手触りを指先で確かめながら、まだ信じられないといった様子で何度も目を丸くしている。
これまではその日暮らしの粗末な屋台一つと、継ぎ接ぎだらけの衣服が彼女の全財産だったのだ。
「商売の基本は、移動力と積載量だ。それに、これから色々な街を回って美味いものを探すなら、君に野宿ばかりで負担をかけるわけにもいかないからな」
タクミは手綱を握りしめ、馬のたくましい首筋を軽く手のひらで叩いた。
馬が短くいななき、太い車輪が石畳から未舗装の土の道へと力強く踏み出す。
ゴトゴトという低く重い振動が、木製の座席から全身へと伝わってくる。
街の高い城壁が背後で少しずつ遠ざかり、見渡す限りの青空と、地平線まで続く緑の平原が視界いっぱいに広がった。
ブラック企業の窓のないオフィスでは決して見ることのなかった、果てしない解放感。
タクミは大きく深呼吸をし、異世界の澄んだ冷たい空気を肺の奥底までたっぷりと吸い込んだ。
太陽が中天に差し掛かり、日差しが肌をじりじりと焦がし始めた頃、二人は街道沿いの大きな木陰に馬車を停めた。
「お昼にしましょう。今朝仕込んだお肉と、市場で買ったライ麦パンがあるわ」
セレンが荷台から手際よく、使い込まれた調理器具を取り出し、石を組んで簡易的な焚き火台を作り、素早く火を熾す。
彼女の手つきは、揺れる馬車の旅で少しは疲れているはずなのに、どこか羽が生えたように弾んでいた。
小さな鉄鍋に上質なオリーブオイルを引き、薄くスライスした野豚の肉と、硬い黒パンを一緒に炒める。
昨日手に入れたあの『炎魔の涙』を少しだけ刻んで加えると、鍋の底で油がはぜ、食欲を強烈に刺激するあの酸味と辛味が混ざり合った香りが立ち昇った。
「はい、どうぞ。熱いうちに食べてね」
差し出された木の皿を受け取ると、肉の旨味とスパイスの香りをたっぷり吸い込んだパンが、湯気を立てていた。
タクミはそれを一口かじり、熱さと美味さに目を細める。
「美味い。冷たくて硬かったはずのパンが、肉汁とスパイスのおかげで極上のごちそうに化けている」
「ふふっ、よかった。タクミが美味しいって言ってくれるのが、一番嬉しいかも」
セレンは自分の分のパンを両手で持ち、小さくかじりながら、はにかむように柔らかく笑った。
その笑顔には、出会ったばかりの頃の暗い陰りや、張り詰めた警戒心はほとんど残っていない。
彼女の細い肩の力が抜け、ただ純粋に料理を作る喜びを取り戻しているのが、タクミの目にもはっきりと映っていた。
食後の休憩中、タクミは荷台に広げた古びた羊皮紙の地図を指差した。
「この街道をまっすぐ南へ進めば、明日の夕方には大きな港町に着くはずだ」
「港町……新鮮なお魚がたくさんあるところね。でも、タクミはどうして最初からそこを選んだの?」
セレンが首を傾げ、地図の上をなぞるタクミの指先を見つめる。
タクミは地図から顔を上げ、彼女の紫色の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「俺のスキル『真贋鑑定』は、物の真の価値を見抜く。だが、それはあくまで『可能性』を数値や文字として提示するだけだ」
タクミはそこで言葉を区切り、パチパチと音を立てて燃える焚き火の残り火へ視線を落とす。
「どんなに素晴らしい可能性があっても、それを形にする確かな技術と、熱意がなければ何の意味もない。俺が探しているのは、ただ金になるだけの商材じゃない。君のように、食材の価値を最大限に引き出せる腕を持った人間だ」
セレンは小さく息を呑み、言葉を失った。
これまでの人生で、没落した彼女を不当に買い叩き、都合よく利用しようとする人間はたくさんいた。
しかし、タクミは最初から最後まで、彼女自身の料理人としての誇りに深い敬意を払い、常に対等な立場で接してくれている。
「だから、港町でも俺は君の腕を頼りにしている。海の幸を使った新メニュー、大いに期待しているぞ」
タクミの言葉に、セレンは力強くうなずいた。
夜は街道から少し外れた、風除けになる岩山のふもとにある野営地で迎えた。
馬車に張られた幌の下、二人は厚手の毛布にくるまりながら、ランタンの小さなオレンジ色の灯りを囲んでいた。
タクミが小さな鍋で淹れた温かいハーブティーの湯気が、夜の冷たい空気に白く溶けていく。
「……ありがとう、タクミ」
カップを両手で包み込み、その温もりを確かめるようにしながら、セレンが小さな声でつぶやいた。
「何がだ?」
「私を見つけてくれて。私の料理を、美味しいって言ってくれて」
彼女の細い肩が、微かに震えている。
言葉の端々に、これまでの孤独と辛さがにじんでいた。
タクミは無言のまま、自分の木製のカップを彼女のカップに軽く当てた。
カチン、と鈍い音が響く。
「俺の方こそ、君の料理に命を救われた。あれがなかったら、俺は今頃あの路地裏で野垂れ死んでいただろう」
タクミは空を見上げた。
幌の隙間から、現代日本では絶対に見ることのできない、澄み切った満天の星が瞬いている。
「さあ、明日に備えて寝よう。港町に着いたら、また忙しくなるぞ」
「うん……おやすみなさい、タクミ」
温かい茶の心地よい余韻が引く頃、焚き火の爆ぜる音が鳴った。
ふと視線を向けると、セレンは無防備な寝息を立て、タクミのコートの袖を小さな指でぎゅっと握りしめていた。
その指先をほどく気になれず、タクミはただ静かに薪をくべ直した。
翌朝。
馬車の幌を叩くリズミカルな小鳥のさえずりで、タクミはゆっくりと目を覚ました。
隣を見ると、セレンは毛布にしっかりとくるまり、まだスヤスヤと穏やかな寝息を立てている。
その寝顔は、過酷な生活を微塵も感じさせない、年相応のあどけなさがあった。
タクミは彼女を起こさないよう、音を立てずに馬車を降りる。
ひんやりとした朝の空気を、肺の奥まで吸い込んだ。
大きく伸びをしてから、彼は手際よく朝食の準備に取り掛かった。
港町への道のりは、まだ半日ほど残っている。
新たな出会いと未知のグルメを求めて、二人の馬車は再び朝霧の立ち込める街道を出発するのだった。




